個人的な、あまりに個人的な。

今の政権になってから、閣議決定の中身が、中学校のホームルームみたいなレベルで驚く。「そもそも」とはどういう意味かなどということを決めるのが国の政治だろうか。

誰かも言っていたが、国会が、まるで首相個人の「自己実現」のためのメンタルカウンセリングか、ヒアリングのような場になってしまっている。膨大な経費を使って、首相の願いや悩みを「聞いてあげて」、彼がうまく表現できなかったり、コミュニケーションに支障が出た場合は、取り巻きたちが、懸命にフォローして、メンタル落ちしないよう支えている。彼がよく、「丁寧な説明を」と国民に言っていたのは、政治の話を丁寧にするのではなく、彼の支離滅裂な言葉を、丁寧に取り繕って説明する、ということでしかなかったようだ。これでは、政治的な議論が深まらないわけだ。(むしろ深めないで済ませたいのだろうが)

「そもそも」とは、どういう意味かなどということを、ただ首相の面子のためだけに「閣議決定」までする一方で、国家の重要な政策に関しては、「ここではお答えを控えさせていただきたい」で逃げ切ろうとする。国会議員が国会の「ここ」じゃなくて、どこで答えるのだ。そもそも、「そもそも」こそ、どこか別の場所、読売新聞のインタビューあたりで心ゆくまで釈明されたらどうか。あまりにも考え方が本末転倒だ。

だいたい、「首相夫人」を「私人」と閣議決定しておきながら、外務省のHPでは、昭恵夫人はいまだに「日本政府要人」として紹介されている。日本政府要人に、国家公務員が同行するのは筋が通っているが、「私人」のプライベートな旅行に国家公務員が同行して職務として補佐するなどという「ダブルワーク」を国は認めるのか。つくづく、節操のない話だ。






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# by kokoro-usasan | 2017-05-13 19:09 | つぶやき

犬マップ

前回の「てんとうむし」の記事は、それっきりで、続きませんでした。あしからず。

いろいろあって、なにかについて腰を落ち着けて書くという状況にないのだけれど、友人が、いよいよツイッターを利用し始めたのを見て、なんだか、「短いつぶやき」もいいかもしれないなぁ、なんて思う。

わたしもツイッターをやってみようかと考えて、自分らしいアイコンを、あたまのなかでいろいろ想像してみた。真面目過ぎても、くだけすぎてもよくないなぁ。昔、飼っていた犬の写真あたりはどうだろうとふと思ったが、なんだか、勝手に拝借するのも犬の霊(?)に申し訳ないような気がして気が進まない。

そんなこんなで、その犬の写真を眺めていたら、彼は「秋田犬」なのだけれど、秋田犬というのは、柴犬とはずいぶん違う顔をしているのだなぁと、今更のように思った。(追記あり)子供の頃は、日本の犬と、西洋の犬、という感じのおおまかな分類で覚えていた。だから、友達から、どんな犬?と聞かれると、柴犬の大きいやつ、と答えていたような気がする。でも、今、あらためて写真を見ると、これは柴犬とはまったく異なる雰囲気の犬だと思う。

まぁ、そういう細かいことにこだわらない(わからない)おおざっぱな子供だったわたしは、「あんたんち、なに犬? 柴犬?」とか聞かれて、「うちは番犬」と答えたくらいなので、なにをか言わんやなのであるが。

でも、仕事にゆく道すがら、最近は、番犬をほとんど見なくなった。犬も猫も室内で飼う、という感じになってきたのだろう。かつては、みな、玄関先に犬小屋があって、そこに鎖に繋がれた犬がふて寝しているような姿をよく見た。近寄ると警戒して吠えるが、「顔なじみ」になると、たやすく懐柔される。

