but I'm a citizen,too

備忘録として。
















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# by kokoro-usasan | 2017-08-21 23:46 | ことば

虫鳴きて

現在、ショートステイに預けている母だが、わたしが連休の日は自宅に戻ってきて一緒に過ごす。ずっと在宅介護をしていくつもりだったのに、事態はどんどん、離れて暮らす方に傾いてゆく。在宅介護にこだわっているのは、認知症ではっきり意思表示できない母をのぞいては、結局わたしだけなのであり、わたしが、それをできるのか、できないのか、を判断するしかないのだった。今の母の状況では、それは無理な話だというのに、わたしは、まだ、時間を巻き戻しできるのではないかと、心の奥で期待していたりする。

母をショートステイに訪ねて、「さ、お母さん、明後日は家に帰るからね」というと、母は「うん!」と嬉しそうにうなづく。しかし、自宅に戻って一晩過ごし、翌日、またわたしは言うのだ。「さ、お母さん、午後になったら、ショートステイに帰るからね」すると、母は、「帰る」という言葉にとまどう顔になる。あきらかに混乱し始める。「帰ったらいけないの?」「いいのよ、これから帰るのよ」この会話も噛み合っていない。母もわたしも、どこからどこへ行くことが「帰る」ことなのか、全部一緒になって、ふたりで、「帰る」「帰る」と繰り返すことになる。ショートステイには、「行く」と言うべきなのかもしれない。


先日、1929年生まれの聡明な友人から、ご本人の句集をいただいた。意志的な生き方をされているかただと思う。わたしの母よりも4つ歳上だが、まだ、未知のことに挑戦する意欲を失っていらっしゃらない。若輩者がだらだらしていてはいけないと、はっぱをかけられる思いだ。

母が自宅にいる間、わたしは、使命感といえば大げさだが、いくばくかの張りを持って、皿洗いにすら、力が入っていた。「家事」というのは、誰か自分のほかにもひとがいてこそ「家事」という感覚になるのであって、一人で暮らしていると、ただ、「生存」の一端にすぎないような気がする。自分の面倒を自分でみるというのは、どうも「家事」という言葉となじまない。このところ、そんなことを感じていた。

上述の友人の句集のなかにこんな一句がある。

  虫鳴きて一人の茶碗洗ひをり     小城伊津子  (句集「日記買ふ」より)


ことしの秋は、これからの人生のことを、あらためてよく考える日々になることだろう。





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# by kokoro-usasan | 2017-08-19 18:59 | 日々

復興詐欺五輪

2020年も、東京の夏は、今日のようにうだるような暑さかもしれない。

この暑さを一定の温度に保ちながら、スポーツ競技を行うには、どれだけの電力がいるのだろうか。「復興五輪」などと、だれが、どの口で言えるのか。福島はこの6年でどれだけ復興できたというのか。3年後のオリンピックで、どれだけ被災地の復興がすすむのか。「復興詐欺五輪」という言葉のほうが似合っている。

お金は、本当に必要なひとたちの頭上を通り過ぎてゆくばかり。なけなしの税金の使われ方さえ、誰かが金儲けするための資金援助に流用されてゆく。上げた消費税で、なにか福祉政策が潤ったか。なにからなにまで縛りがきつくなって、打ち切られる支援ばかり多いのはなぜなのか。その一方で、意味不明のポストが増え、それにともないまたぞろ多くの予算がとられてゆくのは、どういう「手腕」のなせる技か。






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# by kokoro-usasan | 2017-08-08 22:19 | つぶやき

世界の彼方にあるすぐ隣の肩

今日の朝刊にガッサーン・カナファーニーの著作※に関する書評が掲載されていて、居ずまいを正して読んだ。河出文庫に入ったらしい。わたしがガッサーン・カナファーニーを知ったのは、2004年に創刊された「前夜」という季刊誌でだった。(その後、内容のまったく異なる同名の雑誌が刊行されたが、ここで言う「前夜」は岡本有佳さんが編集人となって影書房から発売されていたもの)カナファーニーの「ガザからの手紙」という作品が岡真理さんの翻訳で掲載されていた。中東の文学に触れたのは、わたしにとって、これが初めてだったかもしれない。その数年前に、私鉄の駅のホームで、イスラエルから来日して旅をしているという女性に声をかけられ、車中、お互いたどたどしく会話をかわしたのだが、その女性の目の哀しさが印象的で、話せば、「自分の国のしていることが嫌で旅に出た」と言うのだった。語学力の不足もあって、それ以上深い会話ができなかったが、「自分の国のしていることが嫌で」、いつかわたしも旅に出なければならない日がくるのだろうかという不安が心をよぎった。自己決定で旅に出るならまだしも、もっと悲惨な運命をたどっている数知れぬ人々が世界には存在する。金髪で小柄なその女性の華奢な肩を今もよく覚えている。

