カテゴリ:日々( 416 )

アハ体験をする

昨夜、ふと浮かんだ言葉が、ふと浮かんだ瞬間に思い出せなくなり、そのまま、どうしても蘇ってこないので、布団のなかでなんども寝返りを打つことになってしまった。よし、気を落ち着けよう、と、起き上がって、台所で白湯を飲み、戻ると、ペンと紙片を持って、またベッドに潜った。この際、思い出すまで眠るのはやめることにした。同僚が、よく言っていた「アハ体験を重ねて脳の活性化」という言葉が、消えてしまった言葉の代わりに、これ見よがしに頭のなかをぐるぐるし始めたからだ。

最近、確かに物忘れはひどくなった。一瞬浮かんで、一瞬で消える、という切なすぎる迷宮体験も増えた。消失に任せることなく、脳のシナプスにエールを送らなければならない。アハ体験、アハ体験。

結果的に、忘れた言葉はひょっこり「父帰る」みたいに戻ってきたのだけれど、そこに至るまでに頭に浮かんだ似て非なる言葉たちの面白かったこと。試しにメモしておいたので、それを読んで我ながら楽しい時間を過ごした。ボケとツッコミをひとりでやるようなものだ。思い出そうとするときに、頼りにするのは、語感であったり、わずかに消え残っているように思える文字だったりするが、自分で変にまとめようとせずに、本当に思いついたままの言葉を書き留めたせいで、よくもまぁ、そんな、という「程遠い」言葉まで出動しているのがわかる。

認知症の母が、時折、ぷっと吹き出したくなるような、意味不明の言葉を投げかけてくるのは、ある意味、この「途上の言葉」で、取り急ぎお茶を濁しているからなのかもしれない。正確な言葉を思い出せないうちは、会話ができないとしたら、そんな苦しいこともなく、だったら、とりあえず、なんでもしゃべってしまえ、と、無意識のうちに思うのかもしれない。

でも、そんなことを考えていると、使い古された言い回しを、飽くことなく繰り返して、流暢に喋り、流暢に暮らすことが、本当に、自分の言い回しで、自分のスタイルなのかと、疑わしくもなってくるのだ。

ど忘れしてしまった事柄を思い出すアハ体験とは別に、ど忘れどころか、実はまだ一度も思い出せていない自分の言葉があるのではないか。その言葉で、まだ一度も喋っていないのではないか。それこそが核心であるにもかかわらず。

とにかく、昨夜、ど忘れした言葉はめでたく思い出すことができた。
思い出せた途端、安心してすぐ眠りに落ちてしまった。




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by kokoro-usasan | 2017-02-23 23:04 | 日々

なんでもない休日。

朝。よく晴れていたので、洗濯をしてから、近所の歯医者に行き、その足で買い物に行った。買い物のついでに書店にも足を伸ばしているうちに、午後になり、昼食用のサンドイッチと、フリージアの花も調達して帰ってくると、急に春の嵐となり、ベランダの洗濯物が下に落ちてしまっていた。やれやれと拾い上げ、さっさっと埃を払いながら、仕舞う。生暖かい強風のせいで、庭の鉢植えの花が、乾燥してうなだれはじめていたので、ジョウロで水をたっぷりかける。居間に戻って、サンドイッチを頬張って、一度見たことがある推理もののテレビドラマを眺め、なんとなく、あらすじを思い出してきたところで、テレビを消す。カップのなかに残っている珈琲を飲み干して、自分の部屋に戻り、椅子に座る。なんだか、ぞわぞわと寒気がする。風邪?上着をもう一枚羽織ったら、寒気は消えた。肩が凝っているのは、歯医者で緊張していたせいかもしれない。急に、窓の外で雨音。シャワーのような雨音。このところ、こんな雨の音、しばらく聞いていなかったなと思う。なんだ、雨が降るのなら、花に水をあげなくてもよかったなと思う。

と、書いていたら、もう雨は止んでしまい、ヒヨドリが隣家の柿の木の上で、鳴いている。そういえば、朝は、その同じ場所に、山鳩がとまっていた。結構、長い時間とまっていたので、洗濯物を干しながら、話しかけてみたりしたけれど、首をちょっと動かすくらいで、ひっそりとしていた。まだ、体が幼い。

