カテゴリ:映画( 34 )

擦過傷

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このところ
妙に
落ち込むことがあって、
人との間に垣根を作りそうになっているのを感じるのでした。

そこで、
昨日の休日、
普段は乗ることのない初めての路線を利用して
遠い映画館まで
ぼんやりバスに揺られてゆきました。

「彼らが本気で編むときは、」
を観ました。

監督は「かもめ食堂」「めがね」の荻上直子。
彼女自身が「荻上直子第二章」と言っている通り、
この作品は、これまでの荻上作品より
現実への寄り添い方がとてもリアルになっていて
それでも、彼女らしい、ゆるやかでやさしいテンポはそのままの
暖かい作品でした。














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by kokoro-usasan | 2017-02-28 12:31 | 映画

長く生きるほどに

津端さんご夫妻のことは数年前から雑誌などで存じ上げていたのですが、その穏やかで質実な暮らしぶりを本にまとめられたときは、とても嬉しく拝読しました。今回、気になるドキュメンタリーをたくさん上映してくれているポレポレ東中野で、ご夫妻のドキュメンタリーが封切られるのを知り、いそいそと出かけてゆきました。普段は、それほどお客さんが入っていないように思える(失礼。タイミング的なものでしょうかね)ポレポレなので、今回も、上映時刻少し前に余裕で入場のつもりが、既に大入り。わたしよりもあとに来られた方のなかには、椅子席ではなく、「階段に座布団」席になってしまったかたもおられたようです。

以前、鎌倉の美術館で開催された建築家アントニン・レイモンドとノエミ夫妻の展覧会に行ったことがありますが、津端さんは、このレイモンドの影響を受けてらっしゃり、暮らしの設計(家や庭の造作だけでなく)に、それが色濃く現れています。あいにく、レイモンド夫妻については、建築的なことを知るのみで、その人となりについてはあまり知らないのですが、津端夫妻に関しては、興味深い記事や書籍で、一方的に親しみを覚えていたので、こうやって映像で拝見できるのは、とてもありがたく思います。そして、中身については、まだ上映中ですし、あまり語らずにおこうと思いますが、この映画のなかに挿入された、ファンタジーだけではない部分が、わたしには、なぜかとても心に残りました。

ひとの人生、ひとの心に分け入るということは、とても大変なことなのだなぁとあらためて考えさせられました。別にそういうことを示唆する場面が特別あったわけではないのですが、不思議ですね。お年寄りの暮らしに密着する映像には、どうしてだか、自分のなかの軽薄を戒めるなにかを深く感じさせられます。

長く生きるほどに美しくなってゆくということを、心密かに信じてみようか、と、そんな気持ちになる映画でした。たとえ、長くはない命だったとしても、そう密かに信じ、今日の自分を律することが可能ならば、そうしてみたいような気がするのです。


「人生フルーツ」予告編





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by kokoro-usasan | 2017-01-13 13:04 | 映画

雑感

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e0182926_1836530.jpg今月に入って、フランス映画とアメリカ映画を1本ずつ観た。どちらも観たくて観た映画だけれど、前回も書いたように、いま、わたしは、あまり、突き詰めて言葉を探す気になれない。

ただ、こんな風に、写真でお茶を濁しながら、ふと思ったのは、フランス映画は、孤独というものの奈落に物怖じすることがないが、アメリカ映画は、孤独を「裏返したい」という熱にいつも突き動かされているように見えるということだった。
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by kokoro-usasan | 2016-02-18 18:37 | 映画

IL CONFORMISTA

関東は梅雨明けしたという。

ベルトリッチの「暗殺の森」を観た。まだ10代のころ、テレビでそのラストシーンのほうだけを観て、ずっと、心に残っていた映画だった。雪の積もった樹林を泣きながら刺客から逃げ惑い、ついに顔を血まみれにして絶命するドミニク・サンダの映像をテレビで初めて観たとき、わたしには、なにかとても「デジャヴ」な感覚があった。デジャヴといえば、映画の「存在の耐えられない軽さ」のラストシーンにも「デジャヴ」ななにかを感じる。雨の中、主人公たちを乗せた車が、森の中の道をゆく。その曲がり角の向こうには死が待ち受けている。「森には死が潜んでいる」それがデジャヴに共通するものといえるだろうか。