カナファーニー、じっくりと、読んでみたい。



  ※ ガッサーン・カナファーニー「ハイファに戻って/太陽の男たち」(河出文庫)



毎日新聞「今週の本棚」より 備忘録
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# by kokoro-usasan | 2017-08-06 11:43 | つぶやき

子猫

先日、駅前の商店街へ向かう道すがら、ある一軒の家の前に、夫婦と思われる男女が立ち尽くしたまま動かないでいるのが目に入ってきた。暑さと湿気のこもる夕暮れ時で、遠目にははっきりしない表情ながら、家のなかを覗き込んでいるように見える。執心している様子が不自然で、あのふたりはなにをしているのだろうと訝しく思いながら近づいていった。

すれ違うほど近づいたところでやっと分かった。その家の庭先にまだよちよちしている子猫たちが何匹もふにゃふにゃと身を寄せ合っていたのだった。猫好きらしい夫婦は、それが気になってしかたないらしく、他人の家の庭をじっと見つめていたのだった。

親猫が飼い猫なのか、野良猫なのかはわからないが、その家で子猫たちは生まれたのだろう。もし、野良猫だった場合、たとえば、通りすがりのひとが、拾って帰るなどということもできるのだろうか、ペットに縁のないわたしは、小さな命が自分の家にあらたに仲間入りする情景を、どきどきしながら想像してみたりしたのだが、我が家は今ペットを飼える状況ではなく、顔を寄せ合って、庭先を覗き込んでいる仲の良さげな夫婦を横目で見ながら、何事もなかったように通り過ぎた。

昨日、同じ家の前を通り過ぎようとしたとき、低いブロック塀の角で、なにか動くものが目に入った。ふわふわしたトラ猫の頭頂部が出たりひっこんだりしていたのだ。最後に、少し、顔を塀の上にだして、大きなあくびをした。子猫だった。あくびしたあと、一仕事した余韻にひたるようにふがふがしている。子猫のくせに、偉そうに(?)しているのが可笑しくて、傍に寄って、「いま、あくびしたでしょ」と声をかけたら、こちらを見て、「うーん、謎の生物接近!ただいま観察中」みたいな顔になった。まんまるな目。

子供をあやすのも苦手なわたしだから、猫にだってうまく近づけない。猫好きなひとが、道で見かけたどんな猫にでも近寄っていって、手をのばし、撫でたり、抱き上げたりする姿を見るたびに、「撫でていいかどうか、猫に聞かなくていいの?」なんて思ってしまうほどだ。

しばらく塀ごしに見つめあっていたけれど、わたしのほうが先に失礼することにした。「元気に大きくなるんですよ」たぶん、あの子猫は結構人慣れしている様子だったので、「あれ、あなた、わたしに触らなくていいんですか。みなさん、そうしますよ」みたいな顔をしていたけれど。「別に」。あなたがすり寄ってきたなら、撫でてあげてもいいけど。そんなことをぼんやり考えながら、わたしそのものが、かなり「猫」なんだな、と思った。

それにしても、自分を頼ってくる小さな命が、かたわらに寄り添い、疑いを知らぬ目でじっと見上げてくれるような経験が、わたしの人生にはまったく不足していて、その経験不足の故か、もし、そんなことがあったなら、心臓に悪いほど、緊張するのではないかと感じてしまう。その先にある、もっと素晴らしいものを知らないからだろう。


わたしの養父母は、赤ん坊のわたしにみつめられ、どんな気持ちだったのだろう。その腕に赤ん坊を抱いて過ごした初めての晩はどんな思いだったのだろう。怖くなかっただろうか。それを凌ぐほどのものを、わたしは彼らにもたらすことができたのだろうか。ふと、そんなことを思う。