すこし前の新聞に、職員のかたの知らないうちに養護施設を抜け出してしまった少年が、行方不明となり、その2ヶ月後に、付近の山中で遺体で発見された案件について書かれた記事が載っていた。この少年は、わたしの職場にも「捜しています」というチラシが配られ、みんなで心配していた少年だった。まさか亡くなって発見されたとは知らず、その記事で初めて知ったのだ。記事は、亡くなったことを報じたものではなく、施設が遺族側に支払う賠償金をめぐり訴訟になっているというものだった。争点は、賠償額そのものというより、提示された賠償額の、その内訳のなかで、亡くなった少年の「生涯賃金予測」が「0円」で算出されていたことへの抗議だった。もし、生きていたら、その少年が、生涯にどれくらいの収入を得ていたかということが、賠償額を決定する際の重要なポイントになるが、遺族側は、その「0円」という算出に納得できなかったのだ。それにしても、どうしてまた「0円」などという算出をしたのだろう。似たような案件でも、それなりの人権に配慮した額が呈示されるものだ。「0円」という記載を見たときの親御さんの気持ちは冷水を浴びせられたようだったのではないだろうか。これは、大事な問題だと思う。

あ、また雨が激しく降り始めた。こうやって、すこしずつ、暖かくなってゆくのだろう。母がデイサービスから戻ってきた。つい先日は、回覧板を、下駄箱のなかに仕舞ってくれていた。あたまのなか、どうなっているのかなぁと思うけれど、そのちんまりと丸く小さな身体が必死に生きているということが、わたしの暮らしにとって、なんらかの和らいだ灯りになっていることは、確かなのだった。





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by kokoro-usasan | 2017-02-20 17:30 | 日々

チョコと福寿草

e0182926_1232419.jpgこれでもかと言わんばかりにチョコレートの出回る時期も一段落して、なにを今更ではあるけれど、わたしは、今年、こんな愛らしい詰め合わせお菓子箱を自分のためにひとつ買い、 気が付いたらほとんどひとりで食べてしまっていた。どれもみんな美味しかったけれど、左上のチョコがけビスコッティが、絶品。

作り手のかたは、地元で自分の店舗を持たずにひとりで作ってらっしゃるのだという。このお菓子箱を仕入れたお店のオーナーさんが、ミモザの花も一緒につけて素敵に包装してくださった。なんだか、わたしには、もったいないくらいだった。最初は、職場に持っていって、みんなにもお裾分けしようと思っていたのだが、職場だと、ばたばたと忙しく、ぽいっと口に放り込んで、「あ、ごちそうさまぁ〜」という感じで、あっという間に終わってしまうことが多く、なんだか残念な気がしてやめてしまった。自分用と、職場用、もう一箱買っておけばよかった。どうも、気前がよくないなぁと思う。美味しいものをお裾分けするのを、ケチるなんて・・・うーん。(自分の煩悩を気に病むわたし。それだけ美味しかったということですね)


友人から手紙。故郷の福島から届いたメールに、除染後の土手に、今、福寿草がいっぱい咲いている、とあったそうだ。放射能汚染などなかったら、と、あらためて思う。泊まりがけの旅は、今のわたしにはできないけれど、今度、友人と一緒に、日帰りで福島を訪ねてみたいと思った。そのとき、土手には何の花が咲いているだろうか。きっと、花好きの友人が、ひとつひとつ名前を教えてくれるだろう。



※写真は時々お店にうかがう「百草の庭」さんのHPサイトから






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by kokoro-usasan | 2017-02-16 13:40 | 日々

せり、せり。

e0182926_10293471.jpg晴れ。スーパーで三つ葉を買おうと思っていたら、その横に根付きのセリが並んでいて、思わず買ってしまった。心変わり。七草粥の日はもう過ぎてしまったし、繊細な料理もできないので、味噌汁に入れた。いい香りがした。いつも、少しだけ汁を残すのが習慣のようになっている母も、全部飲み干した。春も近い。

