カテゴリ:ことば( 69 )

もうだれも奴隷にならないように

7、8年近く前のことになるかな。たまたまネットで見かけた福岡のブックス・キューブリックという本屋さんのロゴ入りエコバッグが素敵で、欲しいなぁと思っていたら、友人が九州に転勤になったというので、もし機会があったら、その本屋さんに行って、ロゴ入りエコバック、わたしのかわりに買ってください、と厚かましいお願いをしたことがある。友人は律儀に行ってくれたらしいのだが、品切れで買えなかったとの返事があった。

先日、そのブックスキューブリックの店主である大井実さんの書いた「ローカルブックストアである福岡ブックスキューブリック」という本を見つけ、とても面白く読んだ。地域の書店が軒並み閉店してゆくなかで、それまで書店に勤めたことさえなかったかたが、「本屋さんをやってみたい」という夢だけで、お店をたちあげ、全国でも有名な人気書店になってゆくまでの経緯を綴った本だ。「夢だけで」とは言っても、イメージをかたちにしてゆくための現実的な努力は生半可なものではなく、もともと、バブル期にファッション業界で「イベント企画」をやってらっしゃったという、その企画力とコミュニケーション力のたまものという気はする。

わたしが住む街は、一昨年、駅前にあった書店が突然閉店し、「街に一軒も本屋さんのない」コミュニティになってしまった。多い時には、古本屋さんも含めて五軒あった時代もあったのに。ひどい話だなぁと思う。ネットで注文すればすぐ届くからいいやという話ではないのだ。その地域のひとが、みんなで眺めに行く「同じ本棚(書店)」があるということは、内容はともかく、そこそこ、文化的な了解事項のようなものを共有できるということでもあるのだと思う。背表紙を眺めて、だいたいあの本はあのへんにある、という了解だけでも、街の「文化的」財産になるような気がする。今、街に一軒も本屋さんのないわたしの街の住人が、最近、どんな本を読んでいるのか、わたしには、もう皆目わからなくなってしまった。寂しくもあるし、正直、なんとなく怖くもある。本屋もレコード屋もない、この街の住人は、どんな本を読み、どんな音楽を聴いているのだろうか、お互い、誰もなにもわからない。目星もつかない。

かつて須賀敦子さんが書いた「コルシア書店の仲間たち」のように、書店が果たしていた役割のようなものを夢見る。ネットでは、10年前に読んだ記事を、もう一度、読みたいと思っても、もはや、探しようがなくなっていることもあり、例えば、信ぴょう性よりも、感情的なものが優先されるポスト・トゥルースといわれる風潮なども、そうした、「出処をたどりようもない」情報を朝から晩まで浴び続けることによる知的麻痺からくるのではないかという気がする。

広告や情報ではなく、手間暇かけた「著作」に触れる時間がもっと必要なのではないか。

前述の大井さんが本の最後のほうで、イタリアのジャンニ・ロダーリという作家の言葉を引用しているのだけれど、この言葉、奥が深くてとても好きだ。

「みんなに本を読んでもらいたい、
文学者や詩人になるためではなく、
もうだれも奴隷にならないように」






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by kokoro-usasan | 2017-03-10 22:58 | ことば

ひこうき

e0182926_1112155.jpgきのうは午後から粉雪が舞い、今朝も、庭にはうっすらと白いものが残っていたが、空は晴れて、洗濯も済ませた。

先日ここでご紹介した池間さんと不破さんのライブの別の映像で「ひこうき」という歌が歌われている。印象に残るとてもしみじみとした歌で、今朝の空を見ていたら、その歌が心に浮かんだ。曲はたしか不破さんが作られたのではないかと思うが、詩は石川啄木だ。




飛 行 機    
        石川啄木 
            
見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。

給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたつた二人の家にゐて、
ひとりせつせとリイダアの獨學をする眼の疲れ……

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。

1911.6.27.TOKYO.