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# by kokoro-usasan | 2017-08-04 11:36 | 日々

今年は、今、母を預けている丘の上の施設を訪ねる行き帰りの山道で蜩の声を早くから耳にしていた。蜩といえば、どこか物悲しくて晩夏のイメージなのだが、特にそうでもないのかもしれない。逆に、夏を知らせるイメージの、あの賑やかなアブラ蝉の声が遅れているように思った。

盛夏には、アスファルトの上に数知れずその骸が転がっている。あの蝉たち。

昨夜、台風の影響だというしとしと雨の闇のなかで、ジジ、ジジ、という壊れたゼンマイのような音が不規則に聞こえるものだから、電気製品の消し忘れでもしているのだろうかと、寝床から起きて、家の中をうろうろ歩き回った。窓を開けて湿った夜気のなか、暗い庭に目を凝らし、耳を澄ましてもみたのだけれど、そのうち、なにも聞こえなくなったので、こちらも眠りについた。

今朝も雨は止まず、うっとうしく降り続いている。少し気晴らしに音楽を聴こうと思って、ふいに気づいた。雨の音に染み込むように蝉時雨が始まっていたのだった。蝉たちの短い夏が始まったということだ。今朝鳴き始めた彼らは、8日目には、骸になって落ちているにちがいない。わたしにはそれがわかっているが、彼らはどうなのだろうか。なにも知らず、自分の最後の時間を精一杯に生きるのみなのだろう。頑張れ、蝉。生きよ、蝉。


昨年起きた相模原の事件に関する取材記事をいくつか読んだ。亡くなられたかたのご家族の記事も胸に残るが、事件に巻き込まれ一時瀕死の状態となりながらも助かったかたのご家族の記事がわたしには最も印象深かった。それは、犯人に切りつけられ病院で生死の境をさまよったかたの意識が戻ったとき、側にいるお父さんの顔を見て、「お父さん、お父さん」と何度も呼んだというお話だった。それだけだったら、別段、特筆すべきことではないかもしれない。しかし、驚いたのは、それまで、そのかたは、一度も、自分の父親に「お父さん」と呼びかけたことがなかったというのだ。

もう中年になる息子に、生まれてから一度も「お父さん」と呼ばれたことのなかったそのお父上の気持ちやいかにと思った。もはや、そう呼んでもらえる日がくることなど期待しなくなっていたかもしれない。それが、あまりにも過酷な経験のあと、意識の戻った息子さんは、目の前のひとを、正しく「お父さん」と呼び続けたというのだ。助けを求めるように。

人間の心の奥深い部分のことなど、誰がわかろうか。ひとは自らの心の奥にあるものさえ、実はまともに理解などし得ない。取り澄ました理屈や明晰な善意を標榜するひとでも、時には向き合うことすら憚られる吐き気のするような混迷をうちに抱えているのが真実ではないのか。そのような身で、なにを裁くのか。

どうも、このところわたしは美しい言葉を見ると気持ちが悪くなる病に陥っているようで、その表現のどこからどこまでが、真正の叫びで、どこからどこまでが、誰でも使い回し可能な「表現の巧みさ」なのかと、しゃがみこみたくなるような不安を感じる。

自分で、「表現」の大切さを思いながら(そこに変わりはない)、その一方で、では「表現した者勝ち」なのかという疑念と苛立ちにとらわれるのだ。嘘八百でも、見栄でも、営利でも、表現した者、表現できる者が、この世に生きる価値の多くをになっているのか。大切にされるのか。

おそらく、この「病」は一過性のもので、今、わたしが向き合わなければならない課題ということなのだろうと思う。


わたしたちもまた、めまいのするような時間の堆積のなかでは、蝉のような時間を生きる者にすぎない。わたしは、今、どのような鳴き声で鳴いているのだろうか。







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# by kokoro-usasan | 2017-07-30 11:46 | 日々

ごめんね、ありがとう

職場で栽培しているゴーヤの「緑のカーテン」から、そろそろ食べごろと思われる実をもぎ取っていたら、元同僚のKちゃんに名前を呼ばれて振り返った。Kちゃんのお母さんは今月の半ば急逝され、お悔やみのメールをすると、「苦しまないでいってしまったし、大往生よ」と明るい返事が返ってきていたのだけれど、わたしの顔を見るなり、顔をくしゃくしゃにして、ぼろぼろ涙をこぼした。「かなしいよー。あいたいよー」

