長く生きるほどに

津端さんご夫妻のことは数年前から雑誌などで存じ上げていたのですが、その穏やかで質実な暮らしぶりを本にまとめられたときは、とても嬉しく拝読しました。今回、気になるドキュメンタリーをたくさん上映してくれているポレポレ東中野で、ご夫妻のドキュメンタリーが封切られるのを知り、いそいそと出かけてゆきました。普段は、それほどお客さんが入っていないように思える(失礼。タイミング的なものでしょうかね)ポレポレなので、今回も、上映時刻少し前に余裕で入場のつもりが、既に大入り。わたしよりもあとに来られた方のなかには、椅子席ではなく、「階段に座布団」席になってしまったかたもおられたようです。

以前、鎌倉の美術館で開催された建築家アントニン・レイモンドとノエミ夫妻の展覧会に行ったことがありますが、津端さんは、このレイモンドの影響を受けてらっしゃり、暮らしの設計(家や庭の造作だけでなく)に、それが色濃く現れています。あいにく、レイモンド夫妻については、建築的なことを知るのみで、その人となりについてはあまり知らないのですが、津端夫妻に関しては、興味深い記事や書籍で、一方的に親しみを覚えていたので、こうやって映像で拝見できるのは、とてもありがたく思います。そして、中身については、まだ上映中ですし、あまり語らずにおこうと思いますが、この映画のなかに挿入された、ファンタジーだけではない部分が、わたしには、なぜかとても心に残りました。

ひとの人生、ひとの心に分け入るということは、とても大変なことなのだなぁとあらためて考えさせられました。別にそういうことを示唆する場面が特別あったわけではないのですが、不思議ですね。お年寄りの暮らしに密着する映像には、どうしてだか、自分のなかの軽薄を戒めるなにかを深く感じさせられます。

長く生きるほどに美しくなってゆくということを、心密かに信じてみようか、と、そんな気持ちになる映画でした。たとえ、長くはない命だったとしても、そう密かに信じ、今日の自分を律することが可能ならば、そうしてみたいような気がするのです。


「人生フルーツ」予告編





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# by kokoro-usasan | 2017-01-13 13:04 | 映画

やまざと

e0182926_8555625.jpg同僚が活けてくれた年始の生け花の中に梅の枝が一本添えられていて、小指の先ほどもない真珠のように小さな蕾がすでにほころんでいた。手前に大きな百合の花があしらわれていたので、その甘く濃厚な香りに隠れてしまうものの、近づいてみると、梅の花は、奥ゆかしくたおやかな香りに包まれており、あぁ、梅の花もいいなぁと思う。

1月9日の成人の日の晩、ややためらいながら、テレビでNHKスペシャルを見た。「それでも生きようとした」とタイトルにある通り、福島原発事故のあと、住む場所も、生きてゆくための生業も奪われてしまったひとたちが、「それでも生きよう」とし、しかし、心萎え、力尽きてしまった経緯をドキュメンタリーで辿っていた。時々見ようと思っていた番組を見逃してしまうので、今回は録画をセットしていたのだけれど、見逃すこともなくテレビの前に座りながら、逆に、録画を中断しようかとさえ思った。なんだか、ひとが力尽きてゆく様を録画で見直すなんて、残酷なことに思えたし、正直、心が辛かったのだ。そのまま録画は続けたが、見直す必要もないくらい、胸に重く食い込んだものがあり、そのまわりに、いまそっと手を当てて、どう受け止めようかと考えている。

番組を見ているあいだずっと、わたしの脳裏には、かつてある政治家が、原発を擁護するような意味合いで「原発事故で亡くなった人間はいない」と豪語した一件が経巡っていた。リトマス試験紙で何色が出るかで、酸性かアルカリ性かを判断できるような合理的治世は不可能であることを肝に命じておくのが政治家の奥行きだと思うのだが、彼女の発言には、その奥行きがなかった。しかし、この数年で、この奥行きのなさが、政策のすべてに垣間見えるようになりつつある。水質の悪い池で、鯉が水面にぱくぱくと丸く口を開けては、酸素を吸い込もうとしている様を思い出す。人間も、質の悪い言葉の浅瀬で、酸欠になって喘いでいる。

