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柿の若葉

柿の若葉がとてもきれい。そういう季節。鳥の囀りも活気を帯びて。

隣家の屋根の上から、鴉が我が家の庭の木を盛んに窺っているのを見て、すわ、メジロだとか、山鳩の巣の卵を狙っているのかなと思い、木の根元まで様子を見に行った。巣は見当たらず、かわりに、枝先に丸まったスーパーのポリ袋が引っかかっていた。強風で飛ばされてきたのだろう。鴉はこれが気になっていたのかもしれない。欲しいのなら、鴉にあげてもよかったのだけど、もう姿も見えず、言葉も通じそうにないので、棒で引き寄せて、ゴミ箱に捨てた。

美しい柿の若葉を毎日目にすることができるのは、我が家ではなく、それが隣の庭に生えている木だからだ。隣家の庭はいつもよく手入れされており、枝ぶりも整っている。きっと、隣家のかたは、我が家の荒れ放題の庭を見ながら、ときにはため息をついていることだろう。借景がよくない、と。ベランダで洗濯物を干しながら、時々、奥さんと顔を合わせるが、とりあえず、わたしは、元気に挨拶する。そのくらいしか、心証をよくする術がない。挨拶だけはいい、と呆れられているかもしれない。とほ。

介護休業をしようと思っている。自宅介護を継続するためには、そのくらい思い切った措置を必要とするように思う。あくまでも、介護休業で、介護離職にはならないようにはしたい。やるだけやらないと、わたしは気がすまないのだろう。特に、親子関係においては。






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by kokoro-usasan | 2017-04-30 15:06 | 日々

はかりごと

外出して、駅の売店で一瞬目に入った新聞の見出しが、強烈で、どこの新聞だか見ておけばよかった。例の森友学園をめぐる内容だったと思われる。見出しには、書いてあったのだ。

「籠池 昭恵 共謀」と。

この見出し考えたひと、エッジ効いてるなぁ。

何度も何度もゾンビのように蘇ってくる共謀罪。「テロ等」の「等」も曖昧なら、キノコ狩りでもお縄になりかねない状況とするならば、そうだ、たしかに、国有地売却をめぐる、このたびのあれやこれも、国会で、慎ましやかに質問してみるといいかもしれない。こういうのも「共謀」ということでよろしいでしょうか、と。

国の財源に不利益をもたらすのみならず、教育勅語に心酔した子供たちが、天皇のために、テロも辞さない、と決意する日がくるやもしれないわけですから、これは見事に共謀罪では、と。






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by kokoro-usasan | 2017-04-29 00:39 | トピックス

追試だらけで。

母がまだ認知症ではなかった頃、シルバー人材派遣でお願いした庭師さんが、我が家の石楠花の木を見て、もうこれは寿命だな、と言ったらしく、たしかに、枯れ木のように見えていたのだけれど、母の認知症がひどくなり、好きだった庭仕事もしなくなり、庭の手入れを職人さんに頼まなくなってから、庭はあたかもジャングル状態、石楠花も、もはやこれまでという感じのなか、今年も、なぜか、ちゃんと、花を咲かせて、がんばっているのだ。ずぼらなわたしは、ほとんど、庭の手入れなどしていない。たしかに、手は抜いているが、声かけはしている。石楠花さん、あなたは寿命だと言われているそうなんですが、わたしは、まだまだ大丈夫だと思うんですよ、とか。

去年は、右側の枝先に偏って花が咲いたので、左側の枝をさすりながら、こっちのほうも、咲いてみましょうよ、こっちの枝もまだまだイケますよ、なんて囁いてみた。まぁ、真顔で言うわけではないけれど、今年は、左側にも蕾がつき始めているのだ。

母はまだ入院中。わたしが休職しないことには、在宅介護は無理ではないかという話になっている。こういうときの家族の思いというのは、なかなか複雑なものなのだろう。と、まるで他人事のように書いているけれど、いや、わたし自身、現在、かなり複雑なもの思いのなかにいる。母のケアマネさんとの間にも、うまく伝えられない思いの行き違いがあって、微妙に心理的距離ができてしまった。

「なんでも相談してください」と、「なんでも叶えます」は違うのだ。相談しても、はかばかしい答えがまるで返ってこないと、相談してくださいと言ってくれたのに・・・、と失望したりするが、それは、答えを保証しているものではないのだから、逆恨みというものだろう。

