「つぶ欲」がおさまるまで(おさまりました)
ほそくながぁくいろんなことを考え続ける性質ではあるのだけれど、最近、ただ、ただ、刹那的につぶやきたい欲望にかられ、「それでつまりなにが言いたいの?」というような内なる「裁きの声」に耳を塞ぎ、とにかく、だらだらと、いま思ったこと、さっき感じたことを、書き流したいのでありました。ご容赦。
これは職場の知り合いが紹介してくれた音源。「小学生でこのレベルはすごい」って。不幸にして音痴という宿命を背負ったわたしに「レベル」を云々する自信はないのだけど、久しぶりに合唱を聞いてちょっとジンときた。優しいハーモニーだなぁ。その優しさの一端は間違いなく変声期前の少年の放つ高音の美しさなんだと思う。女の子だけじゃ、この繊細さは出ないと思うのだ。
この間、3年に一度のAED講習を受けた。3回目なので、結構手順が身についてきた。運動不足の割に、息切れしなかったのが不思議。前2回は「救命訓練」でぜいぜいしてしまう虚弱さだった。3時間講習を受けて、わかったつもりになっていたが、最後の質疑応答のとき、あるひとが、「意識のない傷病者にAEDを使う場合・・・」と質問を始めた。そのとき、教官が、なぜかとても小さな声で、つっこみを入れており、そのつっこみ、本当はもっと大きな声でいうべきだったのじゃないかなって思えた。教官はそっとつぶやいたのだ、「意識のないひとじゃなくて、呼吸のないひとだからね・・・」 そう、たとえまったく意識がなくても、心臓が動いていて、呼吸しているひとにAEDは必要ない。医療関係のかたはそこをきちんとごらんになるが、一般人は慌てて、すぐAED!?ってなってしまう。たとえば、数年前のわたしのように。苦笑。呼吸を確認すること。
山崎ナオコーラさん、小説はまだ読んだことがないのだけれど、とてもよかったとすすめてくれるひとがおり、彼女のエッセー「かわいい夫」を読んだ。結論から言うと、たしかに「いい」のだった。妻よりも収入の少ない実直な書店勤務の伴侶を持つ作家が、そんな夫のかわいらしさについて、さばさばと語っている。その「さばさば」さが、なぜか、心地よく、そして、すてきに思える。夫婦というものがどういうものであるかということよりも、幸せというものがどういうものであるか、を、考えてしまうエピソードがつまっていた。著者の視点、結婚観、わたしは好きだな。でも、彼女、さばさばしてても、情は深いひとなんだと思う。相手を大切にする気持ちがきちんとあってこその、ドライさなんであって、わたしが、今日にいたるも、結婚していないのは、情よりも、我執と臆病さが勝った上でのドライさで、ようは包容力がないんだもの、無理もないな、と、割と的確な自己分析を致しましたのであります。自己分析がだんだん正確になってきてかなしい。(笑)
そういえば、政治家の「領収書」の問題。先日問題になった市議会議員の偽造領収書のほうは、ほんとに情けない子供だましの水増しだったけど、今回のって、きっと水増しじゃなく、2万円ってなってても、実際は、袋のなかに、20万円くらい入っていることもあるのかもなぁって思いながらテレビを見てたのでした。
2万円が実は20万円かもなんて腹黒きお代官様みたいな気持ちになってつぶやいていたら、さっき、お湯を注ぎ込んでいたカップ麺が、3分どころか、30分も放置されることになり、猫舌のわたしには、いい感じに冷めた味噌ラーメンを食すこととなった。あんまりふやけていたので、かき混ぜられず、上から粛々と食べていたら、最後に、濃密な味噌味登場。カップラーメンを食べるのは、たいてい、食欲がないとき。だから、お湯を注いだあと、その存在を忘れてしまっていたのだろうな。
漱石は50歳になることなく没した。なんか若いよねぇ。漱石より年上の人しかいない我が職場では、「あれ、いま、わたし、なにしようとしてたんでしたっけ?」という言葉が飛び交い、みんなでいたわりあって仕事をしている。
目の前の高齢者に、親切にゆっくりとなんども説明する癖がついた職場の同僚たちは、ときどき、学生さんにも同じように説明しようとし、「それはさっき聞きました(くどいよ)」と冷たい顔をされて、結構落ち込んでいる。「あれ? 若いひとは一回言ったら、すぐ覚えちゃうのね」とちょっと驚くのだ。自分もそうだった季節をもう思い出せない。子供って、昨日できなかったことが、今日、できるようになってるのよね、という会話をよく耳にするけれど、きのう、できたことが、きょう、なぜか出来ない、やがてそういう日がくることを、当事者はもちろん、若いひとたちも、優しい心で受け入れてくれる時代がくるといいのだけれど。