国家は「国」のためにあり、「国民」のためにあるのではない、という暗黙の真理を思う。「復興五輪」とは、なんぞや、とあらためて疑う。「カジノ」とはなんぞや、とあらためて眉をひそめる。富を持つものがさらに富を増やし、貧しいものが一抹の夢をかけながらすべてを失う構造は覆しようがないのか。むしろ、覆しようがないように、それが固定化するのを望むように、様々な縄が、かけられてゆく。様々な結び目で。ほどけそうで、ほどけない狡猾な結び目。贈り物のリボンと見まごうような縄すらあるだろう。


上の写真は、芭蕉の直筆を絵葉書にしたもので、この絵葉書そのものはきのう、友人に送ってしまったので、もう手元にない。ちょうどいい日和かなと思い、投函した。

 山里は 万歳遅し 梅の花   
  やまざとは まんざいおそし うめのはな

芭蕉が48歳のとき(1691)に伊賀上野で詠んだ句だという。万歳というのは、万歳三唱の万歳ではなくて、三河万歳のことで、お正月、街中を練り歩いて新年を寿いだ万歳の一座が、ひなびた山の麓の村にやってくるころには、もう梅の花がほころぶ時季になっているけれど、それもまたのどかで穏やかな鄙の春の景色に思えたのだろう。 今年はこの句がなぜか胸に沁みる。



「それでも、生きようと」しているたくさんのひとたちに、どうか、そのこころの痛切な願いがいつか叶うようにと祈ります。1日、また1日と、その願いを明日へ繋いでいってくれますように。辛いでしょうけれど、どうか、どうか、と。








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# by kokoro-usasan | 2017-01-11 11:37 | 日々

レインボー戦隊

e0182926_1144046.jpg東京の三が日は、風もなく晴れて暖かく、静かな好いお正月だった。仕事始めのきのうは急に冷え込んで北風も冷たかったけれど、それが冬らしさかもしれず、気持ち良く深呼吸してみたりした。今年はありがたいことに年末年始恐怖症には感染しなかったようだ。

昨年の正月は「エレニの旅」「エレニの帰郷」とひたすら地味にアンゲロプロスの映画をDVDで鑑賞していたのだ。普段はまとまって時間がとれないので、ここぞとばかりにじっくり観たのだけど、だんだん、哀しくなってしまったのは、そんな映画のセレクトのせいだったかもしれない。人間の孤独というもの(ヨーロッパ的な)をいやというほど、アンゲロプロスは見つめさせる。しかも完結編を完成させずに彼は亡くなってしまった。

今年の正月は、手元にありながらまだ観ていない2本のDVDを観ようと思っていた。それはイ・チャンドンの「オアシス」と、新藤兼人の「竹山ひとり旅」だった。どうにも朗らかな気持ちにはなれそうにないラインナップであることを自覚していて、だから、結局、観ないまま、アップルパイなどせっせと焼いていた。シナモンとグラニュー糖とバターをたっぷり効かせた林檎は、家中をとても甘い香りにし、このごろ、すっかり食が細くなって、あれもこれも残してばかりの母が、パイを皿にのせて出すたびに、無心に完食してくれるのが有難かった。


今朝、縁あって、とても古いアニメの映像をyou tubeで見ていた。「ハリスの旋風(かぜ)」とか、「レインボー戦隊ロビン」とか、タイトルにうっすらと記憶がある。わたしの潜在意識というか、記憶の深層に、こうした漫画が眠っているのだろう。眺めていると、「どーなってるんだか」とおもわず苦笑してしまったりするのだけれど、最近の子供のアニメを知らないので、こうした古いアニメとの比較もできないけれど、わたしの頭のなかの、シリアスなのかナンセンスなのか、ギャグなのか、本気なのか、相乱れて謎を深めている部分は、こんなところからきているのじゃないかと、責任転嫁してみたりする。ラスベガスで休暇中のレインボー戦隊なんて、だめでしょう。とにかく、つっこみどころ、満載。笑