「そうだよね。会いたいよね。かなしいよね」とKちゃんの肩を引き寄せて、頭を撫ぜてあげた。もともと無邪気で明るいKちゃんだけど、おんおんと小学生のように声をあげて泣いた。わたしも泣けてきた。

「まだ、ごめんねって言えてないのに」Kちゃんが泣きじゃくるそばで、「ほんとだよね」とわたし。別にKちゃんに追い打ちをかけているわけではなくて、自分が父を見送ったときのことが蘇ってきていた。それに、在宅介護が不可能になり、やむなく先日からショートステイに預けている母のことで、わたしの頭もいっぱいで、毎日、「ごめんね」という気持ちではりさけそうな思いでいるのだった。

なにかを「育む」という人間の行為は、とても素晴らしいものだし、ひとを成長させる。一方で、「死にゆく命を間近に看取る」という行為の切なさもまた、別のかたちで、おそらくひとを成長させる。(あまりに辛いので、そう思いたいだけかもしれないが)

しばらく前、 NHKで放映されたドキュメンタリーがとても印象的で、在宅医療の難しさと、その葛藤というものをあらためて考えさせられたが、この作品を制作した方が、「どんな作品か」という問いかけに、「意外にも風変わりなラブストーリー」と答えてらっしゃるのが、心に残った。わたしもそう思えた。というのも、自らも医師で「在宅医療」を提唱してきた夫が、自身の終末期に臨んで葛藤するそばに、いつも静かに寄り添っている夫人の姿があったからだ。とても可愛らしい方なのだが、ご自分も歩くのが不自由になってらっしゃって、ふたりで肩を寄せ合って、という言葉が似合うすてきなご夫婦だった。この奥様は、いつも、静かに穏やかな笑みを浮かべておられる。達観してらっしゃるのだろうかと思った。しかし、番組の最後のほうで、ベッドのご主人に「死なないで」とつぶやいて泣かれるシーンがあった。胸が熱くなった。そうだ、この夫人が、どれだけの張り詰めた気持ちで、毎日を送っておられるか、それは、優しい微笑の陰に隠れてなかなか見えてこないが、怖さ、切なさが、ないわけがなかったのだ。日々、それに耐えてらっしゃるのだとわかった。一方、ご主人が、自身の「在宅医療」に葛藤を感じ、「こんなはずじゃなかった」と思うようになったのは、ご自身の病の苦しさだけでなく、その苦しみを、自宅で家族みんなに見せなければならない切なさもあるのではないだろうか。苦しむのは自分だけでいい、と感じたりはしていないだろうか。

正解なんてないのだろう。自分ひとりの心の中でさえ、今日はAでよしと思い、明日はふいにBのほうがよかったではないかと頭をかかえることになる。

先にゆくものと、あとにのこるもの、どちらの「ごめんね」が多いのだろう。「ごめんね」だけでは辛いから、いつか時間がたったら、全部、「ありがとう」に変えられるように生きていこう。そのための「ごめんね」のはずだから。とても切ないけれど。




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# by kokoro-usasan | 2017-07-27 19:57 | 日々

豪雨

e0182926_2303092.jpg

写真引用元:The White House’s Pete Souza Has Shot Nearly 2M Photos of Obama, Here are 55 of His Favorites – Imgur

今日は、急な豪雨があった。

ツイッターを読む。
@yamamototaro0
自民の竹下亘国対委員長
「5対5にしない限り開催は拒否する」と反発

拒否上等。丁寧に説明する気がないのはよくわかった。
悪条件でホイホイ受けるんじゃないぞ。
本来野党が求めるべきは憲法に基づいた臨時国会なのだから。


確かに・・・。皆、「忖度」して、はっきり口にしないけれど、現政権への不支持を表明しているひとたちは、もはや単なる民主主義について政権に下からお伺いを立てているわけではないのだと思う。この政権が明らかな憲法違反をしているのではないかということを正面から問いただしているのであり、犯罪に問われても仕方ないような疑獄の解明を求めている。「開催を拒否する」などと、この期に及んで上から目線な物言いを変えられないのであれば(変えればいっきに瓦解する危険のあることを察知しているからでもあろうけれど)、自民党は結局内部自浄できぬまま劣化してゆくばかりだ。「共謀」して国民を舐めるのもいい加減にしないと、不勉強なまま当選してしまった政治無知な若手議員たちは新興宗教じみた精神論のようなものに取り込まれ、気味の悪い方向へ国を傾けてゆきかねない。自民党がこれ以上劣化を深めることは、この国にとって大きな損失なのだ。別に自民憎しでこんなことを長く言い募ってきたわけではない。