昔から、よく眺めているアジア・アンティークのHPがあるのだけれど、何年か前から、気になってしかたがない民族衣裳が、そこで紹介されていて、ただただ、その手仕事と意匠に惹かれ、何度も見に行っていた。凝った手仕事のわりには、全体の雰囲気に静かな落ち着きがあり、見ていると気持ちが落ち着くのだった。落ち着くと同時に、なにか背中を押される気持ちになる。居住まいを正したくなる。そんな衣裳だった。

つい先日、また性懲りもなく見に行ったら、なんと、ヤフオクに出品したという。しかも破格値。破格値が嬉しいというより、せりに出されてしまったことがショックで、生まれてこのかた一度もやったことのないオークションに名乗りを上げざるを得なくなった。登録して、いざヤフオク画面のなかに分入ってみると、それこそ数えきれぬものがオークションに出されており、何年も何年も、ひとつの衣裳を眺めて楽しんできたわたしのような人間には、同じようなものがずらりと並んでいる様子に、「目からウロコ」状態でもあったけれど、一方なんだか虚しくもあって、お目当てのものだけ、落札すると、すぐその場から出てきた。「星の王子さま」のお話を心のどこかで思い出している。王子さまのバラの花のこと。


届いた衣裳は想像に違わぬもので、しみじみと手で撫でてみる。丹念な手仕事。着古されて綻びたところも味わい深い。オークションに出されたと知ったときは、「どうして!」と慌てたけれど、今となってみれば、どこかの神様が、眺めているだけじゃなくて、あなたが手元に置いたらどうですかと、取り計らってくれたのかもしれないと思う。感謝。




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by kokoro-usasan | 2017-02-14 11:45 | 日々

人形

e0182926_18215390.jpg知り合いのかたにお線香をお送りしようと思っていつも行くデパートに出かけたら、ギャラリーで中川ふさ子さんの人形展がちょうど始まったところだった。左の写真は一昨年の人形展のときにいただいた写真。中川さんのお人形は、貴重な古代裂を使われていて、お人形そのものの成型も、型ではなくきちんと一体一体、ご自分で作られているという。だから、本当に、一体一体が味わい深く、一言では言えない、しんみりとした思いを呼び起こす。どうして、「しんみり」するんだろう。敢えて言えば、自分が年月の中で失ってきてしまったものを、このお人形たちが静かに内に湛えていて、どうも、それにちょっぴり心が傷つくというか、傷つきながらも、畏れに似た気持ちで、その幼いかんばせを愛しく思い、長々と見とれるしかないのだった。あぁ、欲しいなぁと思う。思うけれど、わたしがこれを手元で愛でられる時間はそれほど長くはないだろうし、それをどなたかに差し上げる機会があるのかどうかも想像がつかない。それに、わたしには、父親が買ってくれた古い古い雛人形がある。そんなことを頭のなかでぐるぐる考えて、妙に気持ちが疲れてしまった。煩悩というやつだな。

今回の人形展には、雛人形だけではなく、中川さんの本業というか、ご自分の芸術表現としての人形作品もたくさん並んでいて、これは伝統的な雛人形とはまったく異なる独創的なお人形たちなのだが、これはこれで、趣深かった。多くがお年寄りをモデルにしたお人形たちなのだ。椅子にちょっと背をかがめて腰掛けたその風情が、それぞれなにか優しく語りかけてくる感じで、すてきだった。

人形を見つめ、人形に見つめられ、ほっと慰められる気持ちだったはずなのだけれど、家に帰ってきてから、そして、一晩寝て起きてみたら、わたしはなんだか寂しくて、ホームシックみたいな気持ちになっていた。

 「ひと」に、友に、愛する人に、会いたくなっていたのだ。





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by kokoro-usasan | 2017-01-27 18:57 | 日々

やまざと

e0182926_8555625.jpg同僚が活けてくれた年始の生け花の中に梅の枝が一本添えられていて、小指の先ほどもない真珠のように小さな蕾がすでにほころんでいた。手前に大きな百合の花があしらわれていたので、その甘く濃厚な香りに隠れてしまうものの、近づいてみると、梅の花は、奥ゆかしくたおやかな香りに包まれており、あぁ、梅の花もいいなぁと思う。