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# by kokoro-usasan | 2017-01-06 13:41 | つぶやき

新年にあたって。

e0182926_15533455.jpgいつもわたしの机の上でわたしを見ているフクロウの香炉。インドのオリッサ州で作られたものらしいが、わたしの前の持ち主がこれを入手したのはヒマラヤの麓のマナリという場所だったという。足の指が一本欠けているのだが、それでも、しっかりと立っている。今年は酉年ということなので、フクロウも鳥類だからいいかしらと、年賀状に登場してもらった。年賀状をお出しできない読者のかたもいらっしゃるので、ここでもお披露目します。

わたしは古いものが好きで、100年も生きることのない人間の寿命のなかで、身近な道具たちとはなるべく長く付き合って行きたいと思う人間だ。わたしの寿命よりも長く生きられそうなものは、誰かの手に渡ってさらに長い歴史を生きてほしいし、わたしと一緒に朽ちてしまって、とても使えそうにないものは、わたしと一緒にお別れしてもらえればいいと思う。たとえば、このフクロウなどは、わたしの寿命を超えて、もっともっと時空を生き延びていってほしいと願うもののひとつだ。むしろ、こういうものを、次の人に手渡すために、所有しているのではないかと思える。モノのほうが、わたしを選んでやってきたのではないかと。

このことは、モノとのつきあいだけではなく、人間そのものが、人間の文化を時空を超えて「運ぶ」担い手なのだという感覚を呼び起こす。わたしは今何を運んでいるといえるだろうか、そして、わたしは、それを運び切れるだろうか。

年末の日記にわたしが書きとめたことをここで大きく端折って記録してみようと思う。それは未来を指し示すような内容ではなかったが、未来に向かう心構えといってもいいかもしれない。
  前に進もうとするとき、「困難」が、その道標になる。
そう、わたしは記した。困難こそが、今自分がしがみついている場所から外へ出させ、出会うべき人に会わせる道筋をつけてくれる。目の前に困難が待ち受けていたら、あぁ、またひとつの道が開けようとしているのだと思えばいい。困難が自分に教えようとしていることの、その只中に出てゆけばいい。そこに、きっと、会いたい人がいる。会うべきひと、会わねばならないひとがいる。それがたとえ、自分が夢見たような形ではなかったとしても、非常に消耗する厳しい邂逅であったとしても、それは自分の裁量を超えた意味を必ず持っていることを信じていればいい。困難が囁く言葉によく耳を澄まし、一時の感情に流されることなく、重い扉を開いてゆきたい。






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# by kokoro-usasan | 2017-01-01 16:38 | ごあいさつ

続・年末年始恐怖症

e0182926_21341729.jpg年末になったせいなのか、昨年の記事「年末年始恐怖症」をクリックして読んでくださってる方がなぜか増えている。それを知って逆に、そうだよ、わたしは年末年始恐怖症なんだよ、と思い出し(笑)、健気にも、ボクシングで言うところのファイティング・ポーズを取って迎え撃とうとしているわけなのだった。シュッシュッ、シュシュシュシュ。しかし、今のところ、年賀状書きに追われて、恐怖症よりも、肩の凝りに負けている。

前回の年末年始週間は、木皿泉脚本のドラマ「富士ファミリー」が面白せつなくて、いつもの木皿流「生きてよし!」に勇気付けられたものだった。お正月は、「ファミリー」の絆がクローズアップされる時期だから、そういうのがほどけちゃった感じのひとたちは、結構暇なんだよね。だから、思い切って、「赤の他人だけどお正月だけ突然濃厚ファミリー」みたいな催しというか、コミュニティがあったら、それはそれで笑えて面白いかも。(思いつきだけは、泡のように浮かぶんだけど、それを実現させる持続性がないのが難点)

