車椅子でGO
雨上がりの晴れた空はやっぱり気持ちがいい。仕事の休みを利用して、母をあちこち病院につれてゆき、足の激痛とそれによる歩行困難の回復を願うのだけれど、今の所、「原因不明」で、「痛み止め」ばかり処方される。が、痛み止めを3週間も飲んで全然痛みが消えないのだから考えものだ。
友人がドイツでクラニオをやっていることを思い出し(患者ではなくて先生)、そうか確か彼女もこういう受難の末に、整体治療に光を見出し、その流れで、ついには施術されるほうではなく、するほうになってしまった経緯を考えた。少しでも「痛みのない」暮らしにしてあげたい。だめもとでも、痛みを緩和する努力はしてみよう。ただし、仕事の合間しか私には時間がないので、あまり遠くまでは連れてゆけない。できれば、車椅子を押してゆけるところ。タクシーを呼ぶ方法もあるが、車椅子から降ろしてタクシーに乗せるのが、むしろ厄介な作業なので、なるべく、車椅子で往復できると、介助者も気がラクなのだ。(私よりも体重の重い彼女を乗せて車椅子を押すのは、なかなか重労働ではあるけれど)
ネットで探した近くの整体院に電話をすると、口調と腕前は関係ないのかもしれないが、とても誠実な受け答えをしてくださる先生だったので、「よし。ここに行こう」と即決する。「ネットで情報を見て電話をした」というと、先方はかなり比較研究してからきたと思われるようなのだが、わたしは、意外に「斜め読み」人間なので、(というよりむしろ放っておくとかなり「深読み」しすぎてしまうタイプで、過剰深読みが災いし、判断を誤ることを、結構自戒している)、その整体の先生に、「すでにネットでご覧になったと思いますけど」と、施術の基本について聞かれたときは、ちょっとぎくっとしてしまった。それほどは、検討していなかったのだ。しかも、「整体」といっても、その先生は、「はり・きゅう」の先生で、母の症状を見てもらいながら、「あ、そうか、この先生は、はり・きゅうの先生なのだな」なんて思うほどの無知っぷりのわたしだった。
それにしても、「はり・きゅう」というのは、場合によっては「はり」をやったり、「おきゅう」をしたりと、二つの治療方法があるということなのかなと思っていたのだけれど、「はり・きゅう」でセットなのだということを、今回初めて知った。
とはいえ、結果としては、母は相変わらず今日も車椅子で、歩くと痛い、ままなのだけれど、痛み止めの薬だけを処方する整形外科よりも(この先生も優しくていい先生なのだけど)、しばらく、「はり・きゅう」に通ってみようと思っている。はりを刺されて目をとじているときの母がなんだかとてもくつろいでいい顔をしていたからだ。一回の施術で驚くべき回復という場合もあるようだけれど、「僕のなかでは、お母さんの痛みが減って歩けるようになってゆくビジョンが見えますので、よかったら、通ってみてください」と言われた先生の言葉に、すこし希望を感じていたいと思う。
ただ、母の歩行を支えたり、車椅子を押したりしてるせいで、わたしもだんだん腰が痛くなってきたぞ(笑ストレッチ、ストレッチ。
車椅子を往復1時間余かけて、えっちらほっちら押してくる家族というのは、結構、傍目には喜劇的みたいなのだけれど(タクシー使えばいいのに、って)、もともと筋力の衰えで長い歩行が困難になっていた母に、車椅子でもいいから戸外の散歩をさせてあげたかったので、車椅子をレンタルする立派な理由もできて、これはちょうどいい機会なのかなとも思っている。今のところ、お散歩に適した気候だし。
「ほら、おかあさん、公孫樹が色づいてきたわね」なんて言いながら歩く。そして、母が食べたいとも言わないのに、途中の和菓子屋さんで、おいしそうな芋羊羹を衝動買いしてはまた、「ほら、おかあさん、おかあさんの好きな芋羊羹よ」なんて言って、まるで母のために買ったかのような調子のいいことを言っている娘であった。上り坂や段差で難儀していると、道路工事の警備のおじさんが手を貸してくれたりする。どうも、ありがとう。
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追記
医学的なことは度外視して(わからないし)、母が、「痛い!!」と叫びながら、歩くことの困難を訴える姿を見つめるとき、わたしはなんだか、彼女が、「娘を一人だけ残して死にたくない。そちらの世界には、まだ行きたくない!」と、見えない何かにあらがっているように感じることがある。だから、ただ、頑張って、痛みが消えたら歩けるようになるから辛抱して、と彼女を励ましても、彼女自身の深層心理のなかで、痛みが消えることを本当に望んでいるのかどうか疑わしく思えることがある。
あるいは、それを「死」への抵抗というのが大げさとしても、「時間よ、止まれ」と彼女が無意識のうちに祈っているのではないかという気が時々するのだった。彼女が自分自身の人生のなかで引き受けなければならないことがなになのか、わたしは「彼女」ではないからわからない。ただ、彼女の傍にいる人間として、わたしが、わたしの人生を引き受ける上で、いま、どのように変わってゆけばいいかを考える絶好の機会であることは、きっとまちがいないのだ。
by kokoro-usasan
| 2016-11-15 10:26
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