1月9日の成人の日の晩、ややためらいながら、テレビでNHKスペシャルを見た。「それでも生きようとした」とタイトルにある通り、福島原発事故のあと、住む場所も、生きてゆくための生業も奪われてしまったひとたちが、「それでも生きよう」とし、しかし、心萎え、力尽きてしまった経緯をドキュメンタリーで辿っていた。時々見ようと思っていた番組を見逃してしまうので、今回は録画をセットしていたのだけれど、見逃すこともなくテレビの前に座りながら、逆に、録画を中断しようかとさえ思った。なんだか、ひとが力尽きてゆく様を録画で見直すなんて、残酷なことに思えたし、正直、心が辛かったのだ。そのまま録画は続けたが、見直す必要もないくらい、胸に重く食い込んだものがあり、そのまわりに、いまそっと手を当てて、どう受け止めようかと考えている。

番組を見ているあいだずっと、わたしの脳裏には、かつてある政治家が、原発を擁護するような意味合いで「原発事故で亡くなった人間はいない」と豪語した一件が経巡っていた。リトマス試験紙で何色が出るかで、酸性かアルカリ性かを判断できるような合理的治世は不可能であることを肝に命じておくのが政治家の奥行きだと思うのだが、彼女の発言には、その奥行きがなかった。しかし、この数年で、この奥行きのなさが、政策のすべてに垣間見えるようになりつつある。水質の悪い池で、鯉が水面にぱくぱくと丸く口を開けては、酸素を吸い込もうとしている様を思い出す。人間も、質の悪い言葉の浅瀬で、酸欠になって喘いでいる。

国家は「国」のためにあり、「国民」のためにあるのではない、という暗黙の真理を思う。「復興五輪」とは、なんぞや、とあらためて疑う。「カジノ」とはなんぞや、とあらためて眉をひそめる。富を持つものがさらに富を増やし、貧しいものが一抹の夢をかけながらすべてを失う構造は覆しようがないのか。むしろ、覆しようがないように、それが固定化するのを望むように、様々な縄が、かけられてゆく。様々な結び目で。ほどけそうで、ほどけない狡猾な結び目。贈り物のリボンと見まごうような縄すらあるだろう。


上の写真は、芭蕉の直筆を絵葉書にしたもので、この絵葉書そのものはきのう、友人に送ってしまったので、もう手元にない。ちょうどいい日和かなと思い、投函した。

 山里は 万歳遅し 梅の花   
  やまざとは まんざいおそし うめのはな

芭蕉が48歳のとき(1691)に伊賀上野で詠んだ句だという。万歳というのは、万歳三唱の万歳ではなくて、三河万歳のことで、お正月、街中を練り歩いて新年を寿いだ万歳の一座が、ひなびた山の麓の村にやってくるころには、もう梅の花がほころぶ時季になっているけれど、それもまたのどかで穏やかな鄙の春の景色に思えたのだろう。 今年はこの句がなぜか胸に沁みる。



「それでも、生きようと」しているたくさんのひとたちに、どうか、そのこころの痛切な願いがいつか叶うようにと祈ります。1日、また1日と、その願いを明日へ繋いでいってくれますように。辛いでしょうけれど、どうか、どうか、と。








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by kokoro-usasan | 2017-01-11 11:37 | 日々

つれづれ

a)
いくつかの深い言葉を反芻しながら、穏やかな陽の差し込む部屋のなかに居る。心の底で、なにかが静かに耳を澄ましている気配がする。あと幾ばくかの強さ。いや、もしかしたら、むしろ、あと幾ばくかの「緩さ」が必要なのかもしれない。合理性ではもはや人類は立ち行かないとアレクシェービチが語る言葉に胸を掴まれる気がし、また物思いに耽る。(12・7)