嬉しいことに、さっきテレビを見ていたら、今度のお正月も木皿さんの「富士ファミリー」続編が放映されるみたいだ。そういえば来年の話をすると鬼が笑うっていうけど、なんで鬼は笑うんだろうか。考えてみれば、すこぶる良いことではないか。鬼の笑顔、しみじみかわいいよ、きっと。
(「富士ファミリー」http://www.nhk.or.jp/dsp/fujifamily/)

冒頭の写真は、わたしが住んでる町の隣駅の今日の様子です。のどかでしょう? 好きだなぁ、こういうの。昔は、この駅みたいに、駅前の道路から、たったったったと走ってきて、改札をダッシュで抜けると、そのまま列車に飛び乗れる駅が多かったけど、最近はおしゃれに整備されて、階段を上ったり降りたりしなければならず、運動不足がたたると、ホームにたどり着くまでに精魂尽きていたりする。(大げさ? 大江戸線あたりなら大げさともいえないよなぁ。)

ところで、このあいだ、再放送リクエストを熱烈にしていた甲斐信枝さんの特集番組の再放送、ありましたね。偶然見ることができてラッキーでした。うん、いまのところ、年末年始恐怖症の兆しは出ていないな。しめしめ。(あと二日くらいしたら、語調がかわってくるかもしれませんが、ま、そのさいはあしからず)




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# by kokoro-usasan | 2016-12-29 22:18 | つぶやき

舞台照明

e0182926_10311433.jpgこういう夕暮れの雲を見かけると、どこからどういうふうにライティングするとこんなふうになるのかなぁなんて舞台照明係みたいな気持ちになるのだった。

用事があって人混みのなかに出掛けていったら、警察官が台の上に立って防犯体制を取っていた。それはいいのだけれど、デパートのロビーを巡回していたマネージャーのような職員のかたが、わたしに、ちょっと鋭い視線を投げかけたのを、わたしも見逃してはいないわけで、「え、なに?」とこちらも不審に思ったけど、自分のその日の格好を考えれば、やむを得ない気もした。きらびやかなクリスマス前の広場を、大きなリュックを背負い、モンペ風のズボンを履いて横切った。農家のおばさんというよりは、雰囲気はちょっと過激思想でも持っていそうな感じだったかしら。でも、ほら、一応、おたくのお店で買ったおせんべいだとか、カステラとかがいっぱい入った紙袋も持っているじゃありませんか。そういう意味で、まだ日本は平和なのだなと思う。幼い少女に、自爆テロをさせるような集団がどうして生まれてしまったのか、よく知るべきなのか、知らないでいられるなら知らずにいたほうがいいのか、みな、生ぬるく、悪寒を無意識に拭いながら生きている。

ついでに書くと(前にも書いたけれど)、かつて、所用があり、スーツ姿で原宿の裏道を歩いていたとき、痩せておどおどした感じではあるが、身なりも悪くなく、言葉遣いも普通の女性から、声をかけられた。それは、呼ばれるというよりは、縋り付かれる、という感じに近く、「おねがいします」とささやくように頼み込んでくるのだった。「あなた、ですよね?ね?」と言う。わたしが、なんだかわからないまま、人違いではと通り過ぎようとすると、さらにあとを追って、「おねがいします、売ってください」と言った。「なにをですか?」とはもう聞かなかった。聞かないことにした。「人違いだと思います」とだけ言って、掴まれていた腕から、彼女の手をそっと離した。しばらく、歩いてから、自分のあらたまった服装をもう一度自分で確かめながら、世界は怖いものだなと思った。こんな隙のない格好で、あの切羽詰まった女性と裏道で何かの受け渡しをするひとがいるのだ、と。