ところで、わたしの母は、耳が遠くなってしまい、ひとの気配にも疎くなった。母がひとりで、家のなかをうろうろしているとき、ちょっと面白がって、そのうしろをついてまわっていても、彼女はぜんぜん気付かない。なにかの拍子にうしろを振りかえって、わたしを見つけると、「おどろいちゃった〜」というのが決まり文句。で、この「おどろいた!」ではなく、「おどろいちゃった〜」というちょっと間延びしたところが、なんだか可笑しいものだから、結構、なんどもいたずらしてしまう。わたしが同じことを何度もされたら、「ついてこないで!」と癇癪を起こすかもしれないなと思うのだけど、母は、必ず「おどろいちゃった〜」と言って、顔をくしゃくしゃにして笑うのだ。わたしが子供のころは、そんなひとではなかった。むしろ、やはり「ついてこないで!」という人だったように思うのだ。ふしぎなものだ。
小学生の合唱、歌詞が気になったひとのために。2曲めのほう。
未確認飛行物体
入沢康夫
薬缶だって、
空を飛ばないとはかぎらない。
水のいっぱい入った薬缶が
夜ごと、こっそり台所をぬけ出し、
町の上を、
畑の上を、また、つぎの町の上を
心もち身をかしげて、
一生けんめいに飛んで行く。
天の河の下、渡りの雁の列の下、
人工衛星の弧の下を、
息せき切って、飛んで、飛んで、
(でももちろん、そんなに速かないんだ)
そのあげく、
砂漠のまん中に一輪咲いた淋しい花、
大好きなその白い花に、
水をみんなやって戻って来る。
母がトイレの床に座り込んで、痛い、痛いー、と唸っている。起こそうとすると、もっと大きな声で、いたいーーと叫ぶ。どこが、どこが痛いの?と、耳の遠い彼女に大きな声で問いかけるが、あまり聞こえていないか、聞く気がない。本当にどこか痛いのか、それとも「立てない」という焦りを表現するための語彙が失われて、もはや「痛い」という単語くらいしか取り出せなくなっているのか。わたしよりも体重の重い彼女の、砂袋のようにまったりとつかみどころのない体を支え、なんども態勢を整えながら、起こしあげる。さきほどまで、恐ろしい虐待でも行われているかのように容赦なく「痛いーー」という声を発していたひとは、二本足で立った途端、大きなあくびをして、「あぁ」と静かになる。支えながら寝床まで付き添う。「痛いーーー」と叫ぶと、介助者が飛んでくる、というパターンが、彼女のあたまの回路のなかに出来上がってきつつあるのだろうか。それは、思考回路と呼べるほどの意味も持たず、なにか本能に近いようなものとして。このように、なんども夜中に起こされると、時には、あまりに驚いて飛び起きるせいで、内耳の状態に異変が起きるのか、あとでふいにメニエール氏病のような激しい回転性の目眩に見舞われることになる。そうなると、我々親子は共倒れの危険があるため、わたしは枕もとに、「酔い止め」の薬を置いて寝るようになった。別に車酔いではないのだが、回転性の目眩にも、酔い止めが効くことに気づいたからだ。それでも、この目眩に襲われると、母ではないが、起き上がることなどまったくできなくなるのであり、涙をこぼさんばかりの苦しさのなかで錠剤を口に放り込み、2時間ほどじっと目を閉じて、頭を絶対に動かさないようにしているしかない。願わくば、この時間だけは、母の「痛いーーー」という助けを求める声が聞こえてきませんようにと念じながら。
とはいえ、たとえば、70代の要介護の妻の面倒を見ながら、新聞配達をして家計の足しにしていたという同じ70代の夫が、新聞配達中に何度も転倒するようになり、いよいよ限界かと、無理心中に至ったという話を聞いたりすると、わたしは自分がまだそれほどの高齢ではないことに感謝するとともに、自民党改憲草案のなかにある、福祉を、行政ではなく、家族の義務に移行させようとする一文に、おののかずにはいられない。この国の憲法にその生きる権利を保障されたひとびとのなかには、いわゆる血縁上の家族に恵まれずに暮らしているひとが、どれほどいると思っているのか。はなから不平等のあるものを視野にもいれず、家族は助け合おうなどという「憲法」を作られてはたまったものではない。もし、それを主張するのであれば、そのまえに、家族とはどういうものであるか、どういうひとたちをもって家族の名のもとにくくるのか、納得のゆくように、このわたしに明示してほしい。