「暗殺の森」の主人公を演じるトランティニアンはわたしの好きな俳優だが、「好ましく感じる」というのとは少し違う。「気になる」というのが正しい。こういう男とつきあうと自分がだめになってゆくんじゃないかと感じさせるものを持っていて、なるべくなら敬遠したい。でも、本性を知りたくも思う。そういう雰囲気を持っている。トランティニアンを主人公に起用したことについて、ベルトリッチが巧いことを言っている。「トランティニアンのことを考えたとき、すぐさまふたつの形容、 哀れを感じさせ、かつ邪悪である、が思い浮かんだ」「このふたつは、マルチェロ(主人公の名)という人物が備えている性質です」「邪悪」とは、ずいぶんな言われようだが、なんとなく意味合いはわかるような気がする。

この作品を、「ファシズムの瓦解」の映画だと言う人もいるが、それは違うと思う。ファシズム政権下では、人間が記号化しやすいわけで、その状況が、主人公の精神的病理を浮き彫りにする上で、効果を上げているということにすぎないだろう。この作品の原題は「IL CONFERMISTA」(体制順応者)だ。主人公は、「正常」「普通」と思われたいがために、「体制」に粛々と、身を添わせる。

もともとこの映画にはフロイト的なものが多く流れているので、そういう側面から、深く読み込んだ映画批評はないだろうかと探していたら、とても興味深い記事に出会った。備忘録として、ここに貼り付けておこうと思う。瞠目の批評。

「人生論的映画評論」より
http://zilgz.blogspot.jp/2013/05/70.html

思うに、なんだか、ずいぶん、季節はずれな映画をこのところ見ていたことになるなぁ。
暑くて、そうめんばかり食べている。スタミナ切れ。
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by kokoro-usasan | 2015-07-19 16:54 | 映画

エレニの帰郷

去年の暮れから楽しみにしていたテオ・アンゲロプロス監督の遺作「エレニの帰郷」(2008)を新宿に観に行った。これは彼が「20世紀三部作」として構想していたものの第2作で、日本初公開となる。1作目は2004年の「エレニの旅」。(しかしなんと、完結編となる第3作「もう一つの海」の撮影中、不慮の事故によって監督は亡くなってしまい、この3部作は未完となった)日本語字幕は池澤夏樹氏。

a)
日本にいると、歴史は、「教科書」の中にしかないような気がする。特に、動乱や、戦争といったものが、街や家屋の気配に記憶を残していないように思え、哀しくもなければ、怖くもならないのだった。だが、ヨーロッパの石造りの街は、気配としての人間の歴史を、街のそこかしこでむせかえるように発散しており、こんなに歴史に疎いアジア人のわたしにも、自分の命はその連綿と続く血塗られた歴史の一点として、今ここにあるのだと感じざるを得ない気持ちになるのだった。それは歴史からの抑圧であると同時に、深い哲学的な下地を心に育むものであるようにも思える。日本人は、海に囲まれた狭い島のなかで、熱狂や鎮静を経てはきたが、せめぎあう国境を出入りしながら、国民が、他国からの侵略でaという国とbという国に完全に引き裂かれてしまったり、cという国に吸収されたり、dという国の言語で話せと強要されたりすることがなかった。戦争は確かにあったが、近現代史において悲惨な戦闘地域となったのは、沖縄をのぞいて、満州など、本土以外の場所であり、空襲という悲劇はあったものの、他国の人間が、戦車で道路を塞ぎ、民間人を撃ち殺してゆくような場面にはほとんど遭遇していない。だからこそ、第二次世界大戦の際に、満州で起こっていたことに対して、わたしたち日本人は、ずいぶん高みからものを観るような言い方をするひとが多いのではないか。自分の暮らしている場所を、他国の生身の人間に直接陵辱されていないからだ。沖縄のひとたちは、そういう闘いを強いられたわけだし、なかんずく、お国の名を辱めぬために、日本軍から自決を強要されたひとたちもいるわけで、無機質な爆弾が空から落ちてくるのとはまた別の種類の、凄まじい恐怖であったろうと思われる。

