遊べや遊べ。

e0182926_13225231.jpgちょっと、季節はずれですが・・・。

ゆうべネットで友人の娘さんのページに立ち寄ったら、こんな写真がアップされていた。友人の娘さんと、わたしは、実は同じ大学に通っていたので(30年近い時の隔たりはありますが)、この写真を見て、「そう、そう、これよね」とわかってしまう。つまり、これはその学校へと向かう「山道」(!)の写真なのだ。先日たまたま職場の同僚と、むかし大学に通いたくなくなった原因のひとつは、急勾配の山道のせいだったのだと、うそかまことか笑いながら話していたところだったので、この写真を見てまた笑ってしまった。

もちろん、一年中雪が積もっているわけではないけれど、そういえば、わたしが、この学校を受験した日も、道はこんな状態で、それどころか、大雪で、雪山遭難でもしそうな感じだった。この写真はまだ、そのくねくねと曲がった急勾配が始まる前の、穏やかな景色だ。このまままっすぐ校門だったら、もうちょっと、真面目に通っていたかもなぁ。

e0182926_13363682.pngでも、そんな話がしたいわけではなくて、わたしが、体力不足、忍耐不足、適性不足でぐだぐだに終わってしまった大学生活を、友人の娘さんが、「わたし、この大学だいすき! ともだちもだいすき!」ととても素直に学生生活を楽しんでいる様子に、ひどく心うたれてしまったという話をしたかった。わたしと彼女の差はなんなのか。彼女は、学生時代に、マチュピチュに女友達とふたりで出かけ、珍道中、お財布盗まれなくてよかったよー、なんて無邪気なことを言ってあっけらかんとしている。帰ってきてすぐ、東京マラソンを完走したりしている。そのダイナミックさは、彼女の母親であるわたしの友人にも似ているが、友人よりさらにヴァージョンアップしているのがすごい。でも、たとえば、伊豆修善寺に行って戻ってきて、「伊豆のしゅうぜんじに行ってきました」なんて言ってしまう天然ぶりもたくさんあって、なんだか、とてもかわいらしいのだ。

生きることが怖くないのだろうか。生きることを無用に怖がらない彼女には、怖いものが現れない。なぜなら、怖くないから。(ちょっと禅問答みたいだけど。)乗り越えなきゃならないことはあるけれど、別に「怖い」わけじゃない。いつも、次の楽しみを探している。

生きることが怖いわたしには、怖いものがどんどん現れる。だって、次も「きっと、怖い」と思ってしまうから。怖いものを全部退治するまで、楽しいことはお預けだと思ってる。もちろん、わたしと彼女は、別々の人間だし、どちらがどうと比較したいわけではないのだけれど、見習いたいなぁと、強く思った。

「こんなこどもなわたしと、いつもとことん遊んでくれる、みんなだいすき!」
彼女はネットにそう書き込んでいた。ぐっとくる。



※ちなみに中段の写真(彼女に無断借用ごめんなさい。ちっちゃくてわからないからいいよね)は、どこかの山の山頂とかじゃありません。大学の敷地内です。わはは。すごいところでしょ。でも、もうすぐ、都内に本拠地を戻すそうだ。一時期流行った郊外型の学校運営は、もはや人気がなくなったらしい)
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# by kokoro-usasan | 2016-10-17 14:07 | スナップ

雇用への信頼の失墜について

ゆうべ、ネットを散策していたら、たまたま竹信さんのインタビュー映像に遭遇した。小学生以来の友人が夫婦で通信社の記者をやっているのだが、その彼女がまだ、駆け出しだったころ、朝日新聞社にも夫婦で記者をやっているかたがいるのだと話していたことがあった。そのことが、彼女のその後の結婚や働き方にすこしは影響していただろうか。彼女が言っていた朝日新聞社の記者というのは竹信さんご夫婦のことで、残念ながら、ご主人はある日不慮の事故で亡くなってしまった。竹信さんは何年もその失意のなかにあって、その後やっと「ミボージン日記」という手記を出された。面白いというと語弊があるけれど、ずっと個人的な悲しみのなかにあった彼女が、何年もの闇ののち、ついに、社会を見つめる「記者の目」で、自分の境遇すら分析してみせる再起の一歩を踏み出した著作は、ユーモアも交えた読み甲斐のあるものだった。