フランダースの犬、マッチ売りの少女、馬小屋の赤ん坊。灯し火のありかを想う。

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# by kokoro-usasan | 2016-12-24 11:10 | つぶやき

プリズム

e0182926_1192746.jpg
時々読ませていただいている某ブログにこんな言葉があった。

窓にプリズム(サンキャッチャー)をたくさん吊るす、というのは、
小学生のころ『少女パレアナ』を読んで、ずっとやってみたかったこと。
大人になってから思う存分やっている。
だってそのために大人になったんだもの。



なんのために大人になったのか、いくつかは覚えているのに忘れたふりをし、いくつかは覚えていたかったのに忘れてしまったのかもしれない。

むしろ、「大人になったのだから、やらなければいけないこと」が牡丹雪のように降ってきた。わたしは、「小さな兵隊さん」のような気持ちになって、「大人になったのだから、やらなければいけないこと」を背中のカゴに受け止め、幾分調子を乱しながら行進してきた。見渡せば、それは意外に当たり前の光景で、小さな兵隊さんたちの行進は、とりあえず、思い思いの方向で、すみやかにとりおこなわれているようなのだった。だが、兵隊さんたちに共通しているように思われるのは、みな、目を閉じて進軍していることなのかもしれなかった。きっと目など開けないほうがいいと思わせられているのだ。

時折、プリズムの虹が地面にかかる様子をしゃがみこんでずっと眺めているひとに出会う。兵隊さんは、ふと、目を開けて、「あ、いいな」と思うけれど、自分がなんのために大人になったのか思い出せなくなってしまっているので、理由の分からない涙をぽろんと一粒こぼすと、また、目を閉じて、とても真面目に行進を続けるのだった。

そして、そんな兵隊さんたちは時々、目を開けているのにプリズムの虹など「屁とも思わない」ひとたちの掛け声によって、目を閉じたまま、どこかへ連れてゆかれ、もう二度と戻ってこなくなるのだった。





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# by kokoro-usasan | 2016-12-21 11:37 | ことば

僕が倒れたなら

わざわざこのタイミングでどうなのかと思いもするけれど・・・。

仕事でAAやダルクのかたに接することも多い。何年も前、普通に穏やかに挨拶しただけだったのに、笑顔が嬉しいと泣き出してしまったAAのかたがいた。ありがとう、ありがとうと、何度もおっしゃった。後日、同じAAに属するかたから、「彼は脱退した」と伝えられた。クリスマスも近くなって、離れて暮らしている家族とやり直したいと、思い切って訪ねていった際、もはやそれは無理なのだと思い知らされる出来事があったらしい。そこで、ずっと断っていたアルコールにまた手を出してしまい、そのまま入水したのだという。幸い命は助かった。「弱かったのよ、まだ」

ほとんど問わず語りにそう教えてくれたひとに、わたしは、饒舌すぎるようないたたまれなさを感じ、かすかな憎しみのようなものさえ覚えたけれど、何年もたって、あらためて、ここでそのことを話そうとする自分にも、そのひとに似た軽薄さがあるだろうか。

いや、上の話は、後付けだ。

今朝、なんとはなしに聴いたこの歌の歌詞に触れ、わたしはただ、次々と現れては、倒れ、現れては、倒れ、手渡されてゆく人間のバトンとはどのようなものなのか、考えていたのだ。

「僕が倒れたら」・・・と。

わたしは、なにを託して、倒れてゆこうか、と。







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# by kokoro-usasan | 2016-12-20 10:11 | 幕間

L' amour fou

今日、自分への誕生日プレゼントで観に行った映画(ウニー・ルコント監督「めぐりあう日」)のラストシーンで、アンドレ・ブルトンの詩(「狂気の愛」)の終章の一節が静かに朗読された。それは唐突ではあったのだけれど、この一節によって、探していた最後のピースが揃ったような、そんな安らいだ気持ちになって、映画館をあとにすることができた。