わたしは社会保障や、法に、そんなに手厚くしてもらえるとは、もともと期待していない。だが、たとえ、家族のために尽力したとしても、それは「家族は助け合おう」などという「すすめ」でそうするのではなく、「個人の意思」でそうしているのだと認められるべきであり、憲法はもちろん「幸せ」を歌うが、「幸せの形」まで規定はしないということを言いたいのだ。人は助け合おう、でいいではないか。なぜ、家族、なのか。人は助け合おうで社会保障は生まれたが、家族は助け合おうは、社会保障を切り詰める方便に使われる。
急に話がそれるけれど、洲之内徹の著作のなかに、「嫌な顔をする女」について書かれている一節があって、うろ覚えなのだが、若い頃読んで、妙に印象に残った。それは、洲之内さんが関わったある画家の細君の話なのだ。洲之内さんはその画家と話をしている。しかし、その細君が、時々ふっと見せる、すごく嫌な表情が気になってしまう。それが、わざとそうしているとかいうのではなく、その細君の天与の表情ともいえる、なにか無意識のものであることが、洲之内さんの心をえぐるのだ。長い文章のほんのわずかな一場面なのだけど、わたしはそれを読んだとき、自分もそういう女になるんじゃないかとおそれた。そういう血が流れているような気がしたのだ。嬉しくはなかった。気をつけないといけないなと思った。
「夏目漱石の妻」をテレビで見ていたとき、漱石を演じている長谷川博巳の表情に、同じ種類の冷酷さというか、不穏さがあったので、ぎょっとした。ひとの愛情を信じていないひとの目といおうか。愛情を持っていてすら、裁くこころを併せ持ってしまう、冷めた目。
あはは。つぶやき欲とは、つまり、毒を吐きたい気持ちだったのかしら。ただいま、11日の午前3時。この深夜、もう4回は、母のトイレにつきあっているけれど、大げさな「痛いーーーー」を言わなくなってきたので、もうそろそろ、わたしも眠ろうと思う。昼間、母がデイサービスにいってくれている時間が本当にありがたい。これがなかったら、わたしと母は弱り果てていただろう。社会福祉の財源がないという話になるとき、本当の意味で、税金を食いつぶしているのは、だれなのか、国会を見ていると、暗澹たる思いがする。
さぁ、きょうは、これで店じまい。失礼つかまつった。
薬缶、今夜も、空を飛んでるかしら。
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これは職場の知り合いが紹介してくれた音源。「小学生でこのレベルはすごい」って。不幸にして音痴という宿命を背負ったわたしに「レベル」を云々する自信はないのだけど、久しぶりに合唱を聞いてちょっとジンときた。優しいハーモニーだなぁ。その優しさの一端は間違いなく変声期前の少年の放つ高音の美しさなんだと思う。女の子だけじゃ、この繊細さは出ないと思うのだ。
この間、3年に一度のAED講習を受けた。3回目なので、結構手順が身についてきた。運動不足の割に、息切れしなかったのが不思議。前2回は「救命訓練」でぜいぜいしてしまう虚弱さだった。3時間講習を受けて、わかったつもりになっていたが、最後の質疑応答のとき、あるひとが、「意識のない傷病者にAEDを使う場合・・・」と質問を始めた。そのとき、教官が、なぜかとても小さな声で、つっこみを入れており、そのつっこみ、本当はもっと大きな声でいうべきだったのじゃないかなって思えた。教官はそっとつぶやいたのだ、「意識のないひとじゃなくて、呼吸のないひとだからね・・・」 そう、たとえまったく意識がなくても、心臓が動いていて、呼吸しているひとにAEDは必要ない。医療関係のかたはそこをきちんとごらんになるが、一般人は慌てて、すぐAED!?ってなってしまう。たとえば、数年前のわたしのように。苦笑。呼吸を確認すること。
山崎ナオコーラさん、小説はまだ読んだことがないのだけれど、とてもよかったとすすめてくれるひとがおり、彼女のエッセー「かわいい夫」を読んだ。結論から言うと、たしかに「いい」のだった。妻よりも収入の少ない実直な書店勤務の伴侶を持つ作家が、そんな夫のかわいらしさについて、さばさばと語っている。その「さばさば」さが、なぜか、心地よく、そして、すてきに思える。夫婦というものがどういうものであるかということよりも、幸せというものがどういうものであるか、を、考えてしまうエピソードがつまっていた。著者の視点、結婚観、わたしは好きだな。でも、彼女、さばさばしてても、情は深いひとなんだと思う。相手を大切にする気持ちがきちんとあってこその、ドライさなんであって、わたしが、今日にいたるも、結婚していないのは、情よりも、我執と臆病さが勝った上でのドライさで、ようは包容力がないんだもの、無理もないな、と、割と的確な自己分析を致しましたのであります。自己分析がだんだん正確になってきてかなしい。(笑)