きのう目にしたインタヴューは、テーマにあまり興味のないかたにとっては、長くてつまらないかもしれないが、女性で、独身で、介護する身であり、また、まさに「官製ワーキングプア」のその非正規雇用環境に身を置くわたしには、彼女の取材の内容がとてもリアルに実感できるし、共感できた。


竹信三恵子インタビュー  




政府の言う一億総活躍社会という青写真の胡散臭いところは、先日も懸念したが、「所得」モデルを「大黒柱となる男性の稼ぎ手がいる家族の総合計所得」で捉えているところにあるような気がする。大黒柱の所得が伸びないから、家族みんなで働きに出ることを、一億総活躍社会と言っているだけのような気がする。本当は、ひとりひとりの人間が生存権として、望めば、自分の暮らしの生涯設計を自分の給与で組み立てられるような仕事を持って生きていけるような社会を構築できるように法整備してゆくべきなのに、ひとりひとりは飼い殺しのような所得のまま、家族十把一絡げ的に協力することを要請するような法ばかり作ろうとする。まるで、「家庭」が、「非正規派遣業斡旋事務所」みたいに思えてくる。





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# by kokoro-usasan | 2016-10-16 11:54 | トピックス

風のおと

うれしい。今日も晴れた。秋晴れは気持ちいいなぁ。

わたし、鈴木まもるさんという絵本画家(鳥の巣博士)のファンなのですが、そのパートナーで絵本作家の竹下文子さんのブログ「閑猫堂」も時々心の洗濯のために立ち寄らせていただいています。今日はそこで、こんな映像を紹介してもらい、「何も起こらない」その時間をじっと見つめていたのですが、何も起こらないまま終わったので、肩透かしみたいな気がして、なんだか最後ちょっと笑ってしまったのでした。でも、にやにやしたあとで、ふいに、あ、自分ってなんてあさはかなんだろう、と思ったのです。「そのうち何か起こる」と思って見ているせいで、「何も起こらない」時間は、ただ漫然と見てるだけでした。「何も起こっていない」わけじゃないのに。 とても素敵な時間が流れていたわけなのに。あふれかえるいろいろな刺激に慣れすぎて、「何か起こる」映像を当然のように期待していた自分に、なんだか考えさせられました。







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# by kokoro-usasan | 2016-10-15 12:35 | 日々 | Comments(0)

知らないことばかり。

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すこし晴れた。この写真が好きで、以前にもアップしたことがあるけれど、この季節になると、また出したくなってしまう。ご容赦。これを撮ってからもう10年は過ぎているから、芝生の上に座っているおちびさんたちも今では成人しているんだろうな。

ヘアドネーションの記事が新聞に載っていて、丁度わたしも自分の伸びすぎて持て余している髪を、そういう形で使ってもらえることを知ったばかりだったので、なんだか、「いざ!」と後押しされているような気になった。ヘアドネーションとは、病気などでカツラを必要としている子供たちに、髪を寄付するという試みだ。多少傷んでいても、縮毛でも、白髪混じりでもいいのだという。そのかわり、長さは30センチ以上は必要で、今特に希望されているのは、50センチ以上の髪なのだという。当初、カツラを作るのに、50センチも必要なのかなとピンとこなかったのだが、昨日の記事を読んで理由がわかった。とてもシンプルなこと。カツラの必要な子供たち、特に女の子たちのなかには、できれば女の子らしいロングヘアーのカツラをしてみたい子も多く、そのためには、50センチ以上の長さの髪が提供されなければ作れないのだった。

このところ、わたしは美容院に行くのがとても億劫になり、かれこれもう8年は伸ばしている。途中、うっとうしくて自分ですこし切ってしまったりもしたので、さすがに80センチも伸ばしてはいないが(髪は1年に10センチくらい伸びるそうだ)、50センチはある。普段は、その髪をひっつめのお団子にしているので、まさか、そんなに長くなっているとは同僚でも気づいていないだろう。しかし、こんな老いさらばえた髪でもいいのだろうか。もともと、ショートカットが好きなのだけれど、ショートカットだとこまめに美容院に行かなければ、その髪型を維持できない。そこが、この枯れた(?)生活の中では、贅沢というか(精神的にもついてゆけないというか)ネックになって伸び放題だった。