今でも犬小屋で飼われている犬たちを見ると、大抵が柴犬や秋田犬などで、あと、まったく摩訶不思議な風貌の巨大な犬を2頭も飼っている家もある。見るたびに「大きいなぁ」と思うけれど、いつも、玄関前にベターっと伸びて、目を閉じているばかり。ときどき、ちろっと目を開けるけれど、またけだるそうにすぐ目を閉じる。こっちが、「わん!」とか言って驚かせたくなるが、驚かせて、襲いかかられても困るので、想像だけにする。他にも、たぶん秋田犬なのだけれど、目が妙に寄っていて、なんだか、目が合うと、笑ってしまう犬がいる。自分のファニーフェイスを知ってか知らずか、挙動も、どこかひょうきん。そのうえ、無類の女好き(?)で、かわい子ちゃんがお散歩で通りかかると、ありったけの甘えた声を出して、ふがふがと興奮し通し。しかし、わたしが知る限り、かわい子ちゃんのほうから、「あら?いい男!」的レスポンスがあったことは一度もない。ちょっと気の毒な気もして、様子を伺うと、ファニーフェイスが虚しく宙を見ている。悪いけど、くすっと笑ってしまう。犬にもいろんな性格があるんだよね。

それと、ここ10年近く、もうそろそろ寿命なのかなぁと心配しながら、いつも気にしているビーグル犬。ときどき、足を4本とも突っ張って犬小屋の前に寝ているので、「あ、死後硬直か!!」と心拍数をあげるのだけど、幸いなことに、翌日見ると、のろのろ動いているので、ほっとする。あの犬は、10年前、すでに老犬に見えたのだけど、実は、子供のくせに老犬風な佇まいだっただけなのだろうか。いやぁ、そうも見えなかったけどなぁ。でも、長生きしてて、よかったよかった。


わたしの犬は、大きい割に、気が小さくて、なんでも人に頼ろうとするし、頼ったら頼ったで調子に乗って失敗して、あとで叱られるというタイプの、あまり頭がよろしくない、でも憎めないタイプの子だった。それでも、わたしよりも、どんどん先に歳をとり、最後はおじいちゃんみたいになって、そうだ、おじいちゃんみたいになってたのだけど、死ぬ間際、子犬だった頃みたいな顔になってわたしに甘えた。だって、わたしたちきょうだいだったんだもの。子供の顔で甘えていいんだ。

あぁ、あぁ。こんなにだらだら書いちゃって、やっぱり、わたしには、ツイッター、無理かなぁ。



追記
秋田犬は柴犬とは全然違うのだなぁと思ったけれど、そのあと、秋田犬をパソコンで検索したら、秋田犬と柴犬は、結構似ている。あれーーー。じゃぁ、うちの犬は、なに犬なのだろう。秋田犬って、父からは言われていたのだけれど。たしかに、あのファニーフェイスの子こそが秋田犬だ。うちの犬は、丸顔のシェパードみたいだ。丸顔のシェパードって、なんか笑える。いやぁ、混乱。
すみません、いい加減な内容で。とりあえず、「番犬」ということで・・・。涙




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# by kokoro-usasan | 2017-05-05 16:49 | つぶやき

てんとうむし

「辺鄙な場所」に住む友人から、2キロ先のコンビニまで自転車で出かけたら、途中で雷雨になって、びしょ濡れで帰ってきたが、とても気持ち良く、懐かしい気持ちがした、とメールが来た。両側になにもないような田舎の一本道、地平線近くに突き刺さる稲妻を見ながら、新緑の雨に濡れて自転車を走らせる快感を思った。

朝、ゴミ出しがてら、朝刊を取りにゆき、街路樹の根元に咲くナガミヒナゲシの花を眺めていたら、その横の枯れた紫陽花の木の幹にてんとう虫がとまっているのを見つけた。てんとう虫を見るのはひさしぶりな気がする。つやつやとした赤い背中(背中というのかね)に、黒い点をつけている。ちょっと指で触れると、すたこらさっさと幹の陰に隠れて、それからまた、陽の当たる枝先に出て、ひなたぼっこしている。(ひなたぼっこというのかね)てんとう虫は、幸運の印って読んだことがあるような、ないような。でも、きっと、幸運の印だよ、そう思うことにする。


(続く。たぶん)





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# by kokoro-usasan | 2017-05-01 09:02 | 日々