b)
映画とは関係ない話をしているだろうか。だが、わたしは、ヨーロッパのある種の映画を観ていると、国が分断されたり、難民になったりすることの悲劇を深く感じさせられるのであり、「お国のために」などと言える「お国」が、明日には、別の指導者によって統率され、自分たちのほうが、国を追われてしまう恐怖と隣り合わせで生きてきた人たちにとって、「歴史」というものが、どれほど、心のよりどころとなるものなのかを、考えさせられるのだ。忘れてしまえば、自分たちのルーツを、もう取り戻す術がない。日本が今、人も住んでいない島をめぐって、他国と、戦争も辞さないような構えを見せ始めているのを、ヨーロッパの国々は、大きな「?」で見守っているという。防衛や領土、資源という問題でいえば、看過できない点であるかもしれない。しかし、それで、国民を戦闘に巻き込むつもりであるなら、その為政者が学んだ歴史は、「狭い島国の歴史」一冊だけなのではないかと思えてならない。

c)
映画の話にしよう。例えば、ロシアから脱出した人々が、ハンガリーを経て、オーストリアへ入るシーンがある。観光旅行ではないから、彼らは、オーストリアに入国した時点で、亡命する国を選ばなければならない。自分の国が崩壊するということ、国を失うとはそういうことなのだ。イスラエルに行く人は右、アメリカへ行く人は左。移民局のアナウンスが入る。

d)
全然、映画の話になってませんね。すみません。あらすじも感想も、今の時代ですから、ネットでどこでも探せると思うのです。だから、わたしは少し遠くから書いてみました。ただ、ひとつだけ、具体的に映画に触れるなら、パンフレットにあった、「いつか、言ったね。帰る場所がないと。」という言葉を、登場人物の誰が言うのだろうかと、当初、わたしはとても興味を覚えていました。ところが、映画を観始めたら、そんなことはすっかり忘れてしまっていました。ある意味、そこにいるひとたちには、だれひとりとして、帰るところなどないように見えましたし、ひたひたと、そんな心持が、自分のなかにも染み込み始めていたので、その興味は、特別、誰がいつ、などと、こだわることでもなくなっていました。

だからこそ、その言葉を、あるひとりが発したときは、まさに不意打ちで、ガンときました。あぁ、ここで、このひとが言うのか!と・・・。(アンゲロプロスめ!)きっと、ここから先、観客は、思い出したかのようにぎゅうっと胸を締め付けられてゆくことになるのだろうと思います。

そして、ラストは、切ないことに、次に繋がってゆくことを暗示しています。
考えてみると、映画の冒頭ですでにそれは示されていました。映画の冒頭はこうです。

 何も終っていない。終るものはない。帰るのだ・・・。物語はいつしか過去に埋もれ、
 時の埃にまみれて見えなくなるが、それでもいつか不意に、夢のように戻ってくる。
 終るものはない。

アンゲロプロス監督自身の言葉として娘のアンナさんが、わたしたちに示してくれた同様の言葉があるので、ここに引用しておこうと思います。

 これは埃の堆積、歴史の上音なのだろうか
 失われたものは見つけられるべきであり
 それは見つけられる
 そしてまた失われ再び見つけられる
 わたしの終りは、わたしの始まりである。 (テオ・アンゲロプロス)


この言葉があれば、わたしの感想はいらないと思います。「再び」「再び」「再び」、失われても、失われても、失われても、見つけにゆくこと。「それを。」
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by kokoro-usasan | 2014-02-07 12:43 | 映画 | Comments(0)

orfeu negro

なぜかなぁ。このところずっと、頭に浮かぶひとつの映像が気になっていたのですが、その映像がどこで見たものだか思い出せなくて、たしか、あれは・・・、たしか、あれは・・・と、もどかしく思っていました。そして、今朝、やっと見つけました。

