カテゴリ:日々( 426 )

ページのあいだに。

e0182926_1112596.jpg時間に質量があるのなら、今、わたしが生きている時間の質量はどのくらいで、どのくらいの質感を持っているのだろうか。


ふと目に止まった何気ない草や、野の花を、そっと本のページに挟んで、今日という日の美しさを疑わずにいた時代がわたしにもあったように思う。その指は白く、爪は滑らかに光っていた。ホラーめくが、その指を、「押し指」にすることもなく、その爪を剥がして標本にすることもなく、わたしたちは、昨日の自分を置いてゆく。次の時間に生を委ねるために。

昔読んだ本のページのあいだから、押し花が出てくることが度々ある。ありていにいえば、それはたいてい「聖書」であるわけなのだけれど、クリスチャンでもないわたしが、数冊の聖書を持ち、そのそれぞれに、押し花が挟まっているのは、なんだか、興味深い。


願わくば、自分の人知れぬ悲しみや苦しみよりも、人知れぬ喜びや幸せを、僅かでも多くありがたく思える人間になりたいと思う。





写真はエミリ・ディキンソンが作った押し花ノートより




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by kokoro-usasan | 2017-06-25 14:26 | 日々

ゆめみること

今朝、洗濯物を干しながら、ベランダから富士山を見ると、裾野が青くなってきていた。
数ヶ月前に、富士山の頂が白くなったと書いた記憶があるけれど、それが冬の始まりとすれば、今日のこの裾野が青くなってきた富士山は、夏の始まりを教えてくれるものだ。雪がどんどん消えていっている。

母の退院後の見守りをしなければならないために、ひとつきの介護休職を認めてもらった身だったが、入院していたときの導尿の影響もあったのか腎臓に問題がおきて、一昨日再入院になってしまった。認知症患者の入院はとても厄介なもので、本人が自分の状況を理解できないことによる身体の危険に晒される。病気を治すために入院しているのに、返って、多くの問題を呼び起こしてしまう場合が多い。

退院後も家族の協力が必須といっても、家族がわたし一人しかいないとなると、病院側もとても不安そうにわたしを見つめる。その雰囲気や視線に神経が萎えてしまうことがある。おそらく、長いあいだの葛藤で、過敏になってもいるのだろうが、在宅介護希望などと言わず、「はやく、施設に入れてしまえばいいのに」という周囲の視線が胸に痛い。

かつてわたしは「優等生」で、なんでも自分でできてしまう子と言われ、自分でもそれなりの矜持があったのに、今では認知症の親を抱えて物分かりの悪い「劣等生」になってしまったかのようだ。劣等生とは、こういう視線に晒されるものなのだなと知った。段々自分に自信がなくなってくる。もちろん、それは、ひとつの出来事として、わたしが感じたもののひとつに過ぎず、一方で、助けてくださるかたたちのたくさんの思いやりに十分感謝し、そのことを、これまで傲慢であった自分の反省に生かしていかねばと思う気持ちのほうが圧倒的に強いのだけれど。そもそも、わたしの自尊心などというものは、その程度のものだったのだということをよく噛みしめることだ。母は、みずからの認知症を賭けて、わたしにそれを教えてくれているのかもしれない。

とはいえ、以前とてもお世話になり、今は定年退職されたケアマネさんから昨日お手紙が届いたのだけれど、そこには、お母さんのことも大事だけれど、あなたに、自分の5年後、10年後を想像して、「夢見る」ことをしてほしいのだ、と書かれていた。そのかたが、なにをおっしゃりたいのか、もちろんわかる。結論を急げないわたしの性分を、十分承知の上で、そのかたは控えめに、でもやはり、そう書いてくださった。たくさんのかたの言葉の編み物の上に座って、わたしは午睡する。疲れにまどろみながら、でも、絶望からは遠く、生きていることを喜べる自分の命にも感謝しながら、あれこれと思いを巡らす。






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by kokoro-usasan | 2017-06-03 12:39 | 日々

たべること

e0182926_1451449.jpgエアコンを買い換えたら、そうめんとカルピス(2本入り)がついてきた。2本のカルピスのうち、1本は北海道生乳使用のスペシャルヴァージョンなのだそうな。思いがけないオマケにとまどったけれど、これからの季節、確かにそうめんとカルピスは時宜を得ている。