柿の若葉

柿の若葉がとてもきれい。そういう季節。鳥の囀りも活気を帯びて。

隣家の屋根の上から、鴉が我が家の庭の木を盛んに窺っているのを見て、すわ、メジロだとか、山鳩の巣の卵を狙っているのかなと思い、木の根元まで様子を見に行った。巣は見当たらず、かわりに、枝先に丸まったスーパーのポリ袋が引っかかっていた。強風で飛ばされてきたのだろう。鴉はこれが気になっていたのかもしれない。欲しいのなら、鴉にあげてもよかったのだけど、もう姿も見えず、言葉も通じそうにないので、棒で引き寄せて、ゴミ箱に捨てた。

美しい柿の若葉を毎日目にすることができるのは、我が家ではなく、それが隣の庭に生えている木だからだ。隣家の庭はいつもよく手入れされており、枝ぶりも整っている。きっと、隣家のかたは、我が家の荒れ放題の庭を見ながら、ときにはため息をついていることだろう。借景がよくない、と。ベランダで洗濯物を干しながら、時々、奥さんと顔を合わせるが、とりあえず、わたしは、元気に挨拶する。そのくらいしか、心証をよくする術がない。挨拶だけはいい、と呆れられているかもしれない。とほ。

介護休業をしようと思っている。自宅介護を継続するためには、そのくらい思い切った措置を必要とするように思う。あくまでも、介護休業で、介護離職にはならないようにはしたい。やるだけやらないと、わたしは気がすまないのだろう。特に、親子関係においては。






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# by kokoro-usasan | 2017-04-30 15:06 | 日々

はかりごと

外出して、駅の売店で一瞬目に入った新聞の見出しが、強烈で、どこの新聞だか見ておけばよかった。例の森友学園をめぐる内容だったと思われる。見出しには、書いてあったのだ。

「籠池 昭恵 共謀」と。

この見出し考えたひと、エッジ効いてるなぁ。

何度も何度もゾンビのように蘇ってくる共謀罪。「テロ等」の「等」も曖昧なら、キノコ狩りでもお縄になりかねない状況とするならば、そうだ、たしかに、国有地売却をめぐる、このたびのあれやこれも、国会で、慎ましやかに質問してみるといいかもしれない。こういうのも「共謀」ということでよろしいでしょうか、と。

国の財源に不利益をもたらすのみならず、教育勅語に心酔した子供たちが、天皇のために、テロも辞さない、と決意する日がくるやもしれないわけですから、これは見事に共謀罪では、と。






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# by kokoro-usasan | 2017-04-29 00:39 | トピックス

追試だらけで。

母がまだ認知症ではなかった頃、シルバー人材派遣でお願いした庭師さんが、我が家の石楠花の木を見て、もうこれは寿命だな、と言ったらしく、たしかに、枯れ木のように見えていたのだけれど、母の認知症がひどくなり、好きだった庭仕事もしなくなり、庭の手入れを職人さんに頼まなくなってから、庭はあたかもジャングル状態、石楠花も、もはやこれまでという感じのなか、今年も、なぜか、ちゃんと、花を咲かせて、がんばっているのだ。ずぼらなわたしは、ほとんど、庭の手入れなどしていない。たしかに、手は抜いているが、声かけはしている。石楠花さん、あなたは寿命だと言われているそうなんですが、わたしは、まだまだ大丈夫だと思うんですよ、とか。

去年は、右側の枝先に偏って花が咲いたので、左側の枝をさすりながら、こっちのほうも、咲いてみましょうよ、こっちの枝もまだまだイケますよ、なんて囁いてみた。まぁ、真顔で言うわけではないけれど、今年は、左側にも蕾がつき始めているのだ。

母はまだ入院中。わたしが休職しないことには、在宅介護は無理ではないかという話になっている。こういうときの家族の思いというのは、なかなか複雑なものなのだろう。と、まるで他人事のように書いているけれど、いや、わたし自身、現在、かなり複雑なもの思いのなかにいる。母のケアマネさんとの間にも、うまく伝えられない思いの行き違いがあって、微妙に心理的距離ができてしまった。

「なんでも相談してください」と、「なんでも叶えます」は違うのだ。相談しても、はかばかしい答えがまるで返ってこないと、相談してくださいと言ってくれたのに・・・、と失望したりするが、それは、答えを保証しているものではないのだから、逆恨みというものだろう。