わたしが思い出したかったのは、こどもたちが朝日のなかで歌い踊るあるシーンだったのですが、you tubeで探した映像には、その前の部分からアップされていて、神話をモチーフにしたこの作品の概要が、それだけで想像できる10分間になっていました。この映像に付け加えて語りたい言葉は何もなくて、ただ、時々、とても懐かしくなるということだけ。ここにあるのは、文明でもなければ、文化でもない。なにかもっと敬虔なもの。心に神話を抱えて生きることもすてきなことと。


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by kokoro-usasan | 2013-05-13 10:44 | 映画 | Comments(0)

アグネスの詩

e0182926_1326577.jpg路傍の僅かな場所にも春は身を寄せ合って。小さな風車のような花びらの姫蔓日日草。地味だけど愛らしい野の花たち。

昨夜、イ・チャンドン監督の「ポエトリー アグネスの詩」をDVDで観た。66歳、離婚して働く娘の代わりに、中学生の孫息子と暮しているミジャは最近、アルツハイマーの初期症状が出ていると医師に告げられる。確かにこのごろ、会話の中で、思うように名詞が出てこなくなっているのを感じていた。医師は言う。「そう、名詞も、やがては、動詞もです・・・」と。病院からの帰り道、突然ミジャは、昔、才能があると褒められたことのある詩を書こうと思い立ち、そのまま詩作教室の門を叩く。一方、テレビやゲームに興じるばかりで会話もない孫息子の学校では、一人の少女が川に身を投げて自殺する事件がおきていた。ミジャは孫に、亡くなった同級生のことを聞くが、よく知らないと素っ気無く返される。ミジャたちの暮らしはけして豊かではない。ミジャは、半身不随の男性のヘルパーとして入浴の介護などを行っている。気難しい老人で他のヘルパーは長く続かないのだが、「雲雀のようにおしゃべり好きな」ミジャのことが内心気に入っている。少女のようなつば広の帽子を被り大きな網籠をぶらさげ、明るい色の服でおしゃれに歩くミジャ。どこか夢みる眼差しの。

あまりに長文になってしまったので続きはこちらへ
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by kokoro-usasan | 2013-04-15 14:52 | 映画 | Comments(2)

「先祖になる」

e0182926_108261.jpg渋谷はあまりわたしのシマ(笑)ではないのだけど、ドキュメンタリー映画のために、ときどき足を運ぶ。今日は、宮益坂のイメージフォーラムまで「先祖になる」を観に行った。観るのをとても楽しみにしていた作品だ。観客は結構年齢層が高く、「先祖になる」というタイトルが、自分の人生の視野に入ってきている世代だなぁと、ちょっとひやかしで言ってみたくなる。でも、それは実は皮肉でもからかいでもなく、とても大事な問題だと感じている。「老い」の覚悟ではなく、「よく生きる」覚悟が、そのタイトルには込められている。

3.11の震災による津波で集落(地域社会)そのものが流されてしまった陸前高田。かろうじて流されずに残った自宅で、77歳の佐藤直志さんはその場所からの再起を誓う。消防団員だった息子さんは、足の悪い老人を背負って避難させる途中で津波にさらわれて亡くなった。その息子さんのためにも、ただ行政に頼って、仮設住宅に入り、3年後5年後の「復興計画」を待つよりも、今すぐ、自力で元気に再出発しなければいけないという希望をゆずらない佐藤さん。もと「樵」(きこり)だった佐藤さんは、裏山の木をみずから伐採して、新しい家を建てるという夢の実現にすぐ着手する。行政は、当初、それを拒み、まず仮設住宅に入る手続きをせよ、勝手に新築はできないと難色を示す。「復興計画」がまとまるまで、仮設で待っていろという姿勢。が、佐藤さんは、77歳の自分に、そんなふうにただ待っている時間が残されているというのか、と問う。意気消沈している地域のみんなのために、自分ひとりでも頑張っているところを見せて励ましたいと思う人間がいるなら、それを褒めこそすれ、厄介者扱いする道理はないだろうと。佐藤さんの言葉のひとつひとつが胸を打つ。それらが、所謂住民訴訟のような、口角泡を飛ばし、胸倉を掴まんばかりの激しい口調で語られるのではなく、大人が子を諭すような、「わかっぺ?」というまっすぐな情熱で語られるので、今、このひとの言っていることは、なにひとつ私利私欲のない、ひとえにまっとうな人間の言葉だと思わずにはいられなくなる。