b)
先日、辺見(庸)さんのお話を伺いに行った際、10数年ぶりに徐京植さんをお見かけして、うっかり知己のようにご挨拶してしまいそうになったが、徐さんからすれば、一昔も前に、ある勉強会の、ひとつ前の席に腰掛けていた女性のことなど覚えているべくもないだろうから、はっと思いとどまり軽く会釈して通り過ぎた。徐さんにお会いしたのは2005年7月のことで、八王子のセミナーハウスで開講された「文化と抵抗」というセミナーの会場でだった。徐京植、菊池恵介、高政和、三宅晶子、中西新太郎、高橋哲哉(敬称略)といった面々が代わりばんこに講師となり、二日間にわたって講義が行われた。なにか、鮮やかに心を揺さぶり、胸を打つ講義が続き、へとへとになって帰宅したけれど、その前と、後では、わたしはそれまでと違うずいぶん自由な視座を得ていた。それでも、その視座というものは、不断の努力がなければ、あっという間にふやけ、見えていた地平も霞んでゆく。どのように、自分を律すればいいのか。簡単に、やわやわになる自分を自覚している。

c)
友人との会話のなかで、「水」という言葉が出たため、帰宅してから、「水かぁ」と、タルコフスキーの映像のようなものが頭に浮かんできたのだが、一方で、「水道水」のことを考えた。かつて沖縄に行ったとき、地元の青年たちが、軍に回す水が優先だから、自分たちはなるべく節水を心がけないと水不足になってしまうと語っていたのが忘れられなかった。2008年の防衛省の資料によると、沖縄米軍が使用する水道量は、料金にして年間37億円弱、1日あたり1011万円とのことで(ちなみに電気代は年間118億円、1日あたり3232万円 おそらく現在はもっと高くなっていることだろう)、これを「思いやり予算」として日本が負担している。貧乏人には、その額が適正なのかどうかよくわからないが、いつか、何かと比較できるかもしれないので、ちょっとここにメモしておこうと思う。

 
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by kokoro-usasan | 2016-12-10 11:45 | 日々

車椅子でGO

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雨上がりの晴れた空はやっぱり気持ちがいい。仕事の休みを利用して、母をあちこち病院につれてゆき、足の激痛とそれによる歩行困難の回復を願うのだけれど、今の所、「原因不明」で、「痛み止め」ばかり処方される。が、痛み止めを3週間も飲んで全然痛みが消えないのだから考えものだ。

友人がドイツでクラニオをやっていることを思い出し(患者ではなくて先生)、そうか確か彼女もこういう受難の末に、整体治療に光を見出し、その流れで、ついには施術されるほうではなく、するほうになってしまった経緯を考えた。少しでも「痛みのない」暮らしにしてあげたい。だめもとでも、痛みを緩和する努力はしてみよう。ただし、仕事の合間しか私には時間がないので、あまり遠くまでは連れてゆけない。できれば、車椅子を押してゆけるところ。タクシーを呼ぶ方法もあるが、車椅子から降ろしてタクシーに乗せるのが、むしろ厄介な作業なので、なるべく、車椅子で往復できると、介助者も気がラクなのだ。(私よりも体重の重い彼女を乗せて車椅子を押すのは、なかなか重労働ではあるけれど)

ネットで探した近くの整体院に電話をすると、口調と腕前は関係ないのかもしれないが、とても誠実な受け答えをしてくださる先生だったので、「よし。ここに行こう」と即決する。「ネットで情報を見て電話をした」というと、先方はかなり比較研究してからきたと思われるようなのだが、わたしは、意外に「斜め読み」人間なので、(というよりむしろ放っておくとかなり「深読み」しすぎてしまうタイプで、過剰深読みが災いし、判断を誤ることを、結構自戒している)、その整体の先生に、「すでにネットでご覧になったと思いますけど」と、施術の基本について聞かれたときは、ちょっとぎくっとしてしまった。それほどは、検討していなかったのだ。しかも、「整体」といっても、その先生は、「はり・きゅう」の先生で、母の症状を見てもらいながら、「あ、そうか、この先生は、はり・きゅうの先生なのだな」なんて思うほどの無知っぷりのわたしだった。

それにしても、「はり・きゅう」というのは、場合によっては「はり」をやったり、「おきゅう」をしたりと、二つの治療方法があるということなのかなと思っていたのだけれど、「はり・きゅう」でセットなのだということを、今回初めて知った。