それにしても、美容院に行けば、切り落とされている髪の束がたくさん床に落ちていて、ちょっとびっくりするくらいの様相を呈しているというのに、30センチ、50センチを、1回で切るというひとは、女性でもほとんどいない。でも、新聞の写真には、カツラを作ってらっしゃる方の部屋に置かれたとても長い髪の束がたくさん写っていて、ヘアドネーションという試みに、これほど参加しているひとがいるとはと、ちょっと意外だった。社会って知らないことばかり、だなぁ。



でも・・・・、なんだか、最後に余計なことをいうようだけれど、

世界のあちこちで、命の危険にさらされ、あるいは毎日のように命を落としている子供たちを救うことができないのはどうしてなのだろう。平和のための戦争なんて、本当にあるのだろうか。




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# by kokoro-usasan | 2016-10-14 11:51

エネルギー

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また曇り空。

そういえば、何日か前、朝起きてすぐ牛丼が食べたかった日があって、え、朝からそれはどうなのかな、と自分に突っ込みたくなった。胃はわたしになにを訴えているのだろう。「ランチのアッコちゃん」というドラマ(原作は小説)のなかで、人の顔色ばかりうかがってしまう気の弱い主人公に、人生の頼れる先輩ともいうべき「アッコちゃん」は言う。「生き方を変えたかったら、食べ物を変えなさい」。粗食のわたしにはなかなか耳の痛いひとことで、仕事以外では引きこもりがちな自分のエネルギー収支を思い浮かべてみたりした。

だが、「アッコちゃん」の物語は、栄養バランスのとれた健康的な食事が人間を陶冶する、という一義的な話ではなく、丁寧に作ったそれらを「分かち合う」こと、あるいは、それらを食べる「時間」を誰かのために用意してあげる余裕が、その人間の心の視野に入ってきたときに、その人の立ち位置がいつのまにか変わり、停滞していた水が流れ始めるように、あたらしい関係性の向こうに足を踏み出し始める、ということに繋がっていた。たとえば、この物語の主人公に関しては、好きな料理を通して、その「水」が、堰を超える瞬間が訪れたということなのだろう。

だから、少し勝手に言い換えてしまうなら、「生き方を変えたかったら、・・・・を変えなさい」の「・・・・」の部分は、特に食べ物でなくてもいいのかもしれない。この物語では、たまたま主人公のまったく工夫の感じられない殺風景な手弁当を目にしたアッコちゃんが、(それでも、わたしには美味しそうに見えたけれど)、そこに、彼女の自信のなさ、自尊感情の低さを感じ取って、味そのものは悪くないのに、自分の能力に自分で気付けていないもどかしさを感じて、声をかけてしまったということなのだろう。

このドラマは、2年前に退職してしまった同僚がダビングしてわたしにくれたもので、確か8話くらいあって長いのだけれど、表情をあまり変えないクールなアッコちゃんの正体不明な感じに引かれて、一気に見てしまったものだ。先日、なんとなく見直していて、「食」ということよりも、「人がつながる瞬間」について思いをはせることしきりだった。わたしたちは、なにかを通じて、ひととつながるしかない。それは、触れられると消えてしまうシャボン玉のようなものではなく、手応えとぬくもりのあるものでなければ分かち合えないのだ。(抽象的な意味でね)

そんなふうに思ってはみるものの、自分がそうできている気が全然しない。シャボン玉の膨らみ具合ばかり気にしているような自覚のほうがある。 


今朝ネットで見かけた写真の姉妹(多分)かわいい。手をしっかりつないで、街角で歌うひとを見上げていた。東京もいっきに寒くなって、全身モコモコしたくなってきました。






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# by kokoro-usasan | 2016-10-13 12:13 | 日々

癇癪玉

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  Wolfgang Stiller作品

前回、「つぶやきたい欲求」にかられて、休日をパソコンの前で延々過ごしていた。本当は、ほんのひとことのセンテンスを脈絡なくアップしてゆくことに興味を抱いていた。なんでも、起承転結が気になってしまう自分の、きつきつの固結びのようなものを、ほどきっぱなしにしてみたい。そう願っていたのに、いやはや慣性の法則というか、宿痾というか、「小粋」なつぶやきには程遠いものとなり、ぶんぶん固結びを振り回して、居直りというか、ふんぞりかえって終わった。

