カテゴリ:日々( 446 )

不在に寄す

e0182926_11503520.jpg同僚が貸してくれたワイエスの画集を今日返そうと思い、凍てついた朝の部屋でもう一度眺め直していた。カーテン越しに窓からの光が差し込み、画集に影を落としている。それも含めて、ワイエスの光だな、と思い写真に収めた。

この絵のタイトルは「アルヴァロとクリスティーナ」(1968 水彩)という。ワイエスの作品は、冬を感じさせるものが多く、この作品もそんな感じがするのだが、実は夏の作品らしい。すでに彼は1952年にも、この印象的な青い扉を題材に、タイトルもそのまま「青い扉」という作品を描いており、右側の高い窓から入る光線と室内の様子が、彼にとって、とても印象深いものだったことがうかがえる。

この場所は、クリスティーナとアルヴァロのオルソン姉弟が住む家であり、ワイエスはクリスティーナをモデルとしてよく作品を描いていた。しかし左の作品を描いた1968年、この姉弟はすでに他界しており、つまり、彼は、住人のいない家で、これを描き、姉弟の名をタイトルにしたことになる。後年、彼は語る。「彼らは死んでしまったが、それでもなお、力強くそこにいたのである」

まさしく。
不在とは、そういうものであるに違いない。不在をあなどることはできない。不在の豊かさが胸にしみる。





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by kokoro-usasan | 2017-12-09 12:15 | 日々

瞳のなかの水

e0182926_11505686.jpgこのネコちゃんの写真、以前どこかで見てなんとも言えない表情が印象的だったので保存しておいたのです。出典がわからなくてすみません。

最近、自分のスナップ写真が提出用に一枚必要になったのですが、あらためて撮るのも気がすすまず、古いのを探していました。古いといっても、もちろん、ここ数年のものですけれど。アルバムにはるでもなく、無造作に箱や封筒に入っているそれらを一枚一枚眺めていると、だんだん、自分が誰だかわからなくなってきて、当惑します。50年も生きていると、自分の脳内で一定の姿形を形成している「自分」がおり、それと、写真のなかの自分が、どうも重なってこないような、誰か別人のような感覚がしてくることがあるのです。いや、精神的におかしくなっているわけではないと思うのですが・・・。

言うなれば、何歳くらいのときの自分が、「自分」の一定の姿形として規定されているかということなのかもしれませんね。たとえば、わたしの母が、最近撮ってもらった自分の写真を見て、「あらぁ、だれ?このおばあさん・・・?」とまじめに訊いてくるのは、けしてウケねらいではないのです。

今年になって、母が入退院を繰り返すうちに、精神状態にも異常をきたしてしまい、仕事を続けながらでは介護が限界にきたとき、それでも、なんとか一緒に暮らしてゆく方策はないものかと悩むわたしに、ケアマネさんが、意外なほど、冷淡な態度を取りました。わたしはそれを内心恨んで、一時期、お互いの信頼が揺らいだことがありました。口には出しませんでしたが、不満を感じている感じは、ケアマネさんにも伝わっていたでしょう。けれど、ケアマネさんもまた、毅然としていたのです。たまりかねて、わたしは以前お世話になったことのある別のケアマネさんにも相談してみました。すると、そのケアマネさんは、とてもとても優しい親身な態度でわたしに接してくれました。ですが、結論は、「限界」ということで一緒でした。

今、母とわたしの関係は、当時と変わり、ショートステイを利用することで、365日のつきっきりの介護からは解放されました。毎晩、何度も起こされて母をトイレまで連れていっては寝かしつけるというようなこともなくなりました。そのときは、それを、なにも考えずに、やりこなしていたのです。まだ、できる。まだ、やれる、と思っていました。

でも、今回、自分の写真を見ながら、ケアマネさんがわたしを突き放した意味がわかるような気がしました。どの写真も、どの写真も、わたしの目は泣いているのです。同僚たちと仲良く笑っているときでさえ、わたしはなんだか泣きそうな顔をしていました。これが、わたしのこの10年だったのだと思います。そのことを無念に思うわけではありません。この10年、わたしが心の中で考え、悩み、乗り越えてきたものは、非常に大切なことばかりで、どんなやつれた顔になったとしても、わたしは心から感謝しています。