とはいえ、結果としては、母は相変わらず今日も車椅子で、歩くと痛い、ままなのだけれど、痛み止めの薬だけを処方する整形外科よりも(この先生も優しくていい先生なのだけど)、しばらく、「はり・きゅう」に通ってみようと思っている。はりを刺されて目をとじているときの母がなんだかとてもくつろいでいい顔をしていたからだ。一回の施術で驚くべき回復という場合もあるようだけれど、「僕のなかでは、お母さんの痛みが減って歩けるようになってゆくビジョンが見えますので、よかったら、通ってみてください」と言われた先生の言葉に、すこし希望を感じていたいと思う。

ただ、母の歩行を支えたり、車椅子を押したりしてるせいで、わたしもだんだん腰が痛くなってきたぞ(笑ストレッチ、ストレッチ。

車椅子を往復1時間余かけて、えっちらほっちら押してくる家族というのは、結構、傍目には喜劇的みたいなのだけれど(タクシー使えばいいのに、って)、もともと筋力の衰えで長い歩行が困難になっていた母に、車椅子でもいいから戸外の散歩をさせてあげたかったので、車椅子をレンタルする立派な理由もできて、これはちょうどいい機会なのかなとも思っている。今のところ、お散歩に適した気候だし。

「ほら、おかあさん、公孫樹が色づいてきたわね」なんて言いながら歩く。そして、母が食べたいとも言わないのに、途中の和菓子屋さんで、おいしそうな芋羊羹を衝動買いしてはまた、「ほら、おかあさん、おかあさんの好きな芋羊羹よ」なんて言って、まるで母のために買ったかのような調子のいいことを言っている娘であった。上り坂や段差で難儀していると、道路工事の警備のおじさんが手を貸してくれたりする。どうも、ありがとう。





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by kokoro-usasan | 2016-11-15 10:26 | 日々

泣きながら

e0182926_1219154.jpg11月11日、新聞の広告にはポッキーとプリッツの日って大きく載っていたけれど、あれ? なんか、わたし、忘れてることある?と首を傾げたら、その傾げた頭から、ぽろっ。そうだ、この日記を始めてからちょうど7年経ったのだ、と思い出した。確か、レヴィ・ストロースの訃報記事から始まっている。

実際のブログ歴はあれやこれやと他のも合わせてもっと何年も経っているわけだけれど、とりあえず、この場所でまだしばらくは日々のことを書き留め続けてゆこうと思っている。

写真は、先日、佐賀から福島に帰省する途中で東京に立ち寄ってくれた友人の後ろ姿。わずかな時間だったけれど、はるか昔、わたしと彼女が出会うことになった大学を訪ねてみることにしたのだった。何日か前の日記にも記した「山道の奥にある大学」である。山道を経由しない立派な正門も別にあるのだけれど、わたしたちは、山道経由の「裏門」からいつも通ったため、このようなトンネルを最後にくぐらなければならない。山ひとつくり抜いて、その下を歩いてゆくというわけだ、この写真では、なにかちょっと不気味な感じになってしまったが(なんの演出もしていないのだけど、わたしの携帯のカメラでは、こんなのしか撮れなかった。でも、面白い写真になったよね)、本当は、トンネルの向こうに見える光が、とてもきれいで、抜けたところに広がる大きな空間は、坂道を登り続けた甲斐があると思える開放感のある眺めなのだった。

e0182926_12403087.jpg遠近感がこの写真だと分かり辛いけれど、左右に見える建物は普通のマンションだと4〜5階くらいの高さなのかな)なので、写っている人間の大きさを基準にしないほうがいいかもしれない。ここの学食で昼食を一緒に食べ、彼女は、実母の待つ福島に向かった。東北で育った彼女には、嫁いだ先の佐賀の自然はどうしても馴染めないもののようで、なんだか、「智恵子抄」の智恵子のようだ、と、いつも思う。安達太良山の向こうに広がる大きな空が彼女にも必要なのだった。わたしは、彼女が結婚していることを承知のうえで、もう子育ても終わったのだし、帰りたいと思ったらいつでも帰って、ふるさとの山の空気を吸うのがいいよと勧めてしまう。ホームで寝たきりの状態で暮らしているという認知症の母親のベッドの傍らに座り、彼女はきっと、故郷を離れた18歳のときから今日までの人生でおきた様々なことを思い出し、そっと語りかけていることだろう。(お母さんにはもう言葉はあまり通じなくなっているらしい。だからこそ余計に正直に)