そんな「頑固親父」の佐藤さんを、ずっと応援してくれた菅野剛さんに、監督の池谷さんは質問する。なにが、あなたをそうさせるのかと。わたしは、このときの菅野さんの言葉が忘れられない。「もし、自分ひとりでも応援しなかったら、佐藤さんは孤立してしまう。ひとのために、頑張っているひとが、孤立するなんて、そんなことがあってはならないと。

もし、この菅野さんの言葉を聞いて、私利私欲なく、ひとのために頑張っているひとは、いつも、みんなの中心で大事にされているのではないかと思うひとがいたら、それは認識不足だとわたしは思う。宮沢賢治ひとりをとってみても、実は、「偉人伝」の陰で、実際の村のひとからは、ただの変人よばわりであったり、お節介な人という感覚であったりして、後世で言われるほどの敬意は受けていなかったという話を読んだことがある。一部のひとたちにしか、その情熱は正しく理解されてはいなかったと。だから、菅野さんのその言葉が、わたしにはとても尊く思えた。

地域再興のための「希望」として、自分の家を建て直す夢を捨てない佐藤さんのような老人がいる一方で、津波の被害によって地域がばらばらになってゆくのを、なんとか食い止めたいと願う若者たちも現れてくる様子は、とにかく胸を熱くする。試練のなかで力を失ってゆく人もいれば、試練のなかで、砂金のように輝きを放つ人たちがいるという事実は、しっかり覚えておかなくてはと思う。そして、そういうひとたちに共通しているのは、さらさらと乾いて穏やかなユーモアの感覚があるということ。

是非、たくさんのひとに見てほしいと思う。

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by kokoro-usasan | 2013-02-23 02:05 | 映画 | Comments(0)

「隣る人」

e0182926_1053634.jpgきのうは結局、岩波ホールまで「最初の人間」を観に行ったのだったけれど、その話はまたあらためて書くとして、その前日に観たドキュメンタリー映画「隣る人」(刀川和也監督2011)についても少し触れておきたいと思う。昨年、芹沢俊介さんの「家族という意志 -よるべなき時代を生きる」(岩波新書)」という本を買い、未読のまま本棚に据え置かれていたのだけれど、思わぬところで、その著者と、今回のドキュメンタリーが繋がっているのを知り、きのうから、早速、読み始めている。子どもには、そのいのちの安定した存続のために、確たる「受けとめ手」が必要であるという芹沢さんの主張、そして、その受けとめ手は必ずしも実親とは限らないという考えを、わたしは支持する。なぜか、ここでふとわたしはアランの「定義集」の言葉を思い出す。「魂」という言葉の定義。よい魂、悪い魂というものはない。魂があるか、ないか、だけである、という一節だ。言葉の最も峻厳な意味合いにおいて、ここでも、こう言えるのではないかと思うのだ。つまり、よい受け止め方、悪い受け止め方というのはない。受け止め得たのか、受け止め得なかったのか、だと。