ただ、傍目には「限界」に見えていたのでしょう。医療ではありませんが、ある種の「ドクターストップ」を周囲のかたがかけてくれたのだと思います。母があんなに手のつけられない状態になったことも、もしかしたら、母自身が、「もうわたしにかまうな」と、わたしを諦めさせるためだったのではないかと考えてしまうことさえあります。今はショートステイ先で、わたしを嬉しそうに優しく迎えてくれます。

少し介護の手間が楽になったとはいえ、そのやつれた感じは、今も変わりありません。目の暗さも、なんだか染み付いてしまうのですね。でも、もともと、そんなにきらきらした人間ではないので、高望みはせず、この暗い目に、なにか、もう少し、優しい光がいつも灯っているようになったらいいなと思います。

この日々のなかで、気づいたことをひとつ、わたしは書いておこうと思います。自分の寿命だって、わからないわけですから、出し惜しみしないでね。

幸せって、なんだろうか、と考えていたのです。
で、今はこんなふうに思っています。

幸せは「なる」ものではない。「気づく」ものだ、って。






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by kokoro-usasan | 2017-11-20 12:36 | 日々

ご無沙汰です。

e0182926_0345714.jpg


































ご無沙汰しています。実のところ、どうしてそこまで付け焼刃で中身の伴わない美辞ばかりで政治が行われているのか、まったく納得できません。「革命」「革命」と、一体いくつ「革命」と名のつく部署を作れば気がすむのでしょうか。「革命担当」とはこれいかに。政治や歴史や哲学を少しでも真面目に学んだことのあるひとなら、あまりにも恥ずかしくて口にできないような言葉の誤用、乱用は、目に余るものがあります。コマーシャル業界なら、その誤用、乱用、換骨奪胎の妙味で仕事をするということもあるでしょうけれど、政治がこれでは、だんだん、その言葉の意味をどう解釈しているかで、相手と全然、話が通じなくなってしまいます。今でさえ、例えば、「極左」だの「極右」だのと言ってなにかを罵っている発言などを見ると、ネットに書き込みして暇な時間をつぶしている「極左」や「極右」が日本にはずいぶんたくさんいるんだなぁと不思議な気持ちになります。

と、久しぶりなのにいきなり愚痴から始まって恐縮です。わたしは、社会の出来事に当惑しながらも、穏やかに暮らしています。でも、この穏やかさが、つかの間の幸運であり、奇跡であることを最近はよく噛みしめています。いい本、いい音楽、いい景色、なにかずしりとくるものを味わいたい。


生き行くは楽しと歌ひ去りながら幕下りたれば湧く涙かも   近藤芳美

短歌を始めたという友人に、こんな歌を見ましたと上の歌を添えてメールしたら、お返しに自作の歌を送ってくれました。

去りながら楽しと歌う口の端に浮きし孤独を我は忘れじ


もう長く会っていない友です。





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by kokoro-usasan | 2017-11-18 01:27 | 日々

日記帳

e0182926_0541279.png今年もあと2ヶ月というところに来てしまった。一応日記帳を毎年更新しているのだけれど、年によって、ぎっしり書き込まれている年と、失踪でもしていたのかと自分で困惑するくらい書き込みのない年がある。白紙が多い年は、それなりに理由があるのだろうが、書き込まれていないので、何年かすると、その理由も忘れてしまう。

今年も結構空欄が多い。いや、空欄だらけだ。現実に起こっていることの悩みが深すぎると、日記でその事実に向き合う気力もなくなるのだろうか。悩んでいることを切々と書けるときは、まだ、その悩んでいる自分を、たとえ自虐的にであってさえ、美化する余裕があるのかもしれない。今年はもう自虐的になっている余裕すらなく、家族を守り支えることに費やされた。その困難は今も続いているけれど、家族というものを考える上で、自分がまだ未熟であることにも直面したし、今後ますます、そこに気づかされることも多いに違いないと思う。だが、気づかないでいるよりも、それは、どんなにありがたいことかとも思えるのだ。

家族の寿命もそうだが、自分自身の寿命もそうはるか遠い未来ではない年齢になり、今年もつい先日、来年の日記帳を(いつも同じもの)買ったのだけれど、そのとき、ふっと、心細い気持ちを抱くようになったことは、若い頃にはなかった感覚かもしれない。


なんだか、森と水のあるところに
行ってみたいなぁ。

そうだ、来年は森に行こうかな。
鬼が飛び上がって笑うほど、気の早い話をしてしまった。





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by kokoro-usasan | 2017-10-26 01:45 | 日々

