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books A to Z に寄せて。

辺見さんが、「いかがおすごしでしょうか。さぞや不機嫌なことと拝察いたします」と書いておられるのを見て、「ほんとだよ」と心のなかでタメ口になってしまった。くすっ。友人たちに書きたい手紙がある。贈りたいメッセージもあるのだが、
いろいろ鬱陶しくて、あたまが動かない・・・。申し訳ないです。

e0182926_16304495.jpgそんななかでも、北村浩子さんが、長く担当されてきたラジオ番組 books A to Zが3月で終了と聞き、ずっと、ここでお礼を言いたく思っていました。北村さん、本当にお疲れ様でした。(ブログは保存されるということで、とりあえず安心しました。本当に貴重な記録だと思います。右欄にリンクをはらせていただきました。)

北村さんによると、数年前このブログでウィリアム・トレヴァーの小説を取り上げたときに、その拙記事を読まれたのが最初のきっかけだったとのことでしたが、先日、北村さんがご自身のツイッターで、あえてわたしのこのブログに言及されているのを知ったときは、かなりびっくりしました。しかも、ストレートに社会的な問題に触れた記事でしたので、北村さんとしても思い切った決断だったのではないかとやや心配しました。ただ、読んでくださっていたことに、非常に勇気付けられましたし、励まされました。感謝いたします。ありがとう。心強かったです。

これからまた様々な分野でご活躍になられると思いますが、あらためて「声」のお仕事が、なにかとてもいい形で、北村さんに降りてくることをわたしは期待しています。今はこの世にない分野、今はこの世に一般的ではない仕事、それを開拓してゆく希望もあるかと思います。

ほぼ同年代。まったく不透明な未来を前に、夢とか希望という言葉も、虚しく聞こえてくるのですが、あらがえないものに希望を奪われたと思うのは悔しいですから、自分から短気をおこして、希望を投げ捨てないようにしようと、自戒しているところです。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。





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by kokoro-usasan | 2017-03-30 18:21 | ごあいさつ

彼岸の雨

e0182926_11494910.jpgチェブラーシカの話題があって。

チェブラーシカってどんな顔をしてたかなと、想像で描いてみた。簡単なはずなのだけど、意外に思い出せない。こんな感じだったかなぁとペンをおいて答え合わせをしてみたら、鼻のかたちが違っていた。

こんないたずら書きをするなんて、「アタシ、かなり凹んでるカモ」という感じ。道理が通らなすぎて、チェブラーシカなんか描きたくなってしまう。今日は雨。咳が少しおさまってきた。

チャック・ベリーの訃報。これ、ろっくんろーるの原点だよね。わたしがこどものころ、読売ランドの屋外ステージで、まだ売れてない野口五郎がこれを歌ってた。わたしは、となりのトランポリン広場で、トランポリンしてて、履いてたズボンのおしりが破けて、みんなに笑われたものの、「でも、この、ごーじょにー、ご、ご、ごーって、かっこいいじゃん」って思ってた。やぶけたズボンは、引率の先生が、「仮止め」してくれて、そのまま帰った。恥ずかしくなかったのかねぇって今になって思うけど、あんまり、その記憶がなくて、「ごー、ごーじょに、ご、ご、ごー」って、家に帰ってからも、鼻歌うたってたことのほうは覚えてる。


もう、すこし、心のリハビリが必要なので、雨の散歩にでかけてみることにする。そういえば、きのうは、ちゃんと墓参りに行ったでござる。自宅の庭の花や葉や枝をいい感じにまとめて、お供えしてきた。花屋さんにゆくと、この時期、やけに価格が高くなっていて、菊ばっかりだし。「ほら、おとうさん、庭の花だよ」なんて言いながら、おそなえしたけれど、なんか、「おとうさん」が、その墓のなかで一年中じっとしているとも思えなくて、「ま、いつも見てるとは思うけどね」なんて、ドライに自分でダメ出し。お墓の花たち、今頃、みんな濡れそぼっているのだろうな。





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by kokoro-usasan | 2017-03-21 11:59 | つぶやき