今は個人がなんでもネットにアップできる時代だけれど、100年前は、「出版」というかたちを取らなければ、広くはだれにも読んではもらえず、自分の思いが、いつか誰かに届くことを切実に願いながら、叶えられずに一生を終えたかたがほとんどだったのではないだろうか。

見よ、今日も、かの蒼空に 飛行機の高く飛べるを

祈るように言葉を書き起こす孤独のようなものが、この短い詩のむこうに垣間見え、それゆえにこそ、給仕勤めの少年の、その非番の日の光景と、空を横切ってゆく飛行機の機影が、もはや忘れることができないほど、わたしの心の奥の奥に届き、100年を超えてなお切ない。




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by kokoro-usasan | 2017-02-10 11:17 | ことば

だませないもの

e0182926_1084932.jpgきのう、テレビでNHK1972年制作のドラマ「赤ひげ」のアンコール放送をしていた。山本周五郎原作。仕事だったので深夜帰宅してから録画を観た。赤ひげが若い見習い医師を叱る言葉、お上に楯突く言葉、どれもが心を打つ。当時、その見習い医師を演じた俳優が、自分の役を通して、こんなふうにコメントするのを聞き、それがまた胸にしみた。「ひとは騙せても、自分は騙せない。自分をどんどん嫌いになってゆく」 

自分の限界を超えた疲れから、患者の往診を断り、幼い子供を死なせてしまったその若い医師は、そのことを非難する赤ひげに、「医者だって人間だ」と返す。周りの同僚たちも、「みんながみんな赤ひげのように強いわけではない。彼は一種の狂人なのだから、彼の叱責など気にするな」と慰めてくれる。そうだ、そうだ、赤ひげの言い分は暴論だ、医者だって、治療に疲れ果てて睡魔に襲われている状態で、さらに往診などいけるものか、若い医師も、そう結論づけられたなら、それで話は終わるのかもしれないが、彼はだんだんに自分の気持ちを荒ませてゆく。小雪の降る街中を深夜まで、与太者のように彷徨う。酒をあおる。

「ひとは騙せても、自分は騙せない。自分をどんどん嫌いになってゆく」

赤ひげの「求めるもの」があまりに過酷であると糾弾したい思いの一方で、「医者は人間である前に医者だ」と、怒りに任せて彼を叱責してしまった赤ひげの「こころ」が、彼には見えている。見えていることを、見えていないことにはできない。同じ「こころ」がそれを拒み、葛藤する。

いいドラマを観ることができてよかった。



※ちなみにこの放送は連続ドラマだった放送のなかから一話だけ取り出したもので「ひとり」というタイトルです。「ひとり」というタイトルがまた意味深いと思います。







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by kokoro-usasan | 2017-02-06 10:10 | ことば

海人

海人というのは「うみんちゅ」ではなくて、kaijin、明石海人のことです。ふと思い立って、古書店から、彼の「白描」という歌集を取り寄せることにしました。1930年代の本なので、おそらくボロボロなのでしょう、くれぐれもその点をご了承ください、とお店のかたから連絡がありました。了解です。彼の歌は、岩波の文庫本でも読むことができるのですが、作者本人も生前に手にしたことだろう「白描」という本を、当時の体裁のまま触れることができるなら、また格別の感慨があるのではないかと、本の到着を待っているところです。


癩は天刑である
加はる笞(しもと)の一つ一つに、嗚咽し慟哭しあるひは呷吟(しんぎん)しながら、
私は苦患(くげん)の闇をかき捜って一縷(いちる)の光を渇き求めた。

― 深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない ―
そう感じ得たのは病がすでに膏盲(こうこう)に入ってからであった。
齢(よわい)三十を超えて短歌を学び、
あらためて己れを見、人を見、山川草木を見るに及んで、
己が棲む大地の如何に美しく、また厳しいかを身をもって感じ、
積年の苦渋をその一首一首に放射して時には流涕し時には抃舞(べんぶ)しながら、
肉身に生きる己れを祝福した。