もちろん、そこに完璧などというものは、到底在り得ないのであり、そこで取りこぼされていくものに、わたしたち(かつて子どもだったものとしての)はみな、直面しつつも、超えてゆこうとしてきたのだろう。だが、そうやって超えてゆこうとするときに、予め履かせてもらえる下駄の高さは、その子どもによって違うということの理不尽を、このドキュメンタリーは、ナレーションも、音楽もないままに、静かに知らしめる。これができたのは、完成までに8年をかけて施設の子どもたちに寄り添ったという監督の覚悟ゆえではないかと思う。即席で作ったものほど、ナレーションでごまかすものだ。それは、子どもとの向き合い方をも象徴する。本気で向き合おうとするとき、いちいち、状況に説明を加え、言い訳を多用しつつ進むだろうか。すべてを受け入れることから始めなければならないときに、こうあるべきという「解釈」から入ることはまず不可能だろう。

わたしは、むっちゃんという女の子が、同じ施設の子で、担当してくれていた職員と別れなければならなくなったマイカちゃんという女の子が号泣・慟哭する姿を、じっと見つめつづけているシーンがとても印象に残った。あのときのむっちゃんの視線に似たものを、自分も世の中に対して持っているような気がしたからかもしれない。わたしにとって、そうした世界への無言の凝視の時間がとても必要であるように、むっちゃんにも、あの時間は、おそらく大きな意味を持っている。それは、昨年観た「オロ」というドキュメンタリーで、チベット難民のオロ少年が、カメラの前で、ふっと沈黙した瞬間をも思い出させる。

監督がこの作品を作るきっかけにもなったという芹沢さんのもうひとつの著書、『「新しい家族」のつくりかた』という本も、いずれ、読んでみようと思う。それにしても、このドキュメンタリー、DVDがあるといいのだけれど・・・。シナリオを読み返しながら、もっと何度も観たいという想いが募る好い作品だった。
自主上映をしてくださった皆さんに感謝します。


※写真は、「隣る人」のパンフレットと、先日偶然見る機会のあった人形作家のかたの
(本業は彫刻家)お雛様の写真。とてもいいお顔のお人形で、はるか昔、亡き養父が、
わたしのために買ってくれた雛人形のことを思い出した。
わたしの父は、やはり、あの人なのだった。
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by kokoro-usasan | 2013-01-22 12:27 | 映画 | Comments(0)

「はちみつ色のユン」

e0182926_20101094.gif1月3日、ポレポレ東中野で、「はちみつ色のユン」という不思議な魅力を持つ映画を観た。

「1960年代から70年代、朝鮮戦争後の韓国では20万人を超える子どもが養子として祖国を後にした」

story解説のこの冒頭の一行を読んだとき、わたしが思わず、あぁ、そうだったのかと合点したのは、以前岩波ホールで観た「冬の小鳥」という映画を思い出したからなのだが、あのとき、わたしは、何故、主人公の韓国人少女が、フランスへと貰われてゆくのか深く考えていなかった。孤児院の子どもを引き取るという海外の篤志家による慈善事業の一環なのだろうくらいに思っていた。もちろん、それはそうなのだけれど、その背景に、朝鮮戦争の爪あとがあることまで思い至らなかったのだ。おそらく、韓国の人だったら、そのシーンを観ただけで、その背景がわかることなのかもしれない。とにかく、20万人を超える子どもたちが、家族を失って、その拠り所を海外への養子縁組に求めたということは、とても驚きだった。慌てて、「冬の小鳥」のパンフレットを出してきて読み返すと、そこにははっきり「韓国の海外養子の歴史」という一文まで附されてあった。一体、わたしはなにを読んでいたのだろう。「冷戦構造と発展途上国的人口政策、社会的貧困の上に、韓国の海外養子は生み出された」と、ある程度、国策に近い方向性でそれらが行われていたことも判る。

「冬の小鳥」では孤児院の少女がフランスに貰われてゆくところで終るが、この「はちみつ色のユン」は、同じように孤児院にいた少年ユンが、ベルギーに貰われていったあとのことが物語られる。

今回のパンフレットにはこう綴られている。
「朝鮮戦争後の韓国では多くの戦災孤児や貧困により、20万人を超える子どもが養子として祖国を後にしました。国際養子として韓国を離れた子どもたちも現在多くが30~50代となり、アイデンティティの喪失などによって生きづらさを抱える者もいれば、政治家、スキー選手など、複雑な出自に負けない者も各所で話題になっています。本作は監督であり漫画家のユンの数奇な運命を、彼自身が執筆したマンガ「肌の色:はちみつ色」
(couleur de peau:miel)を元に、ドキュメンタリー映画監督ローラン・ポアローと共同監督した、知られざる韓国国際養子の歴史を見つめた作品です。」