扁桃腺炎

e0182926_11273570.jpg某日
子供の頃から扁桃腺が弱かったことを,最近は思い出さずに済んでいたが、先日来、かなりしつこく扁桃腺炎にとりつかれている。病気などしている場合ではないという仕事への責任感と緊張感が、不条理な現実の前でついに崩れたのかもしれない。組織の無責任に打ちのめされつつ、テレビをつければ、ニュースではそれに輪をかけたような話ばかり。

「ムダニン・カタ」というアルバムを取り寄せて、その素朴な歌声にとてもこころ和んだ。台湾のブヌン族の人々の古くから伝わる歌にデヴィッド・ダーリングというチェリストが、その素朴さを邪魔しない控えめで美しい音色で寄り添う。音楽はやはりいいなぁと思う。


e0182926_1129234.jpg某日
咳が止まらない。「痒み」というのは、つまり「痛み」なのだと以前本で読んだ。痛みのもっとも軽微な段階。わたしのこの咳は、扁桃腺炎で傷んだ咽喉の傷が癒えてゆく過程で、皮膚が痒み(軽い違和感)を感じており、それを、指でかきむしることができないため、体が全身で反応している動きなのかもしれないと思う。痒みを掻きむしって出血させてしまうときのように、咳も、どこか麻薬のように、「もっと、もっと」と体に迫る。ぜいぜいするときのつかの間の快感は、痒みを掻いているときの、不思議な恍惚感を思い起こさせる。咳はわたしに執拗に迫る。「早く、追い出して、この違和感を」

Rhiannon Giddensの新しいアルバムを聴く。1曲目で繰りかえされるフレーズ、you can take my body,you can take my bones, you can take my blood but not my soul が、疲れた心に沁みる。


e0182926_1145076.jpg某日
このアルバム、Brad Mehldauの「elegiac cycle」は未聴。ジャケットがきれいだったので、取り寄せてしまった。昔、レコード屋で働いていた頃、わたしはクラシックの担当だったけれど、ディスプレイを考えるときに、一番、羨ましかったのは、ジャズの担当者だったような気がする。ジャズのジャケットは、ハイセンスなものが多くて、並べてて楽しそうだった。あと、R&Bかな。

あぁ、本当に役人の答弁は面白くないなぁ。口先でものをいう、とよく言われるけれど、「口先」しかないような言葉の浅薄さ。

しばらく前のことだけど、「南京事件」とは直接関係のなさそうな日本人と中国人が仲良くしている写真を出してきて、こんなに友好な関係だったのであり、「南京事件」などでっち上げだとネットにアップしているかたがいて、いたたまれない気がした。南京事件が、どういうものなのか、そもそものところを理解していないのかもしれないと思った。日本軍が中国全土で見境なく「虐殺」を行っていたということではない。「南京事件」が問題になっているのは、一部皇軍が制御不能となって、民間人を非道な形で不必要に殺し尽くした「事件」だからなのではないのか。この「制御不能」に陥ってゆく惨禍というものを、人間の歴史として、「忘れずに」検証し、二度と起きないように記憶しなければならない問題だと、わたしは思っている。

「似たようなことがどこでも起きていたのだ」という理屈で、すべてを封印して平気なタイプのひともいるかもしれないが、姑息に封印されたそれらが、時折、明るみに出てきたとき、それをも、もぐらたたきのようにまた埋め戻すのか、血を吐くような貴重な証言として、しっかり残しておこうとするか、「人道」はどちらにあるか、問いたい。


とはいえ、


じんどうかぁ。
わたしは、にんげんなのかなぁ。にんげんということでいいのかなぁ。
はんぶんくらいはにんげんのはずだけど、
あとは、なんだかえたいのしれないものかもしれないなぁ。
ふゆうれいかもしれないです。
もうしわけないですね、いろいろ、ぼやいて。
はいごれいではないので、あんしんしてください。
せきをするふゆうれいです。


くろいゆめと
しろいくもが
くるしそうに
あそんでる





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by kokoro-usasan | 2017-03-19 12:56 | つぶやき

