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蒼空

青い空と白い雲。晴れて。

諸般の事情で、しばらくの間、勤務地を変わることになって1週間。気疲れなのか、帰宅すると猛烈な睡魔に襲われることを除いては、淡々と日々が過ぎていった。そして休み。昨日今日とずいぶんと好い陽気で、空から降り注く光も曖昧なところがない。ベランダに干された2巡目の洗濯物もすでに乾いたようだ。今夜は柔らかで日向の匂いのするシーツで眠れるだろう。

先日、ふと考えた。好きになったひとに「ただいま」も「おかえり」も言ったことがないと。そういう人生だったということだけれど、せっかくの人生なのに勿体無い話だったような気がした。そのかわり、特養にいる母に会いにゆくときは、今も、「ただいま」と告げ、「行ってきます」と言って帰ってくる。「おかえり」母ははっとしたように顔を上げ、ほわぁと優しい寝起きのような笑顔を浮かべる。母には特養という場所を、「よそ」ではなく、娘が必ず「戻ってくる」場所として認識してもらえたらと思ってしまうのだ。「ここにいればいいの?」と母は聞く。「あんた戻ってくるの?」「うん、戻ってくるよ。仕事が終わったらここに必ず戻ってくるよ」そう繰り返す。認知症の母は、ふうんと言って、手を振ってくれることもあれば、机に顔を押し当てて何も言わなくなってしまうこともある。どちらの気持ちも切ない。わたしはバカみたいにいつも口角をあげてニコニコしている。それ以外にどうしようもなくて。

晴れわたった蒼い空を見ていると、そこにも「ただいま」と言いたいような気持ちが募ってくる。そしてちょっと怖くなる。究極の必ず戻ってゆく場所だからだろうか。「おかえり」と言ってもらえるだろうか。






# by kokoro-usasan | 2019-09-07 12:05 | 日々

湯船

逃げ出したいと思うようなミッションを抱えて一年過ごし、昨日、やっとそれが無事終了した。同僚たちも、荷を降ろして口が軽くなり、昨夜は楽しい慰労の時間を持つことができた。また次のミッションが始まるだけだけれど、ひとつひとつ、手を抜かずにやってゆくことに、実りがあると信じたい。

そういえば、昨日は、小さな老婦人が娘と孫に伴われて、わたしの職場にやってきた。暑くて少し休ませてもらいたそうだったので、どうぞと招いた。杖をつきつき、「お手洗いをお借りします」と廊下を入ってゆき、戻ってきてからも、しばらく座って休んでおられた。老婦人は笑顔を絶やさず、わたしに何度も礼を言われる。

そんな一コマを深夜湯船の中で思い出しながら、どうしてまた、こんな日に、そんな不思議な「闖入者」が職場にあったのかと考え始める。わたしの人生には、いつも、そうした「闖入者」がいて、喫茶店で、公園で、書店で、旅先で、唐突に話しかけてこられるかたがいる。なにかの節目には必ず「彼ら」が現れると納得してしまいたくなるくらいだ。

「この間、こんなことがあって」と誰かに話すと、あなたはどうしてそんな面白いことにばかり遭遇するのかと感心されることがあるけれど、多分、それは違う。誰の人生にも起きていることを、わたしがことさらピックアップして、「それはどういうことか」と思ってしまうだけなのだろう。「自分がその職場を一旦去ることになっている日に、通りすがりの知らないおばあちゃんが突然入ってきた」それだけのことを、ことさら考え、物語にしていってしまう、それだけのこと。

何度か書いてきたけれど、わたしは自分の出自を知らない人間だ。だが、時々濃厚に感じるのだ。わたし自身が出自を知らないだけで、わたしの出自を知っているひとは、どこかに一定数いるのだろうと。そして、そっと会いにきてくれているのではないか。わたしはそれを想像する。その想像は、どこまでも果てしなく、その意味では、とても豊かな出自を持つ人間になってしまったのかもしれない。

きのう現れた方も、きっと、どこかでわたしの縁者なのだ。久しぶりにゆっくりつかった湯船の中、バスタブの脇にふたつ置いた小さなキャンドルの光を見ながら、ぼんやりとなにか優しいものに包まれていた。



# by kokoro-usasan | 2019-08-30 18:32 | 日々

音をもたない小曲を、響かせてほしい、たましいに。

a)
タイトルはジョン・キーツの詩の一節。今朝、ネガティブ・ケイパビリティについて書かれた論考を読んだのだが、その中で引用されていた。

b)
それはそれとして。

戦争の記憶は誰に尋ねるかでまったく異なる。戦争時代でもそれなりの待遇を受けた人物に聞けば、「それほど悪い時代ではなかった」と答えるだろう。そこにある種の誇張や保身はあるだろうが、まったくの嘘というわけでもないのだろう。むしろ、それが嘘ではないからこそ、彼らとは雲泥の差の待遇を受け、理不尽に殺されなければならなかったひとたちの言葉にも耳を傾け、人間の社会というものの複雑さや不条理に少しでも心を寄せていたい。どんな時代でも、自分がつゆ知らぬところで、過酷な生を余儀なくされているひとは、必ずいる。「いない」のではない。「知らない」だけだということに畏れを抱きながら生きたい。