人の世を脱(のが)れて人の世を知り、骨肉と離れて愛を信じ、
明を失っては内にひらく青山白雲をも見た。
癩はまた天啓でもあった




「深海に生きる魚族のように・・・」の1行は何度読んでも、すごいと思います。


追記
思いがけず、すぐに手元に届きました。おそらく、海人はご存知でも、「白描」の本そのものはあまりご覧になる機会がないかと思いますので、ピンボケ写真で申し訳ありませんが、ここにご紹介します。

1939年改造社から出版されました。定価は壱圓四拾銭となっています。
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by kokoro-usasan | 2017-01-24 06:48 | ことば

プリズム

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時々読ませていただいている某ブログにこんな言葉があった。

窓にプリズム(サンキャッチャー)をたくさん吊るす、というのは、
小学生のころ『少女パレアナ』を読んで、ずっとやってみたかったこと。
大人になってから思う存分やっている。
だってそのために大人になったんだもの。



なんのために大人になったのか、いくつかは覚えているのに忘れたふりをし、いくつかは覚えていたかったのに忘れてしまったのかもしれない。

むしろ、「大人になったのだから、やらなければいけないこと」が牡丹雪のように降ってきた。わたしは、「小さな兵隊さん」のような気持ちになって、「大人になったのだから、やらなければいけないこと」を背中のカゴに受け止め、幾分調子を乱しながら行進してきた。見渡せば、それは意外に当たり前の光景で、小さな兵隊さんたちの行進は、とりあえず、思い思いの方向で、すみやかにとりおこなわれているようなのだった。だが、兵隊さんたちに共通しているように思われるのは、みな、目を閉じて進軍していることなのかもしれなかった。きっと目など開けないほうがいいと思わせられているのだ。

時折、プリズムの虹が地面にかかる様子をしゃがみこんでずっと眺めているひとに出会う。兵隊さんは、ふと、目を開けて、「あ、いいな」と思うけれど、自分がなんのために大人になったのか思い出せなくなってしまっているので、理由の分からない涙をぽろんと一粒こぼすと、また、目を閉じて、とても真面目に行進を続けるのだった。

そして、そんな兵隊さんたちは時々、目を開けているのにプリズムの虹など「屁とも思わない」ひとたちの掛け声によって、目を閉じたまま、どこかへ連れてゆかれ、もう二度と戻ってこなくなるのだった。





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by kokoro-usasan | 2016-12-21 11:37 | ことば

L' amour fou

今日、自分への誕生日プレゼントで観に行った映画(ウニー・ルコント監督「めぐりあう日」)のラストシーンで、アンドレ・ブルトンの詩(「狂気の愛」)の終章の一節が静かに朗読された。それは唐突ではあったのだけれど、この一節によって、探していた最後のピースが揃ったような、そんな安らいだ気持ちになって、映画館をあとにすることができた。


美しい春 君は16歳
この本を開くだろう
さんざしを揺らす風がその題名をささやく

いつも笑っている8ヶ月の愛しい娘
君は珊瑚 君は真珠
君の誕生に何一つ偶然はない

生まれるべき時に誕生したのだ
早くも遅くもない
君のゆりかごの上に暗い影はない

子供を生むのは狂気だと思い込み
私を生んだ人々を恨みに思っていた

16歳の君を見つめる
まだ恨みを知らない娘
僕は君の目を通して自分を見つめる

夢と希望と幻想が君の頭の中で踊る
巻き毛の輝きをあびて

その場に僕はいない
ずっと君を見ていたいのに

運命の分け前が十分かどうか分からないが
生きる喜びを謳歌せよ愛を待ちながら




この最後の一行、日本語字幕は古田由紀子さんとなっている。実際には、「あなたが狂おしいほどに愛されることをわたしは願っている」なのだが、古田さんの牧歌的な意訳もわたしは好きだ。もう会うことのない幼い娘に、父親が書き残した手紙の結びの言葉として、きっと、日本人には、このほうが受け入れやすいと考えられたのではないかと思う。

運命の分け前が十分かどうかは分からないし、もう16歳はとうの昔にすぎてしまったけれど、そう、わたしも、そのように生きてみようと思う。





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by kokoro-usasan | 2016-12-15 20:55 | ことば