このところ「漱石」という2文字に胸のうちのなにかが反応するのは、漱石の文学に反応しているのではなく、漱石の「神経質」に反応しているようなのだ。「夢十夜」を書き上げるにいたる、彼の持ち前のナーバスさ。なにかにひたすら我慢している。癇癪持ち。

例のドラマを見ていたら、ありったけの衣装を着せて身動きとれなくさせている自分自身の「癇癪玉」のようなものが、小刻みに震えだすのを感じた。いい大人なのだから、折り合いをつけて、良き隣人でいようではないかとなだめる。本当はそれは、癇癪玉というよりは、命の玉なのかもしれないのだが、割れたあとに出てくるものを、本人が恐れている。だから、厚着をさせて押入れにしまっている。

だが、漱石が、創作という発露を得たのは、確かに癇癪玉の導きだったような気がしなくもない。

ところで、きょう、冒頭の写真に出会い、このぎょっとする作品に目を奪われた。世界には、燃えている炎を描写したいひともあれば、この炭化した残骸に無言のメッセージを込めたいひともいるのだと思った。

人によっては目をそむけたくなるかもしれないけれど、わたしはこの作品がなんだか好きだ。節くれだった指の、大きくて乾いた感触の手のひらのように、わたしの心をなだめてくれる。わたしの胸の内の癇癪玉も、これ面白いね、と言う。そうだね、と、わたしも癇癪玉に告げる。


今年、東京は雨の多い秋になった。きょうは快晴で嬉しい。洗濯物をたくさん干した。






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# by kokoro-usasan | 2016-10-12 10:34 | 幕間

「つぶ欲」がおさまるまで(おさまりました)

ほそくながぁくいろんなことを考え続ける性質ではあるのだけれど、最近、ただ、ただ、刹那的につぶやきたい欲望にかられ、「それでつまりなにが言いたいの?」というような内なる「裁きの声」に耳を塞ぎ、とにかく、だらだらと、いま思ったこと、さっき感じたことを、書き流したいのでありました。ご容赦。


これは職場の知り合いが紹介してくれた音源。「小学生でこのレベルはすごい」って。不幸にして音痴という宿命を背負ったわたしに「レベル」を云々する自信はないのだけど、久しぶりに合唱を聞いてちょっとジンときた。優しいハーモニーだなぁ。その優しさの一端は間違いなく変声期前の少年の放つ高音の美しさなんだと思う。女の子だけじゃ、この繊細さは出ないと思うのだ。



この間、3年に一度のAED講習を受けた。3回目なので、結構手順が身についてきた。運動不足の割に、息切れしなかったのが不思議。前2回は「救命訓練」でぜいぜいしてしまう虚弱さだった。3時間講習を受けて、わかったつもりになっていたが、最後の質疑応答のとき、あるひとが、「意識のない傷病者にAEDを使う場合・・・」と質問を始めた。そのとき、教官が、なぜかとても小さな声で、つっこみを入れており、そのつっこみ、本当はもっと大きな声でいうべきだったのじゃないかなって思えた。教官はそっとつぶやいたのだ、「意識のないひとじゃなくて、呼吸のないひとだからね・・・」 そう、たとえまったく意識がなくても、心臓が動いていて、呼吸しているひとにAEDは必要ない。医療関係のかたはそこをきちんとごらんになるが、一般人は慌てて、すぐAED!?ってなってしまう。たとえば、数年前のわたしのように。苦笑。呼吸を確認すること。