それにしても、このごろ、朝から肉が食べたいときがある。自分でも、「ちょっと、待って。肉ってあなた、今、朝よ。」と笑ってしまうのだけれど、「ハンバーグ食べさせてください」と脳がささやく。「だめ」

「ハンバーグ食べさせて」

どうしたの?わたし。休職中で家に閉じこもっているのだから、そんなにカロリーもいらないように思うのだけれど。自分で自分がおかしい。このあいだは、小さめのハンバーグだけど、いっきに4個も食べた。

「ハンバーグありがとうございます」
脳がお礼を言う。「いいえ、どういたしまして」

でも、記憶を紐解くと、わたしは中学校までは、朝、学校に行く前に、平気でハンバーグを平らげて出かけるような子供だった。今朝なにを食べてきましたか、なんてホームルームの時間に聞かれて、「ハンバーグ」と答えると、担任の先生が、固まる。本当は、「朝ごはん抜きはいけませんよ」と注意したかったのに、いきなり「ハンバーグ」と答える子がいて、ちょっとやりにくかっただろう。

当時の写真を見ると、わたしよりも、母が明らかに肥満なので(肥満気味ではない。肥満)、きっと、母の食欲中枢もおかしくなっていて、その影響を子が受けていたのかもしれない。今、母はずいぶんと痩せて、よろよろした認知症のおばあさんになってしまったけれど、なんだか、「家庭」の歴史には、「食欲や食事の変遷」もあるのだなと思う。父が亡くなる前の、夫婦の食卓などは、本当に一汁一菜というか、量も種類もささやかな食事になっていた。

母とわたしの現在の暮らしも、実に粗末な食卓の風景だけれど、先日、母にもハンバーグを出したら、意外にあっさり平らげてしまったので驚いた。

「ハンバーグ、食べたい」
わたしの脳みそのなかの誰が、朝からそんなこと言ったのかわからないけど、「あら、ご無沙汰ね」って言ってやりたいような不思議な感覚がある。


たあいない話だなぁ。



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by kokoro-usasan | 2017-05-28 15:48 | 日々

花の朝(あした)

本日、大道寺将司氏が多臓器不全で亡くなったことを辺見庸さんのブログで知りました。ご母堂が亡くなったのも5月だったので、同じ季節に逝かれたのですね。もう、お母さんに会われたでしょうか。

以前、一度、わたしのブログでも、こんなことを書かせていただいたことがありました。
「青嵐」

死刑に対するわたし自身のスタンスについては、このブログでも折に触れ書いてきているかと思うので、今日はここでは触れません。ただ、大道寺さんが、現在のあまりにも任に適さない法務大臣のもとでの刑執行を受けることなく亡くなったことは救いだったように思います。


命とはどのように生かされてあるものなのでしょうか。多くを語る資格も覚悟もありませんが、善悪の前に、そのことを思わずにはいられません。








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by kokoro-usasan | 2017-05-24 15:58 | 日々

お母さんは知っている

e0182926_1049279.jpg今日は母の日ということで、きのうは、中年の男性が花屋の店先でカーネーションを買い求めているのを何度か見かけました。自分のお母さんに贈るのか、パートナーに贈るのかわからないけれど、そこそこの年齢の男性が花を持って歩いている姿って、なんだか気になって、それとなくちらちらと見つめてしまいました。

わたしはといえば、母が認知症になって、母というより、自分の子供みたいになってしまってから、母の日というイベントに、あまり興味を感じなくなってしまいました。そのかわり、母がかつて丹精していた庭に言い訳程度にチューリップを植えてみたりしながら、それが咲いたとき、「これはお母さんへのプレゼント」と心の中で思うくらいです。

ところで、冒頭の写真、楽しい洗濯タグでしょう? (以前、どこかで見かけて保存していた写真です。無断転載ご容赦。どこで見かけたのか忘れてしまいました)

お母さんって、幼い子供にとっては、魔法使いみたいになんでも知ってて、なんでもできる存在なんですよね。この写真を見たとき、そんなことを思い出して、懐かしい気持ちになりました。世の中には、お母さんに育ててもらえなかった子供もたくさんいると思うのですが、そんな子供たちにも、だれか「魔法使いみたいな」人がそばにいてくれて、その魔法使いが教えてくれたことが、その後の人生を支えてくれているといいなと思います。そのときは気づかなくても、わずかながらでも、そういうひとが、必ず存在しています。そうでなかったら、わたしたちは、生き延びてはいけないのです。

この写真のようなタグは、いつか自分の服から外さなくてはいけないときがくる。そして、だれか、幼い子供が、このタグをつけた服を持って、わたしたちのところにやってくることに備えなければならないときがくる。その子をそっと抱きしめて、「お母さんの魔法」を教えてあげられるひとになれたらいいのですけれど、それは、なかなか難しいものです。世界中の、お母さん、ごくろうさま、そして、ありがとう。






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by kokoro-usasan | 2017-05-14 11:22 | 日々

てんとうむし

「辺鄙な場所」に住む友人から、2キロ先のコンビニまで自転車で出かけたら、途中で雷雨になって、びしょ濡れで帰ってきたが、とても気持ち良く、懐かしい気持ちがした、とメールが来た。両側になにもないような田舎の一本道、地平線近くに突き刺さる稲妻を見ながら、新緑の雨に濡れて自転車を走らせる快感を思った。

朝、ゴミ出しがてら、朝刊を取りにゆき、街路樹の根元に咲くナガミヒナゲシの花を眺めていたら、その横の枯れた紫陽花の木の幹にてんとう虫がとまっているのを見つけた。てんとう虫を見るのはひさしぶりな気がする。つやつやとした赤い背中(背中というのかね)に、黒い点をつけている。ちょっと指で触れると、すたこらさっさと幹の陰に隠れて、それからまた、陽の当たる枝先に出て、ひなたぼっこしている。(ひなたぼっこというのかね)てんとう虫は、幸運の印って読んだことがあるような、ないような。でも、きっと、幸運の印だよ、そう思うことにする。


(続く。たぶん)





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by kokoro-usasan | 2017-05-01 09:02 | 日々

柿の若葉

柿の若葉がとてもきれい。そういう季節。鳥の囀りも活気を帯びて。

隣家の屋根の上から、鴉が我が家の庭の木を盛んに窺っているのを見て、すわ、メジロだとか、山鳩の巣の卵を狙っているのかなと思い、木の根元まで様子を見に行った。巣は見当たらず、かわりに、枝先に丸まったスーパーのポリ袋が引っかかっていた。強風で飛ばされてきたのだろう。鴉はこれが気になっていたのかもしれない。欲しいのなら、鴉にあげてもよかったのだけど、もう姿も見えず、言葉も通じそうにないので、棒で引き寄せて、ゴミ箱に捨てた。

美しい柿の若葉を毎日目にすることができるのは、我が家ではなく、それが隣の庭に生えている木だからだ。隣家の庭はいつもよく手入れされており、枝ぶりも整っている。きっと、隣家のかたは、我が家の荒れ放題の庭を見ながら、ときにはため息をついていることだろう。借景がよくない、と。ベランダで洗濯物を干しながら、時々、奥さんと顔を合わせるが、とりあえず、わたしは、元気に挨拶する。そのくらいしか、心証をよくする術がない。挨拶だけはいい、と呆れられているかもしれない。とほ。

介護休業をしようと思っている。自宅介護を継続するためには、そのくらい思い切った措置を必要とするように思う。あくまでも、介護休業で、介護離職にはならないようにはしたい。やるだけやらないと、わたしは気がすまないのだろう。特に、親子関係においては。






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by kokoro-usasan | 2017-04-30 15:06 | 日々

追試だらけで。

母がまだ認知症ではなかった頃、シルバー人材派遣でお願いした庭師さんが、我が家の石楠花の木を見て、もうこれは寿命だな、と言ったらしく、たしかに、枯れ木のように見えていたのだけれど、母の認知症がひどくなり、好きだった庭仕事もしなくなり、庭の手入れを職人さんに頼まなくなってから、庭はあたかもジャングル状態、石楠花も、もはやこれまでという感じのなか、今年も、なぜか、ちゃんと、花を咲かせて、がんばっているのだ。ずぼらなわたしは、ほとんど、庭の手入れなどしていない。たしかに、手は抜いているが、声かけはしている。石楠花さん、あなたは寿命だと言われているそうなんですが、わたしは、まだまだ大丈夫だと思うんですよ、とか。

去年は、右側の枝先に偏って花が咲いたので、左側の枝をさすりながら、こっちのほうも、咲いてみましょうよ、こっちの枝もまだまだイケますよ、なんて囁いてみた。まぁ、真顔で言うわけではないけれど、今年は、左側にも蕾がつき始めているのだ。

母はまだ入院中。わたしが休職しないことには、在宅介護は無理ではないかという話になっている。こういうときの家族の思いというのは、なかなか複雑なものなのだろう。と、まるで他人事のように書いているけれど、いや、わたし自身、現在、かなり複雑なもの思いのなかにいる。母のケアマネさんとの間にも、うまく伝えられない思いの行き違いがあって、微妙に心理的距離ができてしまった。

「なんでも相談してください」と、「なんでも叶えます」は違うのだ。相談しても、はかばかしい答えがまるで返ってこないと、相談してくださいと言ってくれたのに・・・、と失望したりするが、それは、答えを保証しているものではないのだから、逆恨みというものだろう。

ひとりで悶々として、だんだん、内に引きこもってゆく。そうこうしている間に、母はわたしの名前を忘れ始めた。病院にゆくと、「おかあさん」と呼ばれるようになった。「おかあさん、一緒にうちに帰るでしょ」と聞く。「うん、もうすぐね」この繰り返し。子供に戻った母は、「おかあさん」が、いつも口から出まかせばかりいうことを感じ始めたのか、機嫌が悪い。笑ってほしいなぁと思う。思うけれど、胸を打つような笑顔で見つめられたら、それはそれで、ものすごく苦しいことになるのかもしれない。

このあたりで一度、態勢を立て直そうと、自分を奮い立たす。次から次へと目の前に立ち現れる人生の問いは、おそらく、すべて、自分にとって必要なもの。わたしが解きそびれているものが、何度も、追試で出てくるような。無回答で0点もらうよりは、珍回答で、出題者を困らせるくらいのことはしてみたい。





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by kokoro-usasan | 2017-04-28 13:31 | 日々

呼び声

花散らしの冷たい雨。体調が快復してきた母は、認知症からくる頑是なさも復調し、看護師さんを困らせている。毎日見舞いにゆくが、母の居ない静まり返った家のなかで、ぽとりぽとりと涙がこぼれたのは、最初の一晩だけで、夜中に5度も6度も起こされずに済む眠りを、数年ぶりに味わったとき、なにか、思いがけず、穏やかで平和な気持ちを覚えてしまったのだった。ひとつきと長引いた私自身の厄介な風邪も、4日も熟睡すると、静かに遠のいていった。

夜中に何度もわたしの名を呼んでは、冷えた戸外に出てゆこうとする母を連れ戻す作業は辟易とするものだが、彼女が入院した日の晩は、その鬱陶しく感じていた呼び声が、母の命の証であったように思え、それがもし、もう二度と聞けないとしたら、と思うとひどく切なかった。血のつながりのない母であるが故にこそ、「ここまで」という関係性の線引きがわたしにはできない。「介添えなしでは歩行困難となったとき」「娘をまったく認識できなくなったとき」この2点が、働きながらの単身での介護の限界と見据えている。

以前にも母が入院した際は、入院先の病院で、認知症を忌避され、早く転院してほしいと迫られた。父が亡くなって間もない頃だったこともあり、ひどく傷心を抱えた。最近は、病院側も、高齢者には認知症がつきものという了解になってきたのか、限界に幅をもたせてくれているようだ。ありがたい。ありがたいと思う一方で、そういった抑制なしに見守っている自宅での介護の限界がまた脳裏をかすめる。老老介護など、並大抵の苦労ではないだろう。

夜中に大声を出して起きようとする母を、病院は「抑制」する。体を動けないように固定したり、車椅子に乗せてナースステーションに連れてゆき、そこで監視する。排尿は、紙おむつにするように促される。そうでないと、下手すれば30分おきに「おしっこ」「おしっこ」と言われ、ポータブルトイレで介助しなければならないだろうし、いざ、トイレに座らせたところで、1滴2滴ということもざらではないのだ。そんな患者に手間暇かけてはいられないだろう。昨日の母は、ベッドが寝にくいと言って、帰ろうとするわたしを、何度も何度も引き止めた。「もう少し、あげて」「もう少し、さげて」「こっちにむきたい」「あっちにむかせて」でも、これは、おそらく、認知症というより、認知症によってあけすけになった欲求の声そのものだろう。退屈で、退屈でたまらないと訴えたい思い。

とにかく、わたしはたくさん眠ろう。そこから先のことは今は考えまい。





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by kokoro-usasan | 2017-04-11 11:53 | 日々

my foolish heart

母の入院先から戻ってきて、ぼんやりテレビをつけると、竹原ピストルが歌っていた。あぁ、この人の歌、わたし、前にブログに書いたことあったよなぁと思い、自分で検索すると、
「雨がやむまでのあいだ。」という4年くらい前の記事で書いているのを見つけた。

catch me if you can というのは、トム・ハンクスと、なんとかなんとか(ど忘れ)のダブル主演映画なのだけど、天才的な詐欺師のお話。実話をもとにしているという。結構面白かった。ピストルさんがいうように、彼のこの歌は、その映画のタイトルを「ぱくった」わけね。でも、「捕まえられるものなら捕まえてみろよ」と歌ったあとの「オチ」が、彼らしくてあったかい。わたしはこういうのを聞くと、「探せるものなら探してごらん」と一生懸命に隠れているのに、誰も探してくれないタイプの自分に恥じ入る。どーんと構えてみたいものだなあ。


このひと月以上、どうも調子がよくないのだけれど、単身介護者というのは、自分が具合が悪くては、介護されてるひとが困るわけで、自分が入院するくらいだったら、母の方を入院させてしまったほうが、理にかなってる、なんて思う。まいったなぁと思っていたら、ほんとに母の具合が悪くなり、入院することになってしまった。これまで、入院するたび、「もう帰るーー」と看護婦さんを困らせて、夜中に電話で呼び出されたりしてきたので、それが心配だったが、認知症の進み具合がちょうどいい塩梅なのか、わたしが病院から帰るとき、「お留守番、よろしくね」と言うと、自宅にいるような気になるらしく、「うん」と素直にうなずく。「それじゃ、これから、仕事にゆきますからね。仕事が終わるまで、静かに待っててね。」「うん」

今回、母の主治医になられた医師が、「話の早い」かたで、ありがたく感じている。患者の家族が知りたいと思うだろうことを、自分のほうから、さりげなく設明してくださる。母が入院したので、わたしは、夜中に何度も起こされずに、朝までぐっすり眠れることとなった。これをひとつの機会として、自分の体調も回復させよう。ケアマネさんが、あなたのリスク判断は間違っていないと思います、と言ってくださった。そうだといいのだけれど。たとえ、そうでなかったとしても、後悔はしないと、わたしたち、老齢の家族を介護するものたちは、心を決めるのだ。つい数ヶ月前も、ひとりで親御さんを介護している友が、「自分の判断に自信が持てない」と電話をくれて、何度もやりとりしたとき、「たとえ、間違ったとしても、それが、わたしたちの、ぎりぎりなのであって、誰もあなたを責めることはできない。」と、ふたりで確認しあった。その友が、久しぶりにわたしに電話をくれ、そのような話をすることになったのは、偶然ではないのかもしれない。

新しい年になったというのに、見聞きすることのすべてが、心を荒ませる。その踏み荒らされた土地には、結局花ひとつ咲いていないように見える。

「泣きながらご飯を食べたことのあるひとは生きていけます」とは、先日やっていたテレビドラマのセリフだが、実際、本当にそうなのではないかとわたしも思う。泣きながら、ご飯を食べたら、自分が明日蒔ける種のことでも考えてみればいいのだろう。





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by kokoro-usasan | 2017-04-04 23:16 | 日々


閉じられていないもの


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