母親の前で、わたしは本当によく泣いてしまう。そんなわたしを母親は笑って見ています、と昨日彼女からメールが届いた。

いっぱい、泣いて。

生まれたときから、子供はお母さんの前で、いっぱいいっぱい泣いて大きくなるのだもの。きっと、あなたは今、もっともっと、深い心のひとになってゆこうとしていて、だから、お母さんの前で、たくさんたくさん泣いていいのだと、わたしは思った。

どんな人間も母親の前で泣きながら生まれてくる。そのことがなぜか意味深いものに思えてくる。







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by kokoro-usasan | 2016-11-11 13:08 | 日々

ポスト

家の中が、介助用手すりで、遊園地のジェットコースターのような眺めになっているけれど(大袈裟)、母は自分の足でなんとか立てるようになり、とりあえず、自宅で暮らしてゆける状況に落ち着いた。もともと夜中に5回は名前を呼ばれて起きなければならない状態なので(認知症のせい)、同じ5回に「トイレまでの付き添い」がセットになっただけと思えば、たいしたことじゃない気もする。むしろ「ただ名前を呼ばれて(用はない)起きる」という虚しさよりも、起き甲斐はあるのかもしれない。

先日、友人から短いメールが届いた。手紙を送るが、住所は以前の実家の住所でいいかという。実家でOKと返信する。それから何日も経ったけれど、ポストには、それらしきものがなにも届かない。届くのは手紙だというのに、家のなかを、いつもより丁寧に掃除したりしている。玄関に、ハーブアロマを焚いたりしている。手紙はこない。手紙はこないが、天井裏になにか小動物が入り込んだ足音がしたりして、眉間にしわが寄る。寒くなってきたから、暖かいねぐらを探している生き物たちがいるのだろう。凍えるのはかわいそうだと思うけれど、これ以上家が廃屋の趣になってゆくのも、幾ばくか残っているらしい虚栄心が切ながる。古いながらも手入れの行き届いた家、というのをなるべくなら心がけたいのだが、夜中に、天井裏で小動物がかけまわっているようでは、その「心がけ」を笑われているようで、ちょっと忌々しい。


でも、可笑しいのは、そういった小動物の出現が、たいてい、母が「困ったこと」になっているときと重なることが多いので、これは、小動物ではなくて、悪霊なのではないかととんでもなく想像を膨らませてみたり、そうかと思えば、その後、母が回復すれば、いや、ちがう、あれは、ご先祖様の気配だったのだ、きっと励ましにきてくれたのだ、と、これまた、飛躍的に発想を転換してみたり、結構、小動物にはイマジネーションを刺激されているのだった。こうやって、言語化すると、「もしもし、あなた、だいじょうぶですか?」と精神状態を心配されてしまいそうだけれど、認知症で普通の会話の成り立たない家族とふたりだけで暮らしていると、なにか、昔話やおとぎ話が、不思議と身近に感じられてくる。もちろん、ほどほどに、だけれど。


それにしても、わたしは手紙を心待ちにしているのだが、日にちが経つにつれ、なんだか、ちょっと「素直さ」が薄まってきて、ポストを見る目も陰気臭くなってきた。(笑)

でも、わたしは、想像したのだ。 玄関の門扉の周りには手入れされた草花が咲き乱れていて、麦わら帽子をかぶったわたしが、そのそばにしゃがみこんで土をならしている。「イル・ポスティーノ」みたいな郵便屋さんがやってきて、「はい、おたよりですよ」と言い、わたしはその逆光になった郵便屋さんを眩しく見上げながら立ち上がり・・・・・(以下、想像が枯渇し始めたので省略。)

やっぱり、庭と家の手入れを、もうすこし、ちゃんとしよう。想像が閉店するのが早すぎる。夢は、現実のなかで、育むものだ。





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by kokoro-usasan | 2016-10-29 12:06 | 日々


閉じられていないもの


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