静かな花

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友人から、63頁にも及ぶ手紙(と、いうことにしておこう)が届いた。わたしは深呼吸する。穏やかで幸せな気持ちだ。

b)
果たしてくだんの小動物は悪霊だったのか先祖の霊だったのか不明なままだが、不可思議なことに、洗濯ものを干す連結ハンガーが忽然と姿を消しているのだった。あんなにかさばるものが、一体、どこへ消えたというのか。そもそも連結ハンガーだけなのだろうか、なくなっているのは。あばら家で、盗るものもないだろうと豪語してきたのに、連結ハンガーが、そんなに魅力的な品物だったとは・・・。それにしても、なぜ、なくなったのだろう。小動物も、洗濯をするのか。

c)
しばらく前に、アレクシェーヴィチの「セカンドハンドの時代」を書店で見つけ買って帰ったのだが、非常に厚い本なので、すぐに読み始める予定も立たず、そのままになっている。ただし、この本の本編の前に紹介されている二つの文が、わたしの心の奥深くに楔のように打ち込まれており、この二つの引用文のために、この分厚い本を買い求めてしまったといっても大げさではないのだった。

犠牲者と迫害者は同じように不快である。それは、堕落においての兄弟関係であるということを、収容所の経験から学んだ。(ダヴィド・ルセ『われらが死の日々』)

いずれにせよ、わたしたちは覚えておかねばならない。世界において悪の勝利に責任があるのは、第一に、盲従的に悪を実行する人びとではなく、善に仕える精神的に明晰な人びとであるということを。(ヒョードル・スチェプン『起きたことと実現しなかったこと』)


安易に扇動され、誘導され、無数の組み合わせによる敵味方に分けられ、そのどちらにも様々に「崇高なる善」があり、それぞれの陣営のなかでのヒエラルキーに一喜一憂し、賞賛しあい、排斥しあい、自己顕示欲を満たしあい、侮蔑し合う。皆が、少しずつ、自分は犠牲者だという意識を募らせるが、そこから始まる小競り合いであるよりも、「自分は犠牲者にはなるまい」という強い決意から始まる和解の方向はないものなのか、なにかふと押し黙り、沈黙の時間に身をゆだねる。

d)
新しい連結ハンガーを買いにゆくとしよう。うーん、釈然としないなぁ。


※追記   連結ハンガーは普段ぶらさげている脱衣所(洗面所)ではなく、浴室のなかに置かれていた。誰が、そんなところに置いたのだ? と言われたら、赤面し、心拍数も幾分多めにしながら、「わたししかいないよね。えへへ」と肩をすくめるところだが、誰もそんなふうに問い詰める者のいないこの家では、「ふっ。あったじゃないの。まったく。洗濯物を干す小動物なんているわけないじゃない。ばっかよねー」なんて、しらばっくれる張本人。





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by kokoro-usasan | 2016-10-31 11:52 | ことば

一人立つ自分

e0182926_10481320.jpg最近、琉球新報が、武藤杜夫さんという沖縄少年院の法務教官のかたのインタビューを4回に渡って連載していた。昨日で39歳になったばかりのこの方の言葉を、同じように法務省の矯正局で働いている知人らの顔を思い浮かべながら読んでいた。

その最終回のなかで語られていた言葉を2箇所だけここに書き写しておこうかと思う。どちらの言葉も、ある意味言い古されている話なのかもしれないけれど、それでも、「世間ではそう言われています」ではなく、「実際の経験をもとにして」語られる言葉は、そのひとが生身でぶつかって出てくる言葉なので、何度でも素直に耳を傾けられる。そうか、そうだなぁ、と。  特に、ふたつめの言葉は胸を打つ。


「『子どもを変えることはできない』。それが十数年間この仕事に携わってきた僕の、飾り気のない実感です。僕が変えてきたものは、僕自身です。誰かがやるだろうと考えてる自分から、『一人立つ自分』に変わる。できない言い訳を探してる自分から、『どうやったらできるのかを考える自分』に変わる。楽しそうなことを探し回ってる自分から、『今、目の前にある課題を楽しめる自分』に変わる。そういった挑戦を続けてきたに過ぎません。