そういえば、政治家の「領収書」の問題。先日問題になった市議会議員の偽造領収書のほうは、ほんとに情けない子供だましの水増しだったけど、今回のって、きっと水増しじゃなく、2万円ってなってても、実際は、袋のなかに、20万円くらい入っていることもあるのかもなぁって思いながらテレビを見てたのでした。
2万円が実は20万円かもなんて腹黒きお代官様みたいな気持ちになってつぶやいていたら、さっき、お湯を注ぎ込んでいたカップ麺が、3分どころか、30分も放置されることになり、猫舌のわたしには、いい感じに冷めた味噌ラーメンを食すこととなった。あんまりふやけていたので、かき混ぜられず、上から粛々と食べていたら、最後に、濃密な味噌味登場。カップラーメンを食べるのは、たいてい、食欲がないとき。だから、お湯を注いだあと、その存在を忘れてしまっていたのだろうな。
漱石は50歳になることなく没した。なんか若いよねぇ。漱石より年上の人しかいない我が職場では、「あれ、いま、わたし、なにしようとしてたんでしたっけ?」という言葉が飛び交い、みんなでいたわりあって仕事をしている。
目の前の高齢者に、親切にゆっくりとなんども説明する癖がついた職場の同僚たちは、ときどき、学生さんにも同じように説明しようとし、「それはさっき聞きました(くどいよ)」と冷たい顔をされて、結構落ち込んでいる。「あれ? 若いひとは一回言ったら、すぐ覚えちゃうのね」とちょっと驚くのだ。自分もそうだった季節をもう思い出せない。子供って、昨日できなかったことが、今日、できるようになってるのよね、という会話をよく耳にするけれど、きのう、できたことが、きょう、なぜか出来ない、やがてそういう日がくることを、当事者はもちろん、若いひとたちも、優しい心で受け入れてくれる時代がくるといいのだけれど。
ところで、わたしの母は、耳が遠くなってしまい、ひとの気配にも疎くなった。母がひとりで、家のなかをうろうろしているとき、ちょっと面白がって、そのうしろをついてまわっていても、彼女はぜんぜん気付かない。なにかの拍子にうしろを振りかえって、わたしを見つけると、「おどろいちゃった〜」というのが決まり文句。で、この「おどろいた!」ではなく、「おどろいちゃった〜」というちょっと間延びしたところが、なんだか可笑しいものだから、結構、なんどもいたずらしてしまう。わたしが同じことを何度もされたら、「ついてこないで!」と癇癪を起こすかもしれないなと思うのだけど、母は、必ず「おどろいちゃった〜」と言って、顔をくしゃくしゃにして笑うのだ。わたしが子供のころは、そんなひとではなかった。むしろ、やはり「ついてこないで!」という人だったように思うのだ。ふしぎなものだ。
小学生の合唱、歌詞が気になったひとのために。2曲めのほう。
未確認飛行物体
入沢康夫
薬缶だって、
空を飛ばないとはかぎらない。
水のいっぱい入った薬缶が
夜ごと、こっそり台所をぬけ出し、
町の上を、
畑の上を、また、つぎの町の上を
心もち身をかしげて、
一生けんめいに飛んで行く。
天の河の下、渡りの雁の列の下、
人工衛星の弧の下を、
息せき切って、飛んで、飛んで、
(でももちろん、そんなに速かないんだ)
そのあげく、
砂漠のまん中に一輪咲いた淋しい花、
大好きなその白い花に、
水をみんなやって戻って来る。
母がトイレの床に座り込んで、痛い、痛いー、と唸っている。起こそうとすると、もっと大きな声で、いたいーーと叫ぶ。どこが、どこが痛いの?と、耳の遠い彼女に大きな声で問いかけるが、あまり聞こえていないか、聞く気がない。本当にどこか痛いのか、それとも「立てない」という焦りを表現するための語彙が失われて、もはや「痛い」という単語くらいしか取り出せなくなっているのか。わたしよりも体重の重い彼女の、砂袋のようにまったりとつかみどころのない体を支え、なんども態勢を整えながら、起こしあげる。さきほどまで、恐ろしい虐待でも行われているかのように容赦なく「痛いーー」という声を発していたひとは、二本足で立った途端、大きなあくびをして、「あぁ」と静かになる。