秋の消息
a) 秋の消息 中原中也
麻(あさ)は朝、人の肌(はだえ)に追い縋(すが)り
雀(すずめ)らの、声も硬(かと)うはなりました
煙突の、煙は風に乱れ散り
火山灰(かざんばい)掘れば氷のある如(ごと)く
けざやけき顥気(こうき)の底に青空は
冷たく沈み、しみじみと
教会堂の石段に
日向(ひなた)ぼっこをしてあれば
陽光(ひかり)に廻(めぐ)る花々や
物蔭(ものかげ)に、すずろすだける虫の音(ね)や
秋の日は、からだに暖(あたた)か
手や足に、ひえびえとして
此(こ)の日頃(ひごろ)、広告気球は新宿の
空に揚(あが)りて漂(ただよ)えり
b)
友人から届いた葉書に中也の「閑寂」の一節が添えられていた。「何にもおとなうことのないわたしの心は閑寂だ」というその懐かしい一節に慰められる気持ちがする。しかし、これは春の詩なので、気まぐれに、中也の秋の詩を読み返してみたくなる。わたしは、このところ、「新宿」のことをよく思い出すものだから、中也の詩に、こんな「新宿」の2文字を見つけて、ちょっとニヤつく。
椎名林檎は「歌舞伎町の女王」を歌い上げたが、わたしが新宿に行くときは、なぜか決まってエナメルの靴を履かされていたような気がする。もちろん、幼い時分の話だ。従って、歌舞伎町とは、あまり縁がなかったことに違いないが、駅周辺では、デパートの屋上から、いつもアドバルーンが上がっていた。中也言うところの「広告気球」だ。
そういえば、今、人間の形そのもののマネキン人形はあまり見かけないが、あのころは、デパートのあちこちで、眉目秀麗なマネキン人形がブロンドの髪をうねらせながら、最新の服を着てポーズを取っていた。時折、服の着せ替えがあって、その美しいマネキン女性は、表情も変えないまま、腕を外されたり、足を引き抜かれたりしていた。くねっとした手首の腕が、無造作に床に置かれていたりする。おおよその小さな子どもたちは、親に手を引かれながら、そういうショッキングな場面に目を奪われ、硬直するのだが、しかし、そこで立ちどまろうにも、ぐいぐいと手を引っ張られるものだから、引きずられるように、その場から、去ってゆくことになる。「あれ、あれ」と指などさしながら・・・。
c)
ネットというものが現れなかったら、「街」への好奇心はまだ続いていたかもしれない。足を運んでみなければ見ることのできないものが、ほとんどだったから。インテリアにしても、雑貨にしても、書籍にしても、クリックで、概要を把握したり、注文したりすることはできなかった。こじゃれたものだけでなく、たとえば、胡散臭さのようなものまで、今では、ネットの画面で演出できる。「居酒屋」の雰囲気でさえ、画面でチョイスして、出かけるらしい。そして、ナビがあるから、ほとんど「迷わない」らしい。
もっと、迷えばいいのに。みんなが、もっと、街のなかで、迷えばいいのにと思う。それは、スマホに目を釘付けにしながら、右か左か真直ぐかと神経をとがらすということではなく、前を向いて、「どっちが面白そうか」と迷えばいいのにと思うということだ。そういうのは、「時間の無駄」と言われるらしいのだが。
このごろ、街に行かない。歳をとったせいもあるが、街中では、スマホを見ながら歩いている人ばかりで、「視線」が行き交わない。目の前に誰かいても、「目に入れる気はありません」と言われているように感じる。もともと、雑踏は、「交流の場」なんかではありえず、多くの詩人が寂寥を詠んできたわけだけど、それにしたって、みんな、ある意味、「二宮金次郎」のような姿で行き来している。目的地につきさえすればいいのだろうか。
d)
うろ覚えで申し訳ないのだが、社会学者の内田義彦さんが、息子さんの自由研究だかなんだかの実験に立ち会った際、息子さんが、実験の段取りを書いた書面を机に置いて、それを読みながら実験に取り掛かろうとしたときに、一喝したという。書面は万が一のときのもので、段取りくらい、すっかり暗記してから始めろ、そうしないと、書面を読んでいるうちに、大事な変化を見逃す、と。「こうしたら、こうなった」という予めわかっている実験の「結果」を確認するだけなら、途中、どんな変化が起きていても、それでいいのかもしれない。しかし、途中で起きている微細な変化の知識を蓄積させなければ(そういうことに習熟した人がいなければ)、実験など、発展してゆかないものだろう。政治にしても経済にしても、それは同じことだ。見たくない微細な変化に気づいていても、知らぬふりをして、「結果」に突き進めば、破綻は目に見えている。
麻(あさ)は朝、人の肌(はだえ)に追い縋(すが)り