山崎ナオコーラさん、小説はまだ読んだことがないのだけれど、とてもよかったとすすめてくれるひとがおり、彼女のエッセー「かわいい夫」を読んだ。結論から言うと、たしかに「いい」のだった。妻よりも収入の少ない実直な書店勤務の伴侶を持つ作家が、そんな夫のかわいらしさについて、さばさばと語っている。その「さばさば」さが、なぜか、心地よく、そして、すてきに思える。夫婦というものがどういうものであるかということよりも、幸せというものがどういうものであるか、を、考えてしまうエピソードがつまっていた。著者の視点、結婚観、わたしは好きだな。でも、彼女、さばさばしてても、情は深いひとなんだと思う。相手を大切にする気持ちがきちんとあってこその、ドライさなんであって、わたしが、今日にいたるも、結婚していないのは、情よりも、我執と臆病さが勝った上でのドライさで、ようは包容力がないんだもの、無理もないな、と、割と的確な自己分析を致しましたのであります。自己分析がだんだん正確になってきてかなしい。(笑)



そういえば、政治家の「領収書」の問題。先日問題になった市議会議員の偽造領収書のほうは、ほんとに情けない子供だましの水増しだったけど、今回のって、きっと水増しじゃなく、2万円ってなってても、実際は、袋のなかに、20万円くらい入っていることもあるのかもなぁって思いながらテレビを見てたのでした。


2万円が実は20万円かもなんて腹黒きお代官様みたいな気持ちになってつぶやいていたら、さっき、お湯を注ぎ込んでいたカップ麺が、3分どころか、30分も放置されることになり、猫舌のわたしには、いい感じに冷めた味噌ラーメンを食すこととなった。あんまりふやけていたので、かき混ぜられず、上から粛々と食べていたら、最後に、濃密な味噌味登場。カップラーメンを食べるのは、たいてい、食欲がないとき。だから、お湯を注いだあと、その存在を忘れてしまっていたのだろうな。

漱石は50歳になることなく没した。なんか若いよねぇ。漱石より年上の人しかいない我が職場では、「あれ、いま、わたし、なにしようとしてたんでしたっけ?」という言葉が飛び交い、みんなでいたわりあって仕事をしている。

目の前の高齢者に、親切にゆっくりとなんども説明する癖がついた職場の同僚たちは、ときどき、学生さんにも同じように説明しようとし、「それはさっき聞きました(くどいよ)」と冷たい顔をされて、結構落ち込んでいる。「あれ? 若いひとは一回言ったら、すぐ覚えちゃうのね」とちょっと驚くのだ。自分もそうだった季節をもう思い出せない。子供って、昨日できなかったことが、今日、できるようになってるのよね、という会話をよく耳にするけれど、きのう、できたことが、きょう、なぜか出来ない、やがてそういう日がくることを、当事者はもちろん、若いひとたちも、優しい心で受け入れてくれる時代がくるといいのだけれど。


ところで、わたしの母は、耳が遠くなってしまい、ひとの気配にも疎くなった。母がひとりで、家のなかをうろうろしているとき、ちょっと面白がって、そのうしろをついてまわっていても、彼女はぜんぜん気付かない。なにかの拍子にうしろを振りかえって、わたしを見つけると、「おどろいちゃった〜」というのが決まり文句。で、この「おどろいた!」ではなく、「おどろいちゃった〜」というちょっと間延びしたところが、なんだか可笑しいものだから、結構、なんどもいたずらしてしまう。わたしが同じことを何度もされたら、「ついてこないで!」と癇癪を起こすかもしれないなと思うのだけど、母は、必ず「おどろいちゃった〜」と言って、顔をくしゃくしゃにして笑うのだ。わたしが子供のころは、そんなひとではなかった。むしろ、やはり「ついてこないで!」という人だったように思うのだ。ふしぎなものだ。




小学生の合唱、歌詞が気になったひとのために。2曲めのほう。

未確認飛行物体
                    入沢康夫

        薬缶だって、
        空を飛ばないとはかぎらない。

        水のいっぱい入った薬缶が
        夜ごと、こっそり台所をぬけ出し、
        町の上を、
        畑の上を、また、つぎの町の上を
        心もち身をかしげて、
        一生けんめいに飛んで行く。

        天の河の下、渡りの雁の列の下、
        人工衛星の弧の下を、
        息せき切って、飛んで、飛んで、
       (でももちろん、そんなに速かないんだ)
        そのあげく、
        砂漠のまん中に一輪咲いた淋しい花、
        大好きなその白い花に、
        水をみんなやって戻って来る。