  「僕は、尊敬できる方と出会ったとき『なぜ、あなたの人生は変わったんですか』と質問することにしています。そうすると、面白いほど同じ答えが返ってくる。『○○さんと出会ったからです』と。僕もそうでした。僕をどん底に突き落したのも、そこから引っ張り上げてくれたのも、全部人だった」


もちろん、「人」だけではないよという意見も出てきそうだけれど、それは ひとまず措いて・・・。でも、確かに、圧倒的に、「人」ではないかと思う。良くも悪くも「人」なのだろう。この摂理を、自らの過去に尋ねてみると、本当に、胸締め付けられる気がして、物思いに耽ることになる。

そして、その思いを、武藤さんの最初にあげたほうの言葉に重ね合わせてみると、人が人と出会うときに、それが幸せな出会いになるためには、自分がどんな人間であれたらいいのかが、透けて見えてくるような気がしたのだ。

そういえば、亡くなられたむのたけじさんが、偉い人とはどういうひとかと尋ねられ、「あざやかに生きているひと」(ちょっと違う言い方だったかもしれません)と答えられたことを覚えている。あざやか、とは、つまり、自分に言い訳しない、ということなのかもしれないと、今、思った。



※写真は、モーリス・ドニの絵葉書  わたしの部屋の「常連」(?)





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by kokoro-usasan | 2016-09-08 11:38 | ことば

美貌の空を思う

e0182926_1132281.jpg台風9号も東京を離れてゆきました。雨の止んだ夕方、駅前に買い物に出たら、東の空に向かってスマホをかざしている女性がいて、ポケモンでもゲットしようとしているようにも見えましたが、いいえ、彼女は、空にかかる大きな虹を撮っていたのでした。よしよし。自然は素晴らしい風景をいくつも見せてくれる。ポケモンを探して彷徨っていたけれど、ふと見上げた夕焼があんまりきれいだったので、ポケモンなんて要らなくなっちゃったんだ、という話をいつか誰かに聞いてみたい気がする。

昨夜はあれこれしているうちに随分夜更かしになってしまったのだけれど、睡魔も珍しくどこかに出張中らしく、全然眠くならない。かといって、あらたに本など読み始めたら、夜が明けてしまいそうだったので、「月を見たら、寝よう」と思い定めてベランダに出た。このところ、月の光がとても強いのだ。雨雲から透けてみえるほどに・・・。台風も去ったとなれば、きっと鮮やかに顔を出しているだろうと予想した通り、とても爽やかできれいな月夜だった。月光のわりには星もとてもたくさん見えて、すでにオリオンが天空高く登場していた。季節は確実に秋に向かっている。

整体の山上亮さんがそのブログで紹介されていた「PETRA GENITALIX(生殖の石)」(五十嵐大介)」という漫画を読んだ。背景の建物を描くときでもフリーハンドで定規は使わないというその線描はぎしぎししていて、最初ちょっと鬱陶しく思えたけれど、それが持ち味なのだとすぐわかってくる。

山上さんはこの作品のなかで、魔女ミラに引き取られた少女アリシアが、ミラに「本を読むな」と言われ、何故?と問いかける場面をとりあげておられた。「あんたには経験が足りないからよ」とミラは答える。「体験と言葉は同じ量ずつないと、心のバランスがとれないのよ」

山上さんがこの対話から述べられた感想からは横道にそれてしまうのだけれど、わたしは、今、この国の為政者たちの「言葉」にも、なにか、それに見合うだけの深い経験と思慮に根ざしていない空疎さを感じてしまうことが多い。そして、この国そのもののバランスも、根っこを失った危ういものへと、どんどん衰えていっているように思えてならない。根拠の薄い言葉ばかりが絢爛豪華に打ち上げられていないだろうか。