古本市

e0182926_1938286.jpgパリを歩き回った日から、もう15年も経つのだから、人生は本当にあっという間の出来事なのかもしれない。


勤め先で毎年秋に開かれるお祭りが終わった。昨年、古本市を同時開催したところ、大変好評だったので(なにしろ、代金は「お気持ちで」という古本市なので、子供たちも、10円で選び放題なのだ)、今年はさらにコーナーを増やして、お客様を呼び込んだ。台風まじりのあいにくのお天気にも関わらず、たくさんのかたにお越しいただき、ほんわかとしつつ撤収作業を終えた。

かねてから、職場で一箱古本市をやってみたいと思っていたのだが、思うばかりで着手できずにいたら、施設内の図書室の係りのかたたちが、廃棄処分の本が勿体無いということで、昨年から急に古本市が始まった。わたしが思い描いていた古本市とはちょっと違うけれど、値付けもなにもなく、ものすごくアバウトにやっているのが、それはそれで、なんとなくいじらしいというか、素人くさくてどこか懐かしい気持ちになった。ペットボトルに少し着色しただけの「貯金箱」が各所に置かれていて、お客さんはそこに自分の「お気持ち」を投入している。言ってはなんだけど、みなさん、「お気持ち」がかなり、ささやか、だ。(苦笑)無着成恭の本に、500円を投入したわたしは、係りの人たちに、神様のように崇め奉られた。いやいや。

実は、職場の同僚が、この古本市に何冊か自分の本を提供していて、自分が提供した本の売れ行きが気になるらしく、お祭り会場の別の場所で、それとなく、「いま、古本市で、すごい掘り出し物があったよー」と自分の本を宣伝して、まんまと売り切ったらしい。わたしも提供したく思っていたのに、他の仕事にかまけているうちに、出しそびれてしまった。そうか、自分が出した本が売れたかどうか、そわそわと、なんども確認しにいったりして、その時間は、なかなか楽しいのかもしれないな。売れ残ったら寂しいけど。

お祭りの最終日、古本市はどうなったかなと見にいった。大分、減っていた。ご近所に住む高齢のかたたちが、幾分、身辺整理のように供出してくださった本が多く、眺めていると、ちょっとしんみりする。ふと目をやった段ボール箱の文庫本のなかに、新潮社の「現代名詩選(中)」があるのを知って胸が高鳴った。わたしは、その文庫本で「詩」に出会ったのだ。中学生のとき、駅前にあった個人経営の小さな書店で見つけた。

室生犀星、萩原朔太郎、日夏耿之介、佐藤春夫、堀口大學、西條八十、佐藤惣之助、村山槐多、中川一政、高橋元吉、宮沢賢治、尾崎喜八、金子光晴、吉田一穂、八木重吉、高橋新吉、萩原恭次郎、壺井繁治、岡本潤、小野十三郎、中野重治、小熊秀雄、草野心平、山之口貘、尾形亀之助

再会が懐かしくて、ラインナップを全部書き出してしまったけれど、これらの詩人の詩を、何度も何度も読み返したものだ。(残念ながら、わたしは暗誦というのができなくて、さっと、口をついて出てこないのが、いつも悲しいのだけれど。友人で、すらすらと出てくる輩がいて、すごーく悔しい。)

どなたかわからないけれど、この本を供出してくださった方に感謝。自分のものが行方不明になってしまっていたので、今度は大切にしようと思う。ページをめくると、当時の感受性が戻ってくるようで、(戻ってはこないけど・・・)、どきどきする。嬉しい。




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by kokoro-usasan | 2017-10-24 20:47 | 日々

物語の構築


過去(たとえば戦争)の記憶を、甲乙に分かれて言い募るようなとき、彼らが目くじらたててこだわるのは厳密には記憶ではなく「(戦争)物語」についてで、自分が知っている「(戦争)物語」と違うストーリーが「本当だ」と言われるとヘソを曲げてしまうように見える。英雄か国賊か、物語は変幻自在だ。

だが、どの記憶も確かに人間の記憶であることから目を背けず、ありえたかもしれない別の物語、別の選択肢を、将棋の棋士の見通しのように何手先までも諦めずに模索し、その先に、なんらかの和解の物語を創作する力を持ったひとたちが、今は必要なのではないかと思う。