母がトイレの床に座り込んで、痛い、痛いー、と唸っている。起こそうとすると、もっと大きな声で、いたいーーと叫ぶ。どこが、どこが痛いの?と、耳の遠い彼女に大きな声で問いかけるが、あまり聞こえていないか、聞く気がない。本当にどこか痛いのか、それとも「立てない」という焦りを表現するための語彙が失われて、もはや「痛い」という単語くらいしか取り出せなくなっているのか。わたしよりも体重の重い彼女の、砂袋のようにまったりとつかみどころのない体を支え、なんども態勢を整えながら、起こしあげる。さきほどまで、恐ろしい虐待でも行われているかのように容赦なく「痛いーー」という声を発していたひとは、二本足で立った途端、大きなあくびをして、「あぁ」と静かになる。支えながら寝床まで付き添う。「痛いーーー」と叫ぶと、介助者が飛んでくる、というパターンが、彼女のあたまの回路のなかに出来上がってきつつあるのだろうか。それは、思考回路と呼べるほどの意味も持たず、なにか本能に近いようなものとして。このように、なんども夜中に起こされると、時には、あまりに驚いて飛び起きるせいで、内耳の状態に異変が起きるのか、あとでふいにメニエール氏病のような激しい回転性の目眩に見舞われることになる。そうなると、我々親子は共倒れの危険があるため、わたしは枕もとに、「酔い止め」の薬を置いて寝るようになった。別に車酔いではないのだが、回転性の目眩にも、酔い止めが効くことに気づいたからだ。それでも、この目眩に襲われると、母ではないが、起き上がることなどまったくできなくなるのであり、涙をこぼさんばかりの苦しさのなかで錠剤を口に放り込み、2時間ほどじっと目を閉じて、頭を絶対に動かさないようにしているしかない。願わくば、この時間だけは、母の「痛いーーー」という助けを求める声が聞こえてきませんようにと念じながら。

とはいえ、たとえば、70代の要介護の妻の面倒を見ながら、新聞配達をして家計の足しにしていたという同じ70代の夫が、新聞配達中に何度も転倒するようになり、いよいよ限界かと、無理心中に至ったという話を聞いたりすると、わたしは自分がまだそれほどの高齢ではないことに感謝するとともに、自民党改憲草案のなかにある、福祉を、行政ではなく、家族の義務に移行させようとする一文に、おののかずにはいられない。この国の憲法にその生きる権利を保障されたひとびとのなかには、いわゆる血縁上の家族に恵まれずに暮らしているひとが、どれほどいると思っているのか。はなから不平等のあるものを視野にもいれず、家族は助け合おうなどという「憲法」を作られてはたまったものではない。もし、それを主張するのであれば、そのまえに、家族とはどういうものであるか、どういうひとたちをもって家族の名のもとにくくるのか、納得のゆくように、このわたしに明示してほしい。

わたしは社会保障や、法に、そんなに手厚くしてもらえるとは、もともと期待していない。だが、たとえ、家族のために尽力したとしても、それは「家族は助け合おう」などという「すすめ」でそうするのではなく、「個人の意思」でそうしているのだと認められるべきであり、憲法はもちろん「幸せ」を歌うが、「幸せの形」まで規定はしないということを言いたいのだ。人は助け合おう、でいいではないか。なぜ、家族、なのか。人は助け合おうで社会保障は生まれたが、家族は助け合おうは、社会保障を切り詰める方便に使われる。


急に話がそれるけれど、洲之内徹の著作のなかに、「嫌な顔をする女」について書かれている一節があって、うろ覚えなのだが、若い頃読んで、妙に印象に残った。それは、洲之内さんが関わったある画家の細君の話なのだ。洲之内さんはその画家と話をしている。しかし、その細君が、時々ふっと見せる、すごく嫌な表情が気になってしまう。それが、わざとそうしているとかいうのではなく、その細君の天与の表情ともいえる、なにか無意識のものであることが、洲之内さんの心をえぐるのだ。長い文章のほんのわずかな一場面なのだけど、わたしはそれを読んだとき、自分もそういう女になるんじゃないかとおそれた。そういう血が流れているような気がしたのだ。嬉しくはなかった。気をつけないといけないなと思った。