わたしは、韓国の国際養子ではおそらくないはずだけれど、肉親の確たる情報を持たない養子としてこの人生を生きているという意味で、彼らと同じ身の上だと思う。但し、養親と肌の色や目の色が違うわけでもなく、何も言わなければ、「あまり似ていませんね」で済んでしまうだけ、摩擦は少ないといえるだろうか。それでも、基本的な自らの出自が不明であることは、悩みなどというものとは別物の、根のない草のような、そんなとらえどころのない虚しい生の徒労感をときに抱かせる。

あるとき、年配の女性が、わたしに、「その感覚を、あなたが同世代のかたで、同じ思いを持つ仲間と共有することができないのはお気の毒です」と仰ったことがある。一瞬意味が飲み込めなくて、ぽかんとしていると、「わたしたちの世代は、戦争がありましたから、結構、いたんです。親を知らない子どもたちが。だから、同世代に、その感覚がわかる人も、探せば、いないわけではなかったんです。でも、今は、そうそう、出会えないでしょうね。こんな豊かで平和な日本では」と説明された。 その言葉はなかなか興味深いものだった。そして、そうなんだなぁ、この日本で、その話を心行くまでできる人に会える機会は、これからあるだろうか、どうだろうかと思ってみたものだった。

ところが、「冬の小鳥」しかり、「はちみつ色のユン」しかり、それを語りだした同世代がいることを、わたしは、とても、嬉しく受け止める。肉親を想像して、あまりにも、空想が過ぎてしまうところも、そっくりじゃないかと、ちょっとくすっとしながら思う。自分自身の出生の資料を、自分の親族ではなくて、行政機関にしか問い合わせできないところも。そして、それも、わずか、一枚二枚の紙切れであることも。つまり、「血の物語」がないことも。
だからといって、それが生きる上で、致命的なことであるわけではなく、むしろ、考えに考えながらその与えられた場所でしっかり生き、そこから巣立ってゆこうと願うことも。

アニメーションの動き、色彩も、独特のものがあって素敵だったし、ドキュメンタリー映像とコラボレーションしているところも面白かった。実際、根無し草の子どもの心象風景というのは、あんなふうに、突然、絵のようにファンタジックにしか想像できなくなってしまう部分と、現実のリアリティとがまぜこぜになってしまいがちなのだから、あれは、とてもいいアイディアだったと思う。音楽も印象的なものだった。

ちなみに、わたしが、この映画で、最も、作者の体温を感じられたように思えたのは、学校で知り合った韓国の養子たちはみな自分を苛むという同じような道を辿り、悲劇へ向ったひとも何人かいたという正直なモノローグだった。のちに彼と同じ家に養子に入った「妹」も25歳のときに「奇妙な」自動車事故を起こして亡くなった。精神衛生学でいうところの「愛着障害」に陥るリスクがこうした子どもたちには大きいせいだろうか。「安心できる愛着」を自然なものとして他者に持つことが比較的難しいということがよく言われる。何もかもがひっくりかえって、自分はまたひとりぼっちになるのではないかと、深層心理で怯えるのだ。

でも、見てよかったなと思う。わたしも、この映画を作ったユンさんのように、現実を受け止めて、受け入れて、手放すものは手放して、むしろ、今度は、自分から発信してゆけるよう、できればそうなってゆけるようにと欲しているのだから。同じような話をできる仲間は世界に何十万、いや、何百万といるのだということを心に刻んだ。それも、内戦や紛争、また飢饉の起きている地域では、あたたかい家も食べ物さえないだろう。どういうことだろうか、それは。
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by kokoro-usasan | 2013-01-06 06:42 | 映画 | Comments(0)


閉じられていないもの


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