ひとりで悶々として、だんだん、内に引きこもってゆく。そうこうしている間に、母はわたしの名前を忘れ始めた。病院にゆくと、「おかあさん」と呼ばれるようになった。「おかあさん、一緒にうちに帰るでしょ」と聞く。「うん、もうすぐね」この繰り返し。子供に戻った母は、「おかあさん」が、いつも口から出まかせばかりいうことを感じ始めたのか、機嫌が悪い。笑ってほしいなぁと思う。思うけれど、胸を打つような笑顔で見つめられたら、それはそれで、ものすごく苦しいことになるのかもしれない。

このあたりで一度、態勢を立て直そうと、自分を奮い立たす。次から次へと目の前に立ち現れる人生の問いは、おそらく、すべて、自分にとって必要なもの。わたしが解きそびれているものが、何度も、追試で出てくるような。無回答で0点もらうよりは、珍回答で、出題者を困らせるくらいのことはしてみたい。





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by kokoro-usasan | 2017-04-28 13:31 | 日々

サイレン

夢のなかで、見知らぬ男性が、ついておいでとわたしに促し、自販機の前まで案内してくれた。ほら、水が飲めるよ、と言う。喉が渇いていたのかどうか、自覚がないけれど、ずいぶん親切なひとだなと、とまどいながら感謝する。男性が、自販機のボタンを押して、出てきたペットボトルを取り上げると、ほら、とまた、わたしに差し出す。え、くれるの?と思いながら、ぼんやり 、こちらも手を出す。すると、男性は、「んなわけないでしょ」という顔で、そのまま、そのペットボトルの水を自分でごくごくと飲み干すのだった。

あ。

ちょっと、呆然とする。なんで、このひとは、わざとそんなことをするの?と思う。でも、なんだか、可笑しくなってくる。そういう「イジワル」、むかし、誰かにされたような気もする。それで、笑って喧嘩したことがあるような気がする。わたしが、あっけにとられている顔を、そのひとは、さも面白そうな、してやったりという顔で、見返すのだ。

なによ。
なんなのよ。

でも、夢のなか、そのひとが、わたしに言いたいことがわかるような気がした。

自分の水は、自分で手に入れろ、と。


目が覚めた。

今、わたしは様々な決断を迫られ、その決断の難しさからくる苛立ちや不安を時に周囲に小出しにして、「もうすこし、わたしの身にもなってよ」という雰囲気を漂わせる。そして、恥じ入り、後悔する。相手には相手で、「もう少し、わたしの身にもなってよ」という事情があるはずだ。では、わたしは、いつも、それに適切に対応できているのか。だれもが、みな、自分の事情のなかで、綱渡りしているのではないのか。

自分の水は、自分で手にいれる覚悟を決めるのだ。

このところ、ウグイスが、さかんに歌の練習をしている。楽しくて仕方がないというふうに聞こえる。練習しているうちに、すてきなフレーズがふいに飛び出してきて、自分でも一瞬、とまどっているかのよう。それでまた、絶え間なく練習する。すごいものだなぁ、と思う。

隣町のあたりから、間延びした「うおーん」というサイレンが聞こえる。真偽のほどはわからないのだけれど、それは、隣町にある少年院から、少年が脱走を企てたときのサイレンだと聞いたことがある。彼らの脱走は、ほとんど未遂に終わるか、すぐに連れ返されることになるようだが、その話を聞いて以来、その「うおーん」というサイレンを耳にするとき、なぜかわたしは、心拍数がほんのすこし上がる。

語弊があるけれど、「このままでいられるかよ」という少年の思いを、まるでそのサイレンが、少年のかわりに知らしめているかのように思えるからだろう。

わたしも、心のなかで、サイレンを鳴らす。






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by kokoro-usasan | 2017-04-23 10:33 | つぶやき

河童

夜更けにふと、「河童の川流れ」という言葉を思い浮かべようとして、「河童の質流れ」と言ってしまい、ひとりでウケてしまった。質入れされた河童を想像する。なんだか、干からびて萎んでいそうだ。質流れに比べたら、川流れのほうが、ましだろうか。

静かな春の夜に、そんなつまらないことを考えている。

それにしたって、株価で、人間の幸せが左右される社会など、もはや人口の9割くらいのひとは望んでいないんじゃなかろうか。それでも、水を張ったバケツに無理やり頭を沈められるようにして、異なる幸せなど求めないように押さえつけられる、その9割のひとびと。つまり、9割は、質ぐさということか。ひからびて、よぼよぼの。