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# by kokoro-usasan | 2017-07-18 23:33 | トピックス

ねがいごと

e0182926_1943254.jpg昼間に母を預かってくれていたデイサービスから、認知症の不穏症状を理由に「受け入れの限界」と通告があり、介護休業までとって、なんとか在宅介護の継続を目指していた計画も水の泡になった。わたしよりも先に、デイサービスの施設のほうが「介護の限界」を迎えてしまったのだ。

不如意が押し寄せてくるのを、両手でせき止めているような状況だけれど、わたしの心は、なんだか、ひどく静まり返っている。介護の果てに、親と心中してしまうような事件って、こういうときに起こるのだな、と冷静に考えてみたりする。ケアマネという仕事についても、いろいろ考えさせられる。クライアントとサービス提供先との間に立ち、円滑に物事が進むようにフットワーク良く動き回ってくれるのが、ケアマネさんだという認識があるのだけれど、切羽詰まった状況にもかかわらず、電話でクライアントに「指示」を出すだけで、自分では実質動こうとしないひともいることを知った。自分のクライアントが長期入院しても、一度も様子を見に来ないひともおり、「机上の介護計画」を作成してくる。そして、「机上」だけに、比較的早々に破綻する。家族は奈落に落ちる。

「わたしが受け持ったご家族さんも、介護倒れになったかたが、たくさんいらっしゃるので、気をつけてくださいね」と思いやり深く励ましてくれたりするのだけれど、それは、裏を返せば、そのケアマネさんが、それだけ「介護倒れ」の事例を発生させてしまったということになるわけで、優しい言葉だけでなく、頼もしい助けを発揮してくれているかどうかは別問題だと気づかされる。そして、それを学びながら、自分自身の日々の仕事も、他者への、「実質的」な助けになっているだろうかと反省させられる。

先日、父の仏壇の前に座り、どうか母を守ってあげてくださいと手を合わせた。手を合わせながら、そのようにお願いされた仏様は、どんなふうに、母を守ろうとするのだろうか、とふいに思った。そして、ちょっと、苦笑してしまった。きっと、父は、自分の代わりに「わたしを使って」、母を守ろうとするだろうと思ったからだ。願いをかけた本人をまず「動かす」ことが、もっとも合理的でもあるわけだから。

願い事とは、そういうふうにできているのだな、と思った。なんとなく納得した。






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# by kokoro-usasan | 2017-07-08 20:10 | 日々

ページのあいだに。

e0182926_1112596.jpg時間に質量があるのなら、今、わたしが生きている時間の質量はどのくらいで、どのくらいの質感を持っているのだろうか。


ふと目に止まった何気ない草や、野の花を、そっと本のページに挟んで、今日という日の美しさを疑わずにいた時代がわたしにもあったように思う。その指は白く、爪は滑らかに光っていた。ホラーめくが、その指を、「押し指」にすることもなく、その爪を剥がして標本にすることもなく、わたしたちは、昨日の自分を置いてゆく。次の時間に生を委ねるために。

昔読んだ本のページのあいだから、押し花が出てくることが度々ある。ありていにいえば、それはたいてい「聖書」であるわけなのだけれど、クリスチャンでもないわたしが、数冊の聖書を持ち、そのそれぞれに、押し花が挟まっているのは、なんだか、興味深い。


願わくば、自分の人知れぬ悲しみや苦しみよりも、人知れぬ喜びや幸せを、僅かでも多くありがたく思える人間になりたいと思う。





写真はエミリ・ディキンソンが作った押し花ノートより




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# by kokoro-usasan | 2017-06-25 14:26 | 日々


閉じられていないもの


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