ひとりで悶々として、だんだん、内に引きこもってゆく。そうこうしている間に、母はわたしの名前を忘れ始めた。病院にゆくと、「おかあさん」と呼ばれるようになった。「おかあさん、一緒にうちに帰るでしょ」と聞く。「うん、もうすぐね」この繰り返し。子供に戻った母は、「おかあさん」が、いつも口から出まかせばかりいうことを感じ始めたのか、機嫌が悪い。笑ってほしいなぁと思う。思うけれど、胸を打つような笑顔で見つめられたら、それはそれで、ものすごく苦しいことになるのかもしれない。

このあたりで一度、態勢を立て直そうと、自分を奮い立たす。次から次へと目の前に立ち現れる人生の問いは、おそらく、すべて、自分にとって必要なもの。わたしが解きそびれているものが、何度も、追試で出てくるような。無回答で0点もらうよりは、珍回答で、出題者を困らせるくらいのことはしてみたい。





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# by kokoro-usasan | 2017-04-28 13:31 | 日々

サイレン

夢のなかで、見知らぬ男性が、ついておいでとわたしに促し、自販機の前まで案内してくれた。ほら、水が飲めるよ、と言う。喉が渇いていたのかどうか、自覚がないけれど、ずいぶん親切なひとだなと、とまどいながら感謝する。男性が、自販機のボタンを押して、出てきたペットボトルを取り上げると、ほら、とまた、わたしに差し出す。え、くれるの?と思いながら、ぼんやり 、こちらも手を出す。すると、男性は、「んなわけないでしょ」という顔で、そのまま、そのペットボトルの水を自分でごくごくと飲み干すのだった。

あ。

ちょっと、呆然とする。なんで、このひとは、わざとそんなことをするの?と思う。でも、なんだか、可笑しくなってくる。そういう「イジワル」、むかし、誰かにされたような気もする。それで、笑って喧嘩したことがあるような気がする。わたしが、あっけにとられている顔を、そのひとは、さも面白そうな、してやったりという顔で、見返すのだ。

なによ。
なんなのよ。

でも、夢のなか、そのひとが、わたしに言いたいことがわかるような気がした。

自分の水は、自分で手に入れろ、と。


目が覚めた。

今、わたしは様々な決断を迫られ、その決断の難しさからくる苛立ちや不安を時に周囲に小出しにして、「もうすこし、わたしの身にもなってよ」という雰囲気を漂わせる。そして、恥じ入り、後悔する。相手には相手で、「もう少し、わたしの身にもなってよ」という事情があるはずだ。では、わたしは、いつも、それに適切に対応できているのか。だれもが、みな、自分の事情のなかで、綱渡りしているのではないのか。

自分の水は、自分で手にいれる覚悟を決めるのだ。

このところ、ウグイスが、さかんに歌の練習をしている。楽しくて仕方がないというふうに聞こえる。練習しているうちに、すてきなフレーズがふいに飛び出してきて、自分でも一瞬、とまどっているかのよう。それでまた、絶え間なく練習する。すごいものだなぁ、と思う。

隣町のあたりから、間延びした「うおーん」というサイレンが聞こえる。真偽のほどはわからないのだけれど、それは、隣町にある少年院から、少年が脱走を企てたときのサイレンだと聞いたことがある。彼らの脱走は、ほとんど未遂に終わるか、すぐに連れ返されることになるようだが、その話を聞いて以来、その「うおーん」というサイレンを耳にするとき、なぜかわたしは、心拍数がほんのすこし上がる。

語弊があるけれど、「このままでいられるかよ」という少年の思いを、まるでそのサイレンが、少年のかわりに知らしめているかのように思えるからだろう。

わたしも、心のなかで、サイレンを鳴らす。






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# by kokoro-usasan | 2017-04-23 10:33 | つぶやき

河童

夜更けにふと、「河童の川流れ」という言葉を思い浮かべようとして、「河童の質流れ」と言ってしまい、ひとりでウケてしまった。質入れされた河童を想像する。なんだか、干からびて萎んでいそうだ。質流れに比べたら、川流れのほうが、ましだろうか。

静かな春の夜に、そんなつまらないことを考えている。

それにしたって、株価で、人間の幸せが左右される社会など、もはや人口の9割くらいのひとは望んでいないんじゃなかろうか。それでも、水を張ったバケツに無理やり頭を沈められるようにして、異なる幸せなど求めないように押さえつけられる、その9割のひとびと。つまり、9割は、質ぐさということか。ひからびて、よぼよぼの。