美しい春 君は16歳
この本を開くだろう
さんざしを揺らす風がその題名をささやく

いつも笑っている8ヶ月の愛しい娘
君は珊瑚 君は真珠
君の誕生に何一つ偶然はない

生まれるべき時に誕生したのだ
早くも遅くもない
君のゆりかごの上に暗い影はない

子供を生むのは狂気だと思い込み
私を生んだ人々を恨みに思っていた

16歳の君を見つめる
まだ恨みを知らない娘
僕は君の目を通して自分を見つめる

夢と希望と幻想が君の頭の中で踊る
巻き毛の輝きをあびて

その場に僕はいない
ずっと君を見ていたいのに

運命の分け前が十分かどうか分からないが
生きる喜びを謳歌せよ愛を待ちながら




この最後の一行、日本語字幕は古田由紀子さんとなっている。実際には、「あなたが狂おしいほどに愛されることをわたしは願っている」なのだが、古田さんの牧歌的な意訳もわたしは好きだ。もう会うことのない幼い娘に、父親が書き残した手紙の結びの言葉として、きっと、日本人には、このほうが受け入れやすいと考えられたのではないかと思う。

運命の分け前が十分かどうかは分からないし、もう16歳はとうの昔にすぎてしまったけれど、そう、わたしも、そのように生きてみようと思う。





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# by kokoro-usasan | 2016-12-15 20:55 | ことば

つれづれ

a)
いくつかの深い言葉を反芻しながら、穏やかな陽の差し込む部屋のなかに居る。心の底で、なにかが静かに耳を澄ましている気配がする。あと幾ばくかの強さ。いや、もしかしたら、むしろ、あと幾ばくかの「緩さ」が必要なのかもしれない。合理性ではもはや人類は立ち行かないとアレクシェービチが語る言葉に胸を掴まれる気がし、また物思いに耽る。(12・7)

b)
先日、辺見(庸)さんのお話を伺いに行った際、10数年ぶりに徐京植さんをお見かけして、うっかり知己のようにご挨拶してしまいそうになったが、徐さんからすれば、一昔も前に、ある勉強会の、ひとつ前の席に腰掛けていた女性のことなど覚えているべくもないだろうから、はっと思いとどまり軽く会釈して通り過ぎた。徐さんにお会いしたのは2005年7月のことで、八王子のセミナーハウスで開講された「文化と抵抗」というセミナーの会場でだった。徐京植、菊池恵介、高政和、三宅晶子、中西新太郎、高橋哲哉(敬称略)といった面々が代わりばんこに講師となり、二日間にわたって講義が行われた。なにか、鮮やかに心を揺さぶり、胸を打つ講義が続き、へとへとになって帰宅したけれど、その前と、後では、わたしはそれまでと違うずいぶん自由な視座を得ていた。それでも、その視座というものは、不断の努力がなければ、あっという間にふやけ、見えていた地平も霞んでゆく。どのように、自分を律すればいいのか。簡単に、やわやわになる自分を自覚している。

c)
友人との会話のなかで、「水」という言葉が出たため、帰宅してから、「水かぁ」と、タルコフスキーの映像のようなものが頭に浮かんできたのだが、一方で、「水道水」のことを考えた。かつて沖縄に行ったとき、地元の青年たちが、軍に回す水が優先だから、自分たちはなるべく節水を心がけないと水不足になってしまうと語っていたのが忘れられなかった。2008年の防衛省の資料によると、沖縄米軍が使用する水道量は、料金にして年間37億円弱、1日あたり1011万円とのことで(ちなみに電気代は年間118億円、1日あたり3232万円 おそらく現在はもっと高くなっていることだろう)、これを「思いやり予算」として日本が負担している。貧乏人には、その額が適正なのかどうかよくわからないが、いつか、何かと比較できるかもしれないので、ちょっとここにメモしておこうと思う。

 
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# by kokoro-usasan | 2016-12-10 11:45 | 日々


閉じられていないもの


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