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by kokoro-usasan | 2017-04-19 00:53 | つぶやき

逆ドミノ

忖度なのか欲得なのか打算なのか、そこは人それぞれなのだろうけれど。たとえば、不可解な権力を前にしたとき、とりあえず、話を合わせておいて、うまく利用しながら、同時に、お目付役として、暴走は食い止められる立場に身を置いておけるようにしよう、と、自分の能力にそこそこ自信のある人物は思うのかもしれない。ところが、ずるずると泥沼に足がはまり抜け出せなくなる。暴走をくいとめるどころか、有能さが裏目に出て、かえって暴走を加速させる側になってしまったりもする。

「とりあえず、話を合わせておいて」という自らへの言い訳は、実は、自分で思うほど軽い判断ではないのかもしれない。とりあえずだろうが、深慮の上だろうが、そのひとは、ドミノ倒しのドミノのひとつとしてあえなく倒れたことに違いはないのだ。

今後は、「違うと思ったら言われてもやらない」「おかしいと思っているのに話を合わせない」ということを、誰かと結託してではなく、自分一人で、それぞれのひとが、それぞれの場所で、静かにやってみるといいような気がする。逆ドミノは、そこからしか始まらないのではないか。





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by kokoro-usasan | 2017-04-16 00:37 | つぶやき

呼び声

花散らしの冷たい雨。体調が快復してきた母は、認知症からくる頑是なさも復調し、看護師さんを困らせている。毎日見舞いにゆくが、母の居ない静まり返った家のなかで、ぽとりぽとりと涙がこぼれたのは、最初の一晩だけで、夜中に5度も6度も起こされずに済む眠りを、数年ぶりに味わったとき、なにか、思いがけず、穏やかで平和な気持ちを覚えてしまったのだった。ひとつきと長引いた私自身の厄介な風邪も、4日も熟睡すると、静かに遠のいていった。

夜中に何度もわたしの名を呼んでは、冷えた戸外に出てゆこうとする母を連れ戻す作業は辟易とするものだが、彼女が入院した日の晩は、その鬱陶しく感じていた呼び声が、母の命の証であったように思え、それがもし、もう二度と聞けないとしたら、と思うとひどく切なかった。血のつながりのない母であるが故にこそ、「ここまで」という関係性の線引きがわたしにはできない。「介添えなしでは歩行困難となったとき」「娘をまったく認識できなくなったとき」この2点が、働きながらの単身での介護の限界と見据えている。

以前にも母が入院した際は、入院先の病院で、認知症を忌避され、早く転院してほしいと迫られた。父が亡くなって間もない頃だったこともあり、ひどく傷心を抱えた。最近は、病院側も、高齢者には認知症がつきものという了解になってきたのか、限界に幅をもたせてくれているようだ。ありがたい。ありがたいと思う一方で、そういった抑制なしに見守っている自宅での介護の限界がまた脳裏をかすめる。老老介護など、並大抵の苦労ではないだろう。

夜中に大声を出して起きようとする母を、病院は「抑制」する。体を動けないように固定したり、車椅子に乗せてナースステーションに連れてゆき、そこで監視する。排尿は、紙おむつにするように促される。そうでないと、下手すれば30分おきに「おしっこ」「おしっこ」と言われ、ポータブルトイレで介助しなければならないだろうし、いざ、トイレに座らせたところで、1滴2滴ということもざらではないのだ。そんな患者に手間暇かけてはいられないだろう。昨日の母は、ベッドが寝にくいと言って、帰ろうとするわたしを、何度も何度も引き止めた。「もう少し、あげて」「もう少し、さげて」「こっちにむきたい」「あっちにむかせて」でも、これは、おそらく、認知症というより、認知症によってあけすけになった欲求の声そのものだろう。退屈で、退屈でたまらないと訴えたい思い。

とにかく、わたしはたくさん眠ろう。そこから先のことは今は考えまい。





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by kokoro-usasan | 2017-04-11 11:53 | 日々

たあいないきもち

先日、ネットでこんな言葉を目にし、なにか胸に沁みた。

「石ころはつねに結果(偶発的な、また必然的な作用の結果)である。
行きどまり、句点、精算書、つねに過ぎてしまった時である。
石が墓標になるのは偶然でない。
石は過ぎてしまった時のしるし、等質で、等密な、
だが不可逆的な時間の保証者である。」(宇佐美英治)