たとえ、それが創作であったとしても、その創作で、50年、100年、市民の命を延命できる策を講じることが、本来の為政であるようにも思う。その意味で、日本国憲法は、起草の経緯によらず、よくこの国を守ってくれた。政治家は凡庸だったが、憲法が優れていたことで、よくこの国は守られたのだ。

現在の首相が「悲願」にしなければならないほど、わたしは、この憲法に苦しめられてきただろうか。この憲法にずっと苦しんできたのは、おそらく日本ではなく、どこか他の国だろう。改憲そのものはあり得ない話とは思わないが、悲願の物語には、50年先どころか、3年先の命も見えてこない。



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by kokoro-usasan | 2017-10-10 15:22 | 日々

憂慮

某市では、一部警察署が、市民の施設利用状況リストを、定期的にチェックし始めているといいます。名目は、2020年の東京オリンピックのテロ対策だそうです。政治的な活動や、不審なサークルの割り出しや分析に使用されると思われますが、過去の歴史に鑑みても、この動きが過剰にエスカレートしないとも限りません。

今後、特別秘密保護法や、共謀罪関連で、秘密裏に冤罪が発生しないことを願います。
また、このような動きを深く憂慮します。

立法とその施行を拙速に行うということは、
こういう事態を招くことを、知性ある人は懸念するべきです。

為政者が極悪人だから、こうなるというわけではないと思います。
為政者の知性が不足しているか、著しく偏っているために、市井に与える「影響」や「余波」を読みきれないのです。また、官僚組織の把握に抜け穴を作らせてしまうのです。

立法府のタガがはずれるということは、「今」はいいかもしれませんが、必ず、数年ののちに、その代償を払わねばならなくなります。

首相は、改憲がしたくて、あらゆる法律のタガをはずしにかかりました。正面から立法にのっとって改憲を問う手間を惜しみ、周辺の法律を緩めてゆくことで、最終目的を遂げようとしているようです。しかし、緩められた法たちが、今後放恣に暴れ出すリスクに責任を負うことはきっとないでしょう。





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by kokoro-usasan | 2017-10-08 11:54 | 日々

念仏

職場には様々な政党のかたが見えるし、その支援者になっているかたがたも、もちろんたくさん見える。とはいえ、政治の場ではないので、選挙期間中であっても、皆さん、素知らぬ顔をしておられる。時々、大きな催しがあって、各党の議員も挨拶に見えるのだが、若干、所属する政党の浮き沈みで、彼らの顔色や挙動に変化が見られるようにも思う。戦乱の時代をしたたかに生き抜いた京都の庶民のように、(この喩えでいいのかな?) わたしたち職場の人間は、どなたであれ、まったくニュートラルに対応する。

議員の一声で、ずっと放置されていた施設の破損箇所に突然予算が降りて修繕できることになれば、有り難くお願いするし、その設備が滞りなく使用できるようになって利用者のかたに感謝されれば、その通り、笑顔で感謝をお伝えする。そのかたが、わたしの思いと逆に、原発に賛成されているかただからといって、修繕の機会を拒絶するわけでもない。各党には得意分野というのがあり、それを活用できるかどうかは、有権者の力量でもあるのだろう。そういう意味では、有権者は、各党の得意分野をよく研究しながら、自分の暮らしに活かせるように、地味に目を光らせているのがいいと思う。

たとえば、与党の政策で、利益を上げて感謝している家族がいたとして、その誰かが難病にかかったときに、福祉の面で救済の手を差し伸べる道筋を作ってくれているのは、野党の成果だったりする。あまり、細かい政策討論には関心のない有権者には、国会で大きな論争になっている部分だけが政治であるかのように思っているかたも結構いるように見えるが、爪に火を灯すような(この喩えも変だな)予算をめぐって、地味に勉強を重ねている議員たちの仕事というものもある。その努力も不足しているのに、議員報酬だけはもらうというような仕事ぶりでは、コンビニのパートのおばさんのほうがよほど勉強し努力している場合もあるわけで、そんな不勉強な人間を議員にするために、血税をつかって選挙をされたのではたまったものではないというのが、わたしの嘆息だ。

衆議院解散総選挙に向けて、様々アクロバティックな秘策を練っているらしい面々が、メディアに毎日登場しているが、その独善的な展開に苛立ったり呆れたりしつつも、段々、哀れな気にもなってきてしまうのは、庶民のことなんか、なんにも勉強していないんだろうな、というのが顔に書いてあるからなのだ。権力と、特定の支持者と、邪魔者の駆逐くらいしか、今、念頭にないのではないだろうか。政治家に限らず、役職が上がってゆくと、現場からどんどん離れてゆき、それが場合によっては命取りな打撃を自分の組織に与えてしまうこともある。はなから、政治家の家に生まれ育った人間などは、もともと、しもじもの生き物のことなど、あまり理解ができていないと思われる。

以前、運動不足解消のために通っていたプールのサウナで、随分な有力者をご主人に持つと思われるマダムが、妙齢の娘さんと、静かに話していた話題を、ここで皆さんに開示してみたいものだが、まぁ、プライバシーというものがあるだろうから割愛する。近所の主婦たちには、それらの会話の意味するところが、まったくちんぷんかんぷんだったかもしれないが、もし政局に興味がある人間だったなら、彼女たちが、なにを算段していたか、うっすらとはわかっただろうと思う。

なんだか、知ったかぶって、言わずもがなのことを書いてしまった。長いだけで意味がないから、そろそろやめよう。

その前に、先日、鈴木常吉さんのツイッターで目にしたこの言葉をここに紹介しようと思う。例によって常吉さんらしいひねくれかただが、立ち止まって少し考えさせられたのだ。

      私には、そんな強い精神力が無いのでとてもできませんが、
       「love&peace」をただひたすら 念仏のように唱えていれば
       平和は維持でき幸せはやってくるという考えは間違っていないし
       正しいと思います。


これは、「持たざる者」が選択すべき「念仏」なのではないかとわたしは思った。「お花畑」と呼ばれても、「持たざる者」「弱き立ち場の者」が、心して手放さないようにすべき「念仏」なのではないかと。なぜなら、大きな権力を持つ者は、自分が願ったことを実現させてしまう可能性が強い。しかし、彼が「祈った」love&peaceは、その力が大きいだけに、もし誤った方向の独善的love&peaceだった場合に、傷つけてしまうものの代償も計り知れない。だから、大きな権力を持つものこそ、「お花畑」を語ることに、細心の注意を払わねばならないし、慎重でなければならない。だが、「持たざる者」まで、自粛して、ささやかな自分のお花畑を語らぬようになったなら、この地に理想は廃れる。多種多様な小さなお花畑が許容される世界を持ちこたえるためには、やはり持たざる者が、延々とlove&peaceという念仏を唱え続けることしかないのではないかという思いがした。というより、むしろ、それが、持たざる者に許された特権なのではないか。

だから、ぶつぶつぶつぶつ、かなえられもしなさそうな理想を、延々語っているのは、次の時代へつなげてゆくための、わたしのような小さな人間たちの立派な役目なのかもしれない。


わたしは、知性というものが、多様性を受け入れ、諦めずに、よりよい選択肢を導き出すために使われることを望む。




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by kokoro-usasan | 2017-10-02 22:28 | 日々

水袋

数年前、ある政治家と他愛ない話をしながら、スーツがなんとなくヨレっとしているのを見て、しんみりした気持ちになったのは、首相のもとで今をときめく権力を持った人物も、所詮は水のつまった皮袋であり、あやういものなのだなと感じたからだ。同情ではなく、どのような政局も、「水袋」の集まりのなかから発生しているものなのであり、であるとすれば、権力の実相のようなものに聡く覚めながら、「権力」の「権」は、有権者の「権」でもあるのだということを、有権者自身が、もっと「痛み」や「惧れ」として感じるほうがいいと思ったのだ。そこはまだ、わたしの頭ではうまく説明できない部分なのだけれど。

このところ、身近なひとの終末期への向き合い方と、権力への向き合い方が、どこかで奇妙に繋がってきたような気がしている。剣のような権力は、人類には要らないと感じる。わたしたちは水袋なのだから。僅かな過ちからでも、突かれれば、一瞬で実態を失うのだ。







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by kokoro-usasan | 2017-10-01 12:30 | 日々

雑感

母が汚れた紙パンツとパジャマとシーツを置き土産にまたショートステイに戻っていった。幸い、天気もよく、すぐに洗って干した。今は洗剤の優しい香りを漂わせながら、きれいにたたまれて、母の寝室に置かれている。