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# by kokoro-usasan | 2017-04-19 00:53 | つぶやき

逆ドミノ

忖度なのか欲得なのか打算なのか、そこは人それぞれなのだろうけれど。たとえば、不可解な権力を前にしたとき、とりあえず、話を合わせておいて、うまく利用しながら、同時に、お目付役として、暴走は食い止められる立場に身を置いておけるようにしよう、と、自分の能力にそこそこ自信のある人物は思うのかもしれない。ところが、ずるずると泥沼に足がはまり抜け出せなくなる。暴走をくいとめるどころか、有能さが裏目に出て、かえって暴走を加速させる側になってしまったりもする。

「とりあえず、話を合わせておいて」という自らへの言い訳は、実は、自分で思うほど軽い判断ではないのかもしれない。とりあえずだろうが、深慮の上だろうが、そのひとは、ドミノ倒しのドミノのひとつとしてあえなく倒れたことに違いはないのだ。

今後は、「違うと思ったら言われてもやらない」「おかしいと思っているのに話を合わせない」ということを、誰かと結託してではなく、自分一人で、それぞれのひとが、それぞれの場所で、静かにやってみるといいような気がする。逆ドミノは、そこからしか始まらないのではないか。





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# by kokoro-usasan | 2017-04-16 00:37 | つぶやき

呼び声

花散らしの冷たい雨。体調が快復してきた母は、認知症からくる頑是なさも復調し、看護師さんを困らせている。毎日見舞いにゆくが、母の居ない静まり返った家のなかで、ぽとりぽとりと涙がこぼれたのは、最初の一晩だけで、夜中に5度も6度も起こされずに済む眠りを、数年ぶりに味わったとき、なにか、思いがけず、穏やかで平和な気持ちを覚えてしまったのだった。ひとつきと長引いた私自身の厄介な風邪も、4日も熟睡すると、静かに遠のいていった。

夜中に何度もわたしの名を呼んでは、冷えた戸外に出てゆこうとする母を連れ戻す作業は辟易とするものだが、彼女が入院した日の晩は、その鬱陶しく感じていた呼び声が、母の命の証であったように思え、それがもし、もう二度と聞けないとしたら、と思うとひどく切なかった。血のつながりのない母であるが故にこそ、「ここまで」という関係性の線引きがわたしにはできない。「介添えなしでは歩行困難となったとき」「娘をまったく認識できなくなったとき」この2点が、働きながらの単身での介護の限界と見据えている。

以前にも母が入院した際は、入院先の病院で、認知症を忌避され、早く転院してほしいと迫られた。父が亡くなって間もない頃だったこともあり、ひどく傷心を抱えた。最近は、病院側も、高齢者には認知症がつきものという了解になってきたのか、限界に幅をもたせてくれているようだ。ありがたい。ありがたいと思う一方で、そういった抑制なしに見守っている自宅での介護の限界がまた脳裏をかすめる。老老介護など、並大抵の苦労ではないだろう。

夜中に大声を出して起きようとする母を、病院は「抑制」する。体を動けないように固定したり、車椅子に乗せてナースステーションに連れてゆき、そこで監視する。排尿は、紙おむつにするように促される。そうでないと、下手すれば30分おきに「おしっこ」「おしっこ」と言われ、ポータブルトイレで介助しなければならないだろうし、いざ、トイレに座らせたところで、1滴2滴ということもざらではないのだ。そんな患者に手間暇かけてはいられないだろう。昨日の母は、ベッドが寝にくいと言って、帰ろうとするわたしを、何度も何度も引き止めた。「もう少し、あげて」「もう少し、さげて」「こっちにむきたい」「あっちにむかせて」でも、これは、おそらく、認知症というより、認知症によってあけすけになった欲求の声そのものだろう。退屈で、退屈でたまらないと訴えたい思い。

とにかく、わたしはたくさん眠ろう。そこから先のことは今は考えまい。





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# by kokoro-usasan | 2017-04-11 11:53 | 日々


閉じられていないもの


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