魔女ミラは物語の後半で、現世を支配するものたちにこう言う。「あなた達の言葉は、ありとあらゆる可能性を特定の性質に切り分けるナイフ。自分たちの都合のいいように世界を刻む道具。わたし達は世界をあるがままに見る。わたし達は言葉を知りながら、それを棄てることができる者」何故棄てることができるのか、それもミラは明かすけれど、そこまで書くと、まだ読んでいないかたの楽しみを奪ってしまうのでやめておこう。

この作品を読んだあと、新聞の夕刊で池澤夏樹の「スティル・ライフ」が記事になっているのを見かけ、あ、そう、この五十嵐大介さんの「感覚」というのも、どこか少し「スティル・ライフ」とか「ヤー・チャイカ」につながっているような気がするなと思った。とはいうものの、「ヤー・チャイカ」というタイトルを思い出すのに、今回、すごく時間がかかってしまって、「月を見てから寝よう」と思って、月を見終わり、寝床に入ったのに、さらにまた、そのタイトルを思い出すために、うんうんと考えてしまった。ようやく、ふっと、記憶がよみがえり、そのあとは、瞬く間に眠ってしまったようだった。よかった。


写真は、フォスコ・マライーニの写真集より。大好きな写真のひとつ。しっかりと、心に恥じることなく、生きてゆこう、という気持ちになる。






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by kokoro-usasan | 2016-08-23 12:06 | ことば

しずかな肩には

台風7号が遠ざかっていった東京の今朝は破けたように晴れてどんどん暑くなってゆく。このブログを打ち込んでいるわたしの部屋は、既に室温が32度になっている。僅かばかり感じられる風が、あたかも5月の涼風でもあるかのごとく、幸せなものに思える。暑さの我慢大会をする気はないのだけれど、なんだか、今日は、それを我慢できるようだ。パソコンの前に座った。

母の救急騒ぎは程なく普段通りの暮らしに戻り、普段通りの「ぼんやりとわがまま」をローテーションする母ではあるけれど、救急騒ぎのときに、激しく打ち付けて腫れ上がっていたわたしの足の薬指は、今も大きく親指並みに膨らんだまま、歩くたびに痛む。ちょっと喜劇的。蝶の羽の羽ばたきが地球の裏側の出来事を左右する、という話もあるくらいだものね、と苦笑する。


このところの重苦しい社会の動き(オリンピックの裏側)に沈んでゆく気持ちを立て直したいのだけれど、勇気だとか希望だとかを鼓舞されるよりも、他者の「もっと、重苦しい思い」に黙って付き合っている時間のほうが、わたしには薬になるようだった。書棚から、「渡辺一夫 敗戦日記」を引っ張り出してきて、とろとろと読んでいた。以前読んだときには、あまり印象に残らなかったのだが、今回、この本の最後の一文である「出隆先生のこと」という章に、胸がしめつけられる気がした。言論が弾圧される戦時下において、ひとりの学者が、声高になにかに抵抗するわけでもなく、けれど、自らの信念の幾ばくかは手放すこともできず、ある意味で迷走気味ともとられかねない道をたどった。この恩師の晩年、著者は、庭のマロニエの花の自慢をする静かな彼の暮らしに触れる。ただ、それだけの短い文。けれど、この「微妙さ」が、むしろ、今になって、妙に印象に残ったということの意味を考える。


タイトルの「しずかな肩には」というのは、今朝起きたときに、頭のなかに浮かんだ、ある詩の冒頭の言葉。気になって、詩集を出してきて全文を確かめた。


      位置
                             石原吉郎


しずかな肩には
声だけがならぶのではない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である






もう30年の前、この詩人を卒論に選んだ親友と、つい先日会う機会があった。彼女から、卒論の表紙を、あなたの筆で書いてほしいと言われなければ、わたしはこの詩人を知らずに過ごしたかもしれない。かといって、この詩人について彼女と会話したこともない。ひとりひとりが、しずかにこの詩人と向き合っている。



ふぅ、やっぱり 暑い。みなさん、残暑の折、どうぞご自愛ください。
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by kokoro-usasan | 2016-08-17 10:16 | ことば


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