雀(すずめ)らの、声も硬(かと)うはなりました
煙突の、煙は風に乱れ散り
火山灰(かざんばい)掘れば氷のある如(ごと)く
けざやけき顥気(こうき)の底に青空は
冷たく沈み、しみじみと
教会堂の石段に
日向(ひなた)ぼっこをしてあれば
陽光(ひかり)に廻(めぐ)る花々や
物蔭(ものかげ)に、すずろすだける虫の音(ね)や
秋の日は、からだに暖(あたた)か
手や足に、ひえびえとして
此(こ)の日頃(ひごろ)、広告気球は新宿の
空に揚(あが)りて漂(ただよ)えり
b)
友人から届いた葉書に中也の「閑寂」の一節が添えられていた。「何にもおとなうことのないわたしの心は閑寂だ」というその懐かしい一節に慰められる気持ちがする。しかし、これは春の詩なので、気まぐれに、中也の秋の詩を読み返してみたくなる。わたしは、このところ、「新宿」のことをよく思い出すものだから、中也の詩に、こんな「新宿」の2文字を見つけて、ちょっとニヤつく。
椎名林檎は「歌舞伎町の女王」を歌い上げたが、わたしが新宿に行くときは、なぜか決まってエナメルの靴を履かされていたような気がする。もちろん、幼い時分の話だ。従って、歌舞伎町とは、あまり縁がなかったことに違いないが、駅周辺では、デパートの屋上から、いつもアドバルーンが上がっていた。中也言うところの「広告気球」だ。
そういえば、今、人間の形そのもののマネキン人形はあまり見かけないが、あのころは、デパートのあちこちで、眉目秀麗なマネキン人形がブロンドの髪をうねらせながら、最新の服を着てポーズを取っていた。時折、服の着せ替えがあって、その美しいマネキン女性は、表情も変えないまま、腕を外されたり、足を引き抜かれたりしていた。くねっとした手首の腕が、無造作に床に置かれていたりする。おおよその小さな子どもたちは、親に手を引かれながら、そういうショッキングな場面に目を奪われ、硬直するのだが、しかし、そこで立ちどまろうにも、ぐいぐいと手を引っ張られるものだから、引きずられるように、その場から、去ってゆくことになる。「あれ、あれ」と指などさしながら・・・。
c)
ネットというものが現れなかったら、「街」への好奇心はまだ続いていたかもしれない。足を運んでみなければ見ることのできないものが、ほとんどだったから。インテリアにしても、雑貨にしても、書籍にしても、クリックで、概要を把握したり、注文したりすることはできなかった。こじゃれたものだけでなく、たとえば、胡散臭さのようなものまで、今では、ネットの画面で演出できる。「居酒屋」の雰囲気でさえ、画面でチョイスして、出かけるらしい。そして、ナビがあるから、ほとんど「迷わない」らしい。
もっと、迷えばいいのに。みんなが、もっと、街のなかで、迷えばいいのにと思う。それは、スマホに目を釘付けにしながら、右か左か真直ぐかと神経をとがらすということではなく、前を向いて、「どっちが面白そうか」と迷えばいいのにと思うということだ。そういうのは、「時間の無駄」と言われるらしいのだが。
このごろ、街に行かない。歳をとったせいもあるが、街中では、スマホを見ながら歩いている人ばかりで、「視線」が行き交わない。目の前に誰かいても、「目に入れる気はありません」と言われているように感じる。もともと、雑踏は、「交流の場」なんかではありえず、多くの詩人が寂寥を詠んできたわけだけど、それにしたって、みんな、ある意味、「二宮金次郎」のような姿で行き来している。目的地につきさえすればいいのだろうか。
d)
うろ覚えで申し訳ないのだが、社会学者の内田義彦さんが、息子さんの自由研究だかなんだかの実験に立ち会った際、息子さんが、実験の段取りを書いた書面を机に置いて、それを読みながら実験に取り掛かろうとしたときに、一喝したという。書面は万が一のときのもので、段取りくらい、すっかり暗記してから始めろ、そうしないと、書面を読んでいるうちに、大事な変化を見逃す、と。「こうしたら、こうなった」という予めわかっている実験の「結果」を確認するだけなら、途中、どんな変化が起きていても、それでいいのかもしれない。しかし、途中で起きている微細な変化の知識を蓄積させなければ(そういうことに習熟した人がいなければ)、実験など、発展してゆかないものだろう。政治にしても経済にしても、それは同じことだ。見たくない微細な変化に気づいていても、知らぬふりをして、「結果」に突き進めば、破綻は目に見えている。
by kokoro-usasan
| 2014-10-20 12:30
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