「夏目漱石の妻」をテレビで見ていたとき、漱石を演じている長谷川博巳の表情に、同じ種類の冷酷さというか、不穏さがあったので、ぎょっとした。ひとの愛情を信じていないひとの目といおうか。愛情を持っていてすら、裁くこころを併せ持ってしまう、冷めた目。


あはは。つぶやき欲とは、つまり、毒を吐きたい気持ちだったのかしら。ただいま、11日の午前3時。この深夜、もう4回は、母のトイレにつきあっているけれど、大げさな「痛いーーーー」を言わなくなってきたので、もうそろそろ、わたしも眠ろうと思う。昼間、母がデイサービスにいってくれている時間が本当にありがたい。これがなかったら、わたしと母は弱り果てていただろう。社会福祉の財源がないという話になるとき、本当の意味で、税金を食いつぶしているのは、だれなのか、国会を見ていると、暗澹たる思いがする。
さぁ、きょうは、これで店じまい。失礼つかまつった。


薬缶、今夜も、空を飛んでるかしら。






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# by kokoro-usasan | 2016-10-10 12:26 | つぶやき

そわそわ

e0182926_10361211.jpgこのブログのレイアウトは、既定のものを自分でかなりカスタマイズしてしまっているのだけれど、しばらく前に、字体も、ゴシックから明朝体に変えた。ネットのなかの字体は大概ゴシック(系)が使用されていて、それはおそらくネット画面上では一番見やすいということなのだろうなと思う。でも、自分の打ち込んだ文字が、すべてゴシック(系)で、画面に浮かぶのを見るたび、わたしはいつもちょっと「ふうん?」と感じてきた。それは多分、自分の頭のなかでは、明朝体の字が浮かんでいるせいだったのだろうと思う。

そのゴシック(系)で10年以上、黙々と打ち込んできて、ある日ふと、明朝体(系)でブログをやっているひともいることに思い至り、灯台下暗しというか、そうか設定を自分で変えてしまえばいいのだと気付いた。で、思い通りに明朝体に変えてみて、自分ではほっとしているのだけれど、おそらく、それほど好評ではないのではないかと思う。なんか、フレンドリーな字形じゃないんだよね。でも、実際の書籍で使用される字体って、明朝体が多いでしょう? たぶん、わたしは、ネットでも、そのくらいの距離感を望んでいたのかもしれない。漠然とした形容で申し訳ないけれど。へんなこだわりね。

「やっほー」とか、やんちゃに話しかけたいときに、この明朝体は、どうも向かないんだよね。最近、あまりブログを更新しなくなっているのは、この字体に合った内容をなんとなく意識しているうちに、話の鮮度が落ちてゆき、自分でもどうでもよくなってきている、ということもあるような気がする。それが、いいことなのか、まずいことなのか、考えてるとこ。(また、余計なこと考え始めて! と苦笑するひとの顔がちらほら浮かぶなぁ) そうか、その日の気分に合わせた字体を選べるといいのかな。でも、そんな分裂した感じ、果たして自分で受け止めきれるんだろうか。

さてさて、前置きが妙に長くて、もう終わってもいいくらい書いてしまったけど、ここからが本文で(?)、NHKでやってるドラマ「夏目漱石の妻」を録画で見ていて、漱石って、あんなに神経質なひとだったのかと少し驚いてみたりしている。井上ひさしだって、執筆中は、奥さんに暴力をふるったりしたという話があるから、ある意味、ありがちな日常を、ドラマのなかで特別にスポットライトを当ててみてみると、妙に異常にみえてしまうということでもあるのかな。なんだかスリリングなドラマだ。漱石の妻を演じる尾野真千子が巧いなぁと思う。脚本家は、「物書き」の姿を特別視せず、淡白に扱っていて、そのことで、見ている人間が、丹念に目を拾って編み上げなくてはならないような形になっているけれど、なんか、使っていない筋肉を、刺激される感じがする。ドラマそのものもそうだが、そうやって刺激される自分が謎で、自分のなにがどう刺激されているのかわからないまま、そわそわする。


写真は、しばらく前から重宝しているお皿。中央に描かれているのは鹿。鹿だなってわかるのだけど、けして、そつのない筆さばきではなく、「鹿?」とためらわせる素朴な筆致が逆に愛着をわかせていい感じ。ギャラリーで見て、一目惚れして買ってしまった。奈良に住むご夫婦が作っているという。このお皿は、「字体」でいうと、なんだろうなぁ・・・。やっぱり、ゴシックではないような気がする。