当初、母がどうしてこんなことになってしまったのかと思いつめていたときは、「どうしてこんなことになってしまったのか」が最大の命題だったが、今は、どうしたら、部屋の汚れを魔法のようにすばやく片付けて、「お母さん、天気がいいから散歩に行こうか」と車椅子を押して新鮮な空気を吸いにゆけるかを考えるようになった。紙パンツを脱がせたり、履かせたり、消毒液で床をふいたりしているわたしを、母はただじっと見つめている。「よいしょ」と言ってパンツを引き上げようとすると、一緒に「よいしょ」と言う。掛け声だけで調子がいいなと思うけれど、こちらが「よいしょ」と言うたびに、あちらも「よいしょ」というので、なんだか可笑しい。

母は認知症なのだけれど、もともと脳梗塞による失語症があるので、なにかを喋っていても、ほとんど、意味不明で、わずかに単語として成立している部分をたよりに言いたいことを類推する。よくわからないから、結局、あぁ、そう、とか言って笑ってごまかすのだが、本人も、自分でなにを言ってるのかわからないという感覚があるらしく、わたしが笑うと、かえって一段落してホッとしたように、笑い返す。

とにもかくにも、こんな状態が戻ってきてよかった。春先に肺炎になりかけて入院してから、いわゆる廃用性症候群という、入院そのものによる状況の悪化が起こってしまい、人が変わったように凶暴になった。一日中、獣のように唸り、肺炎は治ったのに、あちこち、体の状態も悪くなった。相談すると、精神病院に入れるしかないのでは、と答える方もおられた。そういう返事だと、こちらも暗澹として、気持ちを硬直せざるを得ず、諦めの悪いわたしは、早く決断しろという周囲の目を見ないようにしながら、時間稼ぎをしたわけなのだけど、時間稼ぎののちに、つかの間でも、このような時間が持てるまでに回復したことを幸せに思う。高齢者だから、回復したと喜んでいても、次の瞬間はわからない。そこは覚悟しつつも、今はただほっとしている。でも、そこを乗り越えたのは、実は、わたしではなく、母自身なのだと思う。母の魂のなかの何かが、引きずり込まれそうな闇の世界から、いまはまだいや、と懸命に戻ってきたのに違いない。

この数年、仕事を抱えながら、自宅では母の介護もあり、夜間おちおち眠れない日々が「普通」になっていたのだけれど、母を間歇的にショートステイに預けるようになり、ぽっかりと空いた時間ができたことに、かえってとまどっている。知人が同じような境遇で、「このところ、パソコンでゲームばかりしている」とメールをくれたとき、「どうして、そんな無為な・・・」と苦笑したけれど、実際、介護していたひとが急に不在になると、その時間を自由に使う癖もなく、また自由に使うことに妙な後ろめたさもあり、中途半端なパソコンゲームになってしまう、というのが、なんだか理解できた。わたしも、だいぶ、ソリティアに時間を注ぎこんでしまっている。そろそろ、自分の時間を、自分のために使う力を膨らませよう。


ところで、北朝鮮問題が逼迫しているということで、図書館からオーバードーファーの「二つのコリア」を借りて、半島の歴史を学ぶところから始めていたのだけれど、官邸としては、北朝鮮のミサイルで国が存亡の危機にあるとし、最大級の言葉で非難するほどの状態なのに、突然、衆議院解散と、選挙で、10月のひとつき、立法府は「政治の空白」状態になるらしい。政治家たちはそのつどひとりにつき多額の供託金を用意して立候補しなければならず、選挙にかかる費用も600億とか800億と言われている(実際にはもっとだろう)。都民ファーストで都民を第一に優先して職務に邁進するはずの都知事も、10月は新党の党首として、衆議院選挙に邁進するらしい。


「国難」も「危機」も、被るのはなく、どうも積極的に「立ち上げる」もののようだ。よく、考えて票を投じたい。


追記
この記事をアップしたあと、ショートステイ先の施設から、母の血圧があがって、少し震えも見えるので、できれば病院を受診してほしいと連絡が入る。今日は仕事を休めないので、あとでまたと電話を切る。
そう、やはり、ほっとできる時間というのは、当たり前には存在しない。さぁ、しっかり。



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by kokoro-usasan | 2017-09-30 11:34 | 日々


閉じられていないもの


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