もうだれも奴隷にならないように

7、8年近く前のことになるかな。たまたまネットで見かけた福岡のブックス・キューブリックという本屋さんのロゴ入りエコバッグが素敵で、欲しいなぁと思っていたら、友人が九州に転勤になったというので、もし機会があったら、その本屋さんに行って、ロゴ入りエコバック、わたしのかわりに買ってください、と厚かましいお願いをしたことがある。友人は律儀に行ってくれたらしいのだが、品切れで買えなかったとの返事があった。

先日、そのブックスキューブリックの店主である大井実さんの書いた「ローカルブックストアである福岡ブックスキューブリック」という本を見つけ、とても面白く読んだ。地域の書店が軒並み閉店してゆくなかで、それまで書店に勤めたことさえなかったかたが、「本屋さんをやってみたい」という夢だけで、お店をたちあげ、全国でも有名な人気書店になってゆくまでの経緯を綴った本だ。「夢だけで」とは言っても、イメージをかたちにしてゆくための現実的な努力は生半可なものではなく、もともと、バブル期にファッション業界で「イベント企画」をやってらっしゃったという、その企画力とコミュニケーション力のたまものという気はする。

わたしが住む街は、一昨年、駅前にあった書店が突然閉店し、「街に一軒も本屋さんのない」コミュニティになってしまった。多い時には、古本屋さんも含めて五軒あった時代もあったのに。ひどい話だなぁと思う。ネットで注文すればすぐ届くからいいやという話ではないのだ。その地域のひとが、みんなで眺めに行く「同じ本棚(書店)」があるということは、内容はともかく、そこそこ、文化的な了解事項のようなものを共有できるということでもあるのだと思う。背表紙を眺めて、だいたいあの本はあのへんにある、という了解だけでも、街の「文化的」財産になるような気がする。今、街に一軒も本屋さんのないわたしの街の住人が、最近、どんな本を読んでいるのか、わたしには、もう皆目わからなくなってしまった。寂しくもあるし、正直、なんとなく怖くもある。本屋もレコード屋もない、この街の住人は、どんな本を読み、どんな音楽を聴いているのだろうか、お互い、誰もなにもわからない。目星もつかない。

かつて須賀敦子さんが書いた「コルシア書店の仲間たち」のように、書店が果たしていた役割のようなものを夢見る。ネットでは、10年前に読んだ記事を、もう一度、読みたいと思っても、もはや、探しようがなくなっていることもあり、例えば、信ぴょう性よりも、感情的なものが優先されるポスト・トゥルースといわれる風潮なども、そうした、「出処をたどりようもない」情報を朝から晩まで浴び続けることによる知的麻痺からくるのではないかという気がする。

広告や情報ではなく、手間暇かけた「著作」に触れる時間がもっと必要なのではないか。

前述の大井さんが本の最後のほうで、イタリアのジャンニ・ロダーリという作家の言葉を引用しているのだけれど、この言葉、奥が深くてとても好きだ。

「みんなに本を読んでもらいたい、
文学者や詩人になるためではなく、
もうだれも奴隷にならないように」






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by kokoro-usasan | 2017-03-10 22:58 | ことば

自由

かつて、ハンナ・アーレントが言いました。
神には「真理」がある。
しかし、「真理」には「自由」がない。

それはカントの次の言葉から啓示を受けてのものでした。
「わたしたちは、
人間的自由の可能性のために、
真理を犠牲にする覚悟がある」

そのとき、わたしは思ったのです。

神が、「沈黙」するのは、

神の真理からは逸脱して手渡された「自由」を、
人間がどう行使するのか
じっと忍耐強く見つめているからなのだと。

死ぬほどの苦しみも悲しみも、
おまえに与えたその「自由」で乗り越えよ、と。

その自由の意味を深く知れ、と。

「狭き門」とは

「自由をどう使うべきか」という問いかけなのだと
わたしは思っています。

履き違えれば、
その自由は腐り、門は遠ざかります。





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by kokoro-usasan | 2017-03-01 11:46 | つぶやき


閉じられていないもの


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