支えながら寝床まで付き添う。「痛いーーー」と叫ぶと、介助者が飛んでくる、というパターンが、彼女のあたまの回路のなかに出来上がってきつつあるのだろうか。それは、思考回路と呼べるほどの意味も持たず、なにか本能に近いようなものとして。このように、なんども夜中に起こされると、時には、あまりに驚いて飛び起きるせいで、内耳の状態に異変が起きるのか、あとでふいにメニエール氏病のような激しい回転性の目眩に見舞われることになる。そうなると、我々親子は共倒れの危険があるため、わたしは枕もとに、「酔い止め」の薬を置いて寝るようになった。別に車酔いではないのだが、回転性の目眩にも、酔い止めが効くことに気づいたからだ。それでも、この目眩に襲われると、母ではないが、起き上がることなどまったくできなくなるのであり、涙をこぼさんばかりの苦しさのなかで錠剤を口に放り込み、2時間ほどじっと目を閉じて、頭を絶対に動かさないようにしているしかない。願わくば、この時間だけは、母の「痛いーーー」という助けを求める声が聞こえてきませんようにと念じながら。
とはいえ、たとえば、70代の要介護の妻の面倒を見ながら、新聞配達をして家計の足しにしていたという同じ70代の夫が、新聞配達中に何度も転倒するようになり、いよいよ限界かと、無理心中に至ったという話を聞いたりすると、わたしは自分がまだそれほどの高齢ではないことに感謝するとともに、自民党改憲草案のなかにある、福祉を、行政ではなく、家族の義務に移行させようとする一文に、おののかずにはいられない。この国の憲法にその生きる権利を保障されたひとびとのなかには、いわゆる血縁上の家族に恵まれずに暮らしているひとが、どれほどいると思っているのか。はなから不平等のあるものを視野にもいれず、家族は助け合おうなどという「憲法」を作られてはたまったものではない。もし、それを主張するのであれば、そのまえに、家族とはどういうものであるか、どういうひとたちをもって家族の名のもとにくくるのか、納得のゆくように、このわたしに明示してほしい。
わたしは社会保障や、法に、そんなに手厚くしてもらえるとは、もともと期待していない。だが、たとえ、家族のために尽力したとしても、それは「家族は助け合おう」などという「すすめ」でそうするのではなく、「個人の意思」でそうしているのだと認められるべきであり、憲法はもちろん「幸せ」を歌うが、「幸せの形」まで規定はしないということを言いたいのだ。人は助け合おう、でいいではないか。なぜ、家族、なのか。人は助け合おうで社会保障は生まれたが、家族は助け合おうは、社会保障を切り詰める方便に使われる。
急に話がそれるけれど、洲之内徹の著作のなかに、「嫌な顔をする女」について書かれている一節があって、うろ覚えなのだが、若い頃読んで、妙に印象に残った。それは、洲之内さんが関わったある画家の細君の話なのだ。洲之内さんはその画家と話をしている。しかし、その細君が、時々ふっと見せる、すごく嫌な表情が気になってしまう。それが、わざとそうしているとかいうのではなく、その細君の天与の表情ともいえる、なにか無意識のものであることが、洲之内さんの心をえぐるのだ。長い文章のほんのわずかな一場面なのだけど、わたしはそれを読んだとき、自分もそういう女になるんじゃないかとおそれた。そういう血が流れているような気がしたのだ。嬉しくはなかった。気をつけないといけないなと思った。
「夏目漱石の妻」をテレビで見ていたとき、漱石を演じている長谷川博巳の表情に、同じ種類の冷酷さというか、不穏さがあったので、ぎょっとした。ひとの愛情を信じていないひとの目といおうか。愛情を持っていてすら、裁くこころを併せ持ってしまう、冷めた目。
あはは。つぶやき欲とは、つまり、毒を吐きたい気持ちだったのかしら。ただいま、11日の午前3時。この深夜、もう4回は、母のトイレにつきあっているけれど、大げさな「痛いーーーー」を言わなくなってきたので、もうそろそろ、わたしも眠ろうと思う。昼間、母がデイサービスにいってくれている時間が本当にありがたい。これがなかったら、わたしと母は弱り果てていただろう。社会福祉の財源がないという話になるとき、本当の意味で、税金を食いつぶしているのは、だれなのか、国会を見ていると、暗澹たる思いがする。
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