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# by kokoro-usasan | 2016-10-09 11:53 | つぶやき

テイク2

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一昨日、休みで家に引きこもっていたときに、たまたまテレビをつけたら、女性たちが主人公のバイオレンスアクション映画をやっていて、こんなことを言うとなんだけど、あまりにも酷い内容に思えたので、この酷い脚本のどこかに救いはあるのかと逆に意地になって最後まで見てしまったのだけど、終わりに近づけば近づくほど、様々なほころびは一斉に裂け始め(やぶれかぶれとはこのことか)、最後はその酷さが頂点に達して幕を閉じたので、なんだか、嘆息とともに気の抜けた笑いがこぼれてしまうほどだった。(ごく個人的な見解です)

でも、今朝、「仕事で、おつりの計算の暗算を間違って、すぐ気付いて言い直したのだけど、それが機密本部に通報され、刺客が差し向けられたのを察知したわたしは、殺されまいとして、今勤めている職場の高いフェンスをピョーンと片手で飛び越えると、昔住んでいた街の路地裏を超高速で走り回り、絶対、刺客には気付かれないと思われる物陰に隠れることに成功した。あぁ、やった、よかったと思ったら、テイク2という声がかかり、今のは死なないで済むヴァージョンで、次は捕まって死ぬ方のヴァージョンを撮りますので、最初のシーンに戻ってください、と声がかかり、えー、それはないでしょ、そんなヴァージョン要らないよ、と思いながらしぶしぶセットに戻ろうとしている」夢を見た。

目が覚めて、なんでこんな夢見ちゃったんだろうと、首を傾げたけれど、まったく原因不明、ということでもないみたいって、あとで気付いて、また苦笑した。でも、そのあと再び見た夢(テイク2?)では、大きく展開がそれて、以前の職場で親しくしていた同僚や、懐かしい友達に再会して、さて、新天地で働くか(やっぱり、労働からは逃れられないのね)という気分一新のストーリーになっていたので、怖い思いをしなくてすんだ。それとも、そうやって気を抜いたところで、あっさり殺されちゃうというオチが待っていたのに、わたしの眠りが深くなって、意図せず命拾いしたのかしら。

それにしても「死なないヴァージョン」と「死ぬヴァージョン」を両方撮ってみます、というわたしの夢の思考回路、なんか、そこだけ、妙に身につまされるのだった。



しょうもない夢の話。



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# by kokoro-usasan | 2016-10-05 22:10 | 日々

チンクエテッレ

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ミュンヘンに暮らす友人が、これから遅い夏休みで、チンクエテッレに行くのだという。しばらく待っていれば、旅の写真をブログにアップしてくれそうだけれど、わたしは、チンクエテッレという地名を初めて聞いたものだから、どんなところなのだろう、世界遺産になってるらしいけれど・・・と知りたくなってしまったのだった。

日々、仕事の不条理にめげながら、その暗雲を右に払い、左に払いながら、なるべく明るい部分に希望を託して生きている。まだ頑張れそうだと自分に確認しながら、朝の一歩を踏み出すけれど、夜更けの帰宅にはもやもやとやるせない思いで足取りが重くなることもある。認知症の母の笑顔に愛しさが湧き、心癒されるときもあるが、同じ笑顔で、家の中がとんでもない状態になっていたりすれば、癒されるどころか、その笑顔がむしょうに腹立たしくなることもある。深く傷つこうが、大声で怒りたくなろうが、彼女には理解できないし、その記憶も保存されないから詮無い。それでも、意外に、わたしは機嫌よく暮らしているのではないかと思う。

それでも、ネットでチンクエテッレの写真を見たときに、なんだか、甘酸っぱい思いがこみ上げた。こんな場所で夕べの潮風に吹かれてみたいものだと思った。心を許したひとと、路地裏をあてもなくさまよってみたい。

この気持ちを覚えておこう。覚えておけたなら、いつか叶うかもしれない、そう思った。





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# by kokoro-usasan | 2016-10-02 18:17 | すてき


閉じられていないもの


by kokoro-usasan

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