# by kokoro-usasan | 2019-08-24 16:27 | つぶやき


今朝、ネットでこの動画を紹介しているかたがいて驚いた。この映画の原作の文庫本が今わたしの机の上に置かれているのだったから。先日、ぱくきょんみさんから勧められて、ちょうど読もうとしていた。『風の丘を越えてー西便制ー』(小説の原題は「南道の人」李清俊著)

かつて随分有名になった映画らしいのだが、まったく知らなかった。ぱくさんから、さらりとあらすじは聞いた。この小説を紹介されるにあたって、ぱくさんがおっしゃった「恨」(ハン)という言葉が胸を震わす。その言葉はたしか大学時代にも歴史書で読んだことがあると思ったが、今はまだ、自分の口で語れるような知識がない。

伝統芸能であるパンソリの歌い手である娘の歌に、歌の魂ともいえる「恨」が足りないと感じた父親は、故意に娘に毒を盛り、失明させる。その苦悩の中でこそ、真のパンソリの姿が立ち現れるだろうと。さて、それでどうなったか。そこから先は、本を読まねばならない。




# by kokoro-usasan | 2019-08-21 12:57 | ことば

暗喩

解き明かす為の言葉、
説き伏せる為の言葉、
封印する為の言葉、
広く開示されながらも邪な人目を丁寧に拒むための言葉、

この4つ目の言葉をわたしは考える。とても難しい言葉。




# by kokoro-usasan | 2019-08-06 11:55 | つぶやき

星ひとつに

アマゾンに頼んでおいた尹東柱(ユン・ドンジュ)を描いたDVDが届いた。1945年、日本で獄死した韓国の詩人だ。<星を歌う心で、すべての絶え入るものをいとおしまねば><今夜も星が、風にかすれて泣いている><星ひとつに追憶と、星ひとつに愛と、星ひとつにわびしさと、星ひとつに憧れと、星ひとつに詩と、星ひとつにオモニ、オモニ。>(ふたつの詩から抜粋)

不思議なことに、この27歳で亡くなった詩人の言葉が、以前よりも今、胸に沁みる。わたしが昔この詩人で好きだったのは、『弟の印象画』という短い詩だ。それは幼い弟に、「大きくなったらなんになる?」と尋ねる詩。弟は答える。「人になるよ」と。わたしも「人」になりたくて、懸命に努力してきたつもりなのに、いつまでたっても、無縁仏の子のように大きくなれそうにない。不甲斐ない思いする。







   弟の印象画   

        尹東柱

 ほのあかい額に冷たい月が沁み
 弟の顔はかなしい絵だ。

 歩みをとめて
 そっと小さな手を握りながら
 「大きくなったらなんになる?」
 「人になるよ」
 弟の説はまこと 未熟な答えだ。

 何食わぬ顔で手を放し 
 弟の顔をまた覗いて見る。

 冷たい月が ほのあかい額に濡れ
 弟の顔はかなしい絵だ。

     (1938・9・15)




# by kokoro-usasan | 2019-07-30 21:55 | 映画

金色の。

昨夜は地元の花火大会だった。職務上、こうした伝統的な催しのために奔走するかたたちとも日々接するので、無事に開催できてよかったと思いながら帰宅した。その一方で、例えば、来年の東京オリンピック等、金銭的に莫大な利潤を得るひとと、環境破壊や搾取によって生活をより苦しくさせてしまうひとという明暗を分ける開発型の大規模な施策には、どうも気持ちが動いてゆかない。「暴力的」な開発というものには懐疑的だ。「根こそぎ」という感覚の中にある強者の傲岸を常に危ぶむ。「根こそぎ」が快楽であることを、心のどこかで嗅ぎ取ってしまうからでもある。一部のひとの快楽によって、捻り潰されてしまうささやかな喜びを看過できない。

「根こそぎ」あるいは「根絶やし」という発想が、一義的な発想のもとに狂信的に遂行されるとき、人間はほとんど例外なく、その進む道をあやまつ。

だが、そこに僅かでも希望の光を見出そうとするならば、その根こそぎにされた荒地にも、麦の芽生えることがあり、かつてファージョンが『ムギと王さま』という子供向けの本で語ったような奇跡が繰り返されはしまいかということだ。「村に、ひとりのばかがおりました」という衝撃的な一文で始まるこの物語は美しい。「エジプトの王は、エジプトのムギよりもえらいのじゃ」と豪語するラー王は、目の前にひろがる金色の麦畑を焼き払う。しかし、その結末は・・・。

様々な芽や根を摘みとりながら、庭を丹精するひとなら真剣に考える。この芽は残すか、この芽は摘むか。この根はどこにつながっているか。その深い洞察なくして、優しく鮮やかな庭は育たない。


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# by kokoro-usasan | 2019-07-28 12:31 | 日々