旅に出ると、石ころを拾わずにはいられない自分の習癖を思った。逆説的にも思えるが、旅はわたしにとって、「行き止まり」の確認でもあった。そして、石は、確かに「精算書」のようなものでもあったのかもしれない。石で終わったもの、石に封じ込めたもの、そして永劫に沈黙を守り通すもの。「不可逆的」という一種の安らぎの着地点を、悲劇にさえ求める心。

持ち帰った石ころを手のひらにのせ、撫でさすり、凝視し、「なるほど」と、どこにも「なるほど」と言える思考もないままに、ささやかな「行き止まり」の姿を自ら承認し、本棚の上や、飾り棚の片隅、小さなガラスの器に置く。それは、土地の土産などではなく、やはり、私自身のなんらかの墓標といっていいものかもしれなかった。

その一方で、わたしは、種を買い、球根を求め、芽吹いては枯れゆくものにも「教え」を乞うた。「行き止まり」が「消失」である生命もまた、わたしには必要だった。一瞬の色、華やぎ、しなり、発散と、消滅。

そんなことをたあいなく考えていて、ふと、戸外の風の強さに気付かされる。風か。風は何と言っているか。





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by kokoro-usasan | 2017-04-07 10:34 | つぶやき

my foolish heart

母の入院先から戻ってきて、ぼんやりテレビをつけると、竹原ピストルが歌っていた。あぁ、この人の歌、わたし、前にブログに書いたことあったよなぁと思い、自分で検索すると、
「雨がやむまでのあいだ。」という4年くらい前の記事で書いているのを見つけた。

catch me if you can というのは、トム・ハンクスと、なんとかなんとか(ど忘れ)のダブル主演映画なのだけど、天才的な詐欺師のお話。実話をもとにしているという。結構面白かった。ピストルさんがいうように、彼のこの歌は、その映画のタイトルを「ぱくった」わけね。でも、「捕まえられるものなら捕まえてみろよ」と歌ったあとの「オチ」が、彼らしくてあったかい。わたしはこういうのを聞くと、「探せるものなら探してごらん」と一生懸命に隠れているのに、誰も探してくれないタイプの自分に恥じ入る。どーんと構えてみたいものだなあ。


このひと月以上、どうも調子がよくないのだけれど、単身介護者というのは、自分が具合が悪くては、介護されてるひとが困るわけで、自分が入院するくらいだったら、母の方を入院させてしまったほうが、理にかなってる、なんて思う。まいったなぁと思っていたら、ほんとに母の具合が悪くなり、入院することになってしまった。これまで、入院するたび、「もう帰るーー」と看護婦さんを困らせて、夜中に電話で呼び出されたりしてきたので、それが心配だったが、認知症の進み具合がちょうどいい塩梅なのか、わたしが病院から帰るとき、「お留守番、よろしくね」と言うと、自宅にいるような気になるらしく、「うん」と素直にうなずく。「それじゃ、これから、仕事にゆきますからね。仕事が終わるまで、静かに待っててね。」「うん」

今回、母の主治医になられた医師が、「話の早い」かたで、ありがたく感じている。患者の家族が知りたいと思うだろうことを、自分のほうから、さりげなく設明してくださる。母が入院したので、わたしは、夜中に何度も起こされずに、朝までぐっすり眠れることとなった。これをひとつの機会として、自分の体調も回復させよう。ケアマネさんが、あなたのリスク判断は間違っていないと思います、と言ってくださった。そうだといいのだけれど。たとえ、そうでなかったとしても、後悔はしないと、わたしたち、老齢の家族を介護するものたちは、心を決めるのだ。つい数ヶ月前も、ひとりで親御さんを介護している友が、「自分の判断に自信が持てない」と電話をくれて、何度もやりとりしたとき、「たとえ、間違ったとしても、それが、わたしたちの、ぎりぎりなのであって、誰もあなたを責めることはできない。」と、ふたりで確認しあった。その友が、久しぶりにわたしに電話をくれ、そのような話をすることになったのは、偶然ではないのかもしれない。

新しい年になったというのに、見聞きすることのすべてが、心を荒ませる。その踏み荒らされた土地には、結局花ひとつ咲いていないように見える。

「泣きながらご飯を食べたことのあるひとは生きていけます」とは、先日やっていたテレビドラマのセリフだが、実際、本当にそうなのではないかとわたしも思う。泣きながら、ご飯を食べたら、自分が明日蒔ける種のことでも考えてみればいいのだろう。





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by kokoro-usasan | 2017-04-04 23:16 | 日々


閉じられていないもの


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