冬木立
砧公園
世田谷美術館にて
「佐藤忠良展」を観る。
移動の車中で「大平正芳 戦後保守とは何か」(福永文夫著 中公新書)の続きを読む。大平さんが亡くなったのは、わたしが大学に入る前年の6月だった。当時の日記には、その訃報に際して感じたことが実はかなりの長文で残っている。どういうわけか、わたしはこの政治家の話す言葉が結構好きだったようだ。朴訥な中に、誠実なものを感じていたのだと思う。彼の飛躍のない語り口は、先ごろ、舌禍事件で辞任に追い込まれた法相の答弁とは雲泥の差があったが、政治家なら、むしろ、そのくらい勉強していて当然ではないかと思うのは今や、期待のしすぎなのだろうか。
とはいっても、わたしは、政治は門外漢だ。右も左もわからぬ高校生が、かの首相を気に入っっていたのは、ひとえに、「なにを言いたいのか」が判る人だったからだ。そして、その発言に私利私欲を感じなかったからだろうと思う。永田町ではなく国民に向かって、自分の思うところを話してくれているような気がしていた。
さて、一昨日の新聞に、大谷藤郎さんの追悼記事が掲載されていた。わたしはこの方を存じ上げなかったのだが、元厚生省医務局長で、ハンセン病患者らによる国家賠償裁判の際、原告(患者)と被告(国)双方の証人として出廷し、国に行政責任を認めさせる判決へと導いた方だと言う。大谷さんはクリスチャンだった。「神の前に立たされた一人間として、ありのままを証言するしかなかった」と語ったという。
大平正芳という人も、実はクリスチャンだったということを、わたしは、今回の読書で初めて知った。クリスチャンだからどうだ、と言う気はない。ただ、「何をもって生きるのか」という志のようなものを、それ相応の大人になったら、やはり持っていたほうがいいのではないかと、このごろ思う。そのうえで、くじけることがあってもいいし、落ち込むことがあってもいい。
正直なところ、「そういうときは、こう答えておけばいい」というような手管は、けっして政治の世界の答弁だけでなく、日常に蔓延しているわけで、それが、本音あっての処世術ならばまだしも、それすら考えることなく、お互い「こう答えておけばいい」の応酬だけで日が暮れているのではないかと、嘘寒く思えるときがあるということだ。そして、厄介に思うのは、それだけでも十分人は生き凌いでいけるから、ついに、ひとりの貧しい自分に、心から出会うこともなく、慈しむこともなく、死んでゆくこともあるということなのだ。
追記
なんだろなぁ。人間は自分の苦手な分野では失敗しないが、得意な分野で手痛い失敗をするものだという文を最近別の本で読みました。「そういうときはこう答えておけばいい」という発想も、ひとつの慢心のあらわれなのかもしれません。こういうものから遠くあるにはどうしたらいいのかなぁと、思うのでした。恐いものがあるとすれば、それです。
by kokoro-usasan
| 2011-01-10 23:10
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