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その深み。

a)
先日の御嶽山噴火のニュースの一報を目にしたとき、まずは、山好きの友人の安否が気になった。行楽シーズンでもあるし、ひょっとして御嶽山に向っていたりはしなかっただろうかと。彼女が折々に送ってくれる山の便りのこともふと頭に浮かび、まさかと思う一方で、その「まさか」という出来事が起こるのだ、出来事などというものは、「まさか」というものばかりではないかと案じられた。便箋に「元気ですか」などとしたためてみたものの、そんな悠長な話ではないだろうと、ペンを放り投げて、携帯にメールを送った。夕方、「心配してくれて、ありがとう」と無事の返信が届いた。しんみりとした。どんなに待っても、戻ってこないメールに、うちひしがれている人たちがいるのだと思うと辛かった。

b)
「助けてあげられなかった」という思いが残されたものにはいつもつきまとう。後悔が、箇条書きになって押し寄せてくる。友人が遭難しているのではないかと想像するだけで、ささやかな後悔が胸に浮かんだのだから、実際に親しい人が亡くなられた方たちは、胸張り裂ける思いだろう。

「助ける」という言葉は、実はとても重い言葉なのだと肝に銘じたい。人生を振り返って、「助けてあげた」と思えることと、「助けてあげられなかった」と思えることを比べたら、わたしには後者しかないと言い切れる。だから、わたしが縋るのは、「自分で意識せずに助けてあげられていたようなことがあったらいいな」という回りくどい言い訳くらいだ。ひとりを助けたい一心で、もうひとりを奈落に落としてしまうようなこともあるのが、人間の社会ではないか。歳をとるごとに、そういう現実が実感されてくる。

切ないことだ。でも、御嶽山の山頂付近で命を落とされたかたたちもまた、そばにいた誰かを助けたいと手をのばしながら、願い叶わず亡くなられたかたも多かったはずだとわたしは思う。生きているわたしたちだけでなく、彼らもまた、「助けてあげられなかった」という思いのなかで息絶えたのかもしれない。

だが、「助けてあげられる」ことが本来奇蹟なのであって、わたしたち人間は、いつも「助けてあげられなかった」という切なさを抱いて生きることのなかで、明日を切り開いてきたのではないかとも思えてくる。

「助けてあげられた」というのは、人間にとって「結果」でしかなく、「助けてあげたい」「でも、あのとき、助けられなかった」というような思いが、そのひとの心を、深くしてゆくのではないかと今は思いたい。
by kokoro-usasan | 2014-10-04 11:58 | つぶやき | Comments(0)


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