微笑の空

久しぶりの青空。

禅宗のお坊さんが、「みしょう」と仰った。未生という言葉もあるが、それは「微笑」のことだった。「びしょう」よりも、すっと心に入る気がした。今朝の空は微笑。

テレビドラマをネットで見られるのを知ってから、なにもやる気にならないような時に、気を紛らすように、あれこれ見散らかすようなことをしていた。楽しく、考えさせられるものもあったが、気味悪く思えて、後味のよくないものも少なくなかった。「人を殺す」ということ、あるいは「人の命」というものに対し、あまりに無感覚であるような、痛覚の一部が麻痺しているかのような設定に、こちらの良心が骨抜きにされていきそうな恐怖を覚えた。そればかりか、見続けることによって、人を殺すことは容易い、と洗脳してゆくような悪意すら感じた。昨今の、あたかもストレスのはけ口か、独りよがりな自己顕示欲でしかないような殺傷事件を見聞きするたび、テレビにかかわらず、あらゆる情報に潜む悪意を持った「洗脳」の危険が思われ、「殺せ」「倒せ」「潰せ」「死ね」というミッションに従って、神経を集中させている子供たちのゲームの様子なども思い起こせば、いよいよ、恐ろしさと寂しさを覚えるのだった。多様性へのコンパッションを形成するための複雑な知性をたやすく切り落として、独善に満ちた二者択一を提示し、結局脅迫まがいの同意を迫ってくるような社会の到来が仄見える。

微笑の不服従について考える。
蝉が鳴き始めた。

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厨子甕(部分)琉球王朝時代(日本民藝館しおりより)






# by kokoro-usasan | 2019-07-26 10:42 | 日々

深夜、仕事から戻り自宅の門扉の前に立つと、少し先に設置してあるセンサーライトがパッと点いた。おかしいな、わたしを感知して点灯するには距離が離れすぎていると思ったら、そのセンサーライトがスポットライトのように照らし出している場所に白い猫がぴょこんと立ち竦んでいた。固まって、自分でもどうしていいかわからない、といった風情だった。

白い猫、このところ、何回か、我が家の庭を走り抜けてゆくのを見ている。まだ小さな猫なのだけれど、どうも、しばらく前に、仔猫を産んでいるようだ。家猫なのか、野良猫なのかわからない。ただ、肩や背中のあたりが痩せているのが気になる。スポットライトに照らされて、しかも人間に見られて、すぐに逃げるかと思ったけれど、なにかもの言いたげに、少し逃げては振り返ってみたりしている。あのね。わたしの人生に、猫を飼うという選択肢はないからね、と何度目かの心の誓い。動物が嫌いということではないのだけれど、自分の中で「飼う」という行為の敷居が高い。語弊があるが、自分が養子であることと少し関係しているかもしれない。

翌朝、窓を開けると、茶トラと、キジトラの仔猫が、我が家の庭先をよちよちしていた。あら、かわいい、なんて近寄って抱き上げることはしない。ただ見ている。2匹もこちらに気づいて、茶トラはちょっと警戒。キジトラは考え中。そのうち、ぴょんぴょんと、母猫のいるらしいこちらからは見えない方角に一緒に駆けていった。朝食の洗い物をして、また窓辺に行くと、今度は母猫の白猫が庭を走っている。痩せてるなぁ。ご飯食べてるのかなぁ。でも、それ以上はコンタクトしない。わたしをちらちら見ながら塀に飛び乗った白猫は、やはり、またちょっと振り返ってわたしを見る。2階のベランダに洗濯物を干して、また階下に降りると、窓近くの縁石に、再び現れた茶トラとキジトラがミャーと言っている。「おかあさんとはぐれたの?おかあさん、さっき、あっちのほうに行ったよ」

あのね。わたしの人生の選択肢に猫を飼うというのはないからね。いちいち心に誓う。





# by kokoro-usasan | 2019-07-25 11:57 | 日々

人生の旅

昨夜、積ん読になっていた『トラブゾンの猫 小田実との最後の旅』(玄順恵著)を手に取った。しみじみと好い。夫人のことを、終生妻とは呼ばず「人生の同行者」(フェロートラベラー)と呼んだ作家との最後になった旅を軸に、心に沁みる回想が織り成される。その回想は最初から驚きに満ちる。

生まれたばかりの赤ん坊と一緒に、まだ東西冷戦の壁のあった西ベルリンにいた玄さんは、赤ん坊を部屋に残したまま鍵をもたずに出てしまう。中から自動的に施錠されるタイプの扉。真っ青になって狼狽する玄さんを、階上に住むエストニア出身の作曲家が大工道具を持って助けにきてくれる。初めて顔を合わせるのに、「それは大変だ!」と驚愕してくれた丸い大きな瞳の作曲家。それを機に親交を持つことになったそのひとこそ、当時、日本ではまだ無名に近かったアルヴォ・ペルト本人であったということ。あの静謐な音楽と、大工道具を持って隣人の困窮にかけつける人となりを重ね合わせてみる。

フェロートラベラーという意識を持って人生を旅したご夫婦ゆえにこそなのかもしれないそうした不思議な縁に深い感慨を覚える。




# by kokoro-usasan | 2019-07-24 12:24 | 日々


閉じられていないもの


by kokoro-usasan

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