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たくましさ  やさしさ

e0182926_20132752.jpg今日の夕刊に掲載されていた長有紀枝さんの「悲しみの中の出会い」という文章が胸に沁みた。学生時代の友人がホテル火災で亡くなってから30年、その亡くなった友人のご家族と毎年命日にお参りをして近況報告をしあってきたのだという。長さんが、亡くなった方と過ごした時間はわずか1年だったのに、そのご家族とは結局30年のつきあいになった。同じようなことが、東日本大震災の被災地での支援活動を通じても起こっており、そうした出会いの不思議さ、縁というものの貴重さについて書いておられた。記事は、30年間、毎年ご供養で一緒になった友人のお父上の訃報に接するところから始まっている。お父上は、きっと、長さんたちの成長や、その後の活躍に、ご自分の亡き息子さんの「ありえたかもしれない」時間を重ね合わせてこられたのかもしれない。それだけで、なにか胸が詰まる思いがした。

人が亡くなるということは、もちろん深い悲しみをもたらす。孤独のみならず絶望すら呼び寄せてしまうことがあるかもしれない。だが、そんな時に出会ったひとたちの交流が、その後の何十年にも渡って続いてゆくような暖かい光景を想像すると、人間は儚い存在だが、同時になんてたくましく勇気ある生き物だろうという気持ちもしてくるのだ。

故人のご家族にしても、場合によっては、悲しみを深めるばかりだから息子の同級生にはもう会いたくない、という選択をされることだってありえただろう。自分がその立場だったら、どうだろうか。ふと、そんなことを考える。良い悪いではなく、ひとそれぞれの生きてゆく姿勢について、深い問いがそこに横たわる。

だが、わたしは30年会い続けたご家族も、また長さんらも、素敵だと思う。まさに、それは、長さんの「お師匠」、相馬雪香※の、「ひとりひとりが大事」に通じているような気がする。権利だ、なんだという、振りかざしたそれではなく、「ひとりを大事にすること」という、子供にでもわかるような、そのシンプルな言葉が持つ叡智のようなものを覚えていたい。

昔、目黒でお会いした小さな可愛いおばあちゃんのことを、わたしは今また、懐かしく思い出す。

参考までに。※相馬雪香
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by kokoro-usasan | 2016-02-23 20:56 | きょうの新聞から

無名市民

e0182926_11525397.jpg天気はいいのだけれど、空気が冷たくて、風も吹いているので、凍えてしまう。遅く起きてテレビをつけると、徐京植さんが映っていた。以前お会いしたときと、髪形が変わっていたせいか、最初、すぐ気がつかなかった。もう10年以上前のことになるけれど、徐さんが高橋哲哉さんたちと一緒にある季刊誌を出されていた頃、その季刊誌主催の勉強会があり、八王子のセミナーハウスでお話を伺ったことがある。沖縄の佐喜真美術館の館長さんもお見えになっていて、わたしのような、自分の人生の目的も目標も見出せないような人間が末席を汚しているのが恐縮だったけれど、なぜだか、わたしはそこに居て、しかも、暖かく迎え入れていただけたことを今も嬉しく思い出す。あの頃は、そうした勉強会への参加を通して、少しずつ、本当に、自分が「知りたいこと」「知りたいと望むこと」が何なのかをおぼろげながら手探りし始めていた時期だった。

それはたとえば、幼い頃、テレビのニュースを見ながら、そばにいた父に「イアンフってなあに?」と尋ねたとき、父が「看護婦さんみたいなひとのことだよ」と言い、「慰安」という言葉の意味を、その延長で捉え、素晴らしい仕事なのに、それが、どうしてこんなに問題になっているのかと、単純に首をかしげたような記憶が、大人になるにつれ、ハッと、「合点」することとなる。そのような赤面するような気づきというものを、社会に対して、少しずつ感じ、そうした抑圧の歴史のかさぶたを、そっと指先でめくっては、血の滲んでくる様を確認するような作業が心の中で始まった時期といえるのかもしれない。徐さんの著書は、その意味で、とても示唆に富み、今もわたしにとって、重要な位置を占めるものだ。

ところで、先日、新聞で興味深い記事を目にした。(1月19日付毎日新聞「無名市民の抵抗」玉木研二専門編集委員)ナチスによって命を奪われたユダヤ人の歴史は、私たちのよく知るところだけれど、強制収容所に送られることなく、ドイツ国内に潜伏したまま生き延びることのできたユダヤ人が推定で5000人ほど存在したというのだ。監視と密告の蔓延する中で、一人のユダヤ人を匿うためには、少なくとも7人のドイツ人(非ユダヤ人)の支援が必要とされ、当時1万5000人潜伏していたユダヤ人のうち、1万人は悲劇に見舞われたが、とにかく5000人が一般市民の手によって守られたという史実に、とても感動を覚えた。これは、ユダヤ人にとってはもちろんだが、支援した人間たちにとっても命がけのことだったろう。

一人を匿うために7人必要だとするなら、単純計算で、5000人のために3万5000人の無名の市民が協力したことになる。胸にしみる。しかし3万人といえば、一国の人口からすれば、実はほんの一握りにすぎない。国政選挙で言えば、3万人の得票では、ほとんど何もできないに等しい。だが、この3万人すら存在しなかったドイツという国であったならば、どうだったろうか、と思うのだ。
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by kokoro-usasan | 2016-01-24 12:48 | きょうの新聞から

ジョーティ・シン

「娘の名前はジョーティ・シン」 昨日の毎日新聞のコラム「憂楽帳」はそんな言葉から始まっていた。2012年インドで起きたレイプ殺人事件の被害女性の母親の言葉だ。レイプ事件の多発するインドだが、性犯罪は被害に遭うほうが悪いと中傷されることの珍しくないインドで(インドだけではないだろう)、被害者の実名は公表しないことが多いのだが、娘を失って3年、母親は、娘に恥ずべきことは何もないと、先月、その名前を公表し、性犯罪撲滅の講演を続けているという。

わたしは、2013年5月に、少しだが、このブログでその事件をとりあげている。
「御嶽の森で」
以下に該当部分のみを紹介する。
昨年12月にインドで起きたレイプ事件の顛末もすさまじいものがあった。ニューデリーで23歳になる女子医大生が乗合バスに乗車中、6人の男にレイプされ、最後はバスから放り出されて亡くなったという事件だった。その翌月には、ビハールで集団レイプされた32歳の女性が殺害され、木に吊るされた状態で発見されている。インド内務省による発表では、国内で年間約2万件のレイプ事件が起きており(届けのあったものだけだろう)、女性達が、「政府は我々の母や姉妹の安全を守れない」として抗議デモを起こしている。守れないどころか、国家が、うまい口車にのせて、「母や姉妹」を、あるいは「娘」を、兵士の「慰安」のために供出さえさせた国もある。英霊の御霊は恭しく祀りながらも、そこで無惨に息絶えた「母や姉妹」たちの魂は、時に薄笑いとともに記憶の彼方へ葬られようとする。その薄笑いはどんな心あってのものか知りたいと思う。

この事件の救われなさというのは、犯罪に加わった6人の中に、バスの運転手も入っているということだ。偶発的にそうなったのか、計画的だったのか、詳細は不明だが、普段通りバスに乗って、このような凶事に遭遇した被害者の恐怖を思うとあまりにも痛ましい。

ジョーティさんの母親デービーさんの、「恥ずべきは、罪を犯した人たちと、それを防げなかった社会だ」という言葉をかみしめたい。「それを防げなかった社会」の側に自分だけは無関係であるといえるひとはいないはずだからだ。

ことは、性犯罪に限らない。この世界でおきている紛争は、もはや、国家間の問題などではなく、「金の亡者たち」による世界「乗っ取り」のプログラムによって誘発されているようなものであり、そこには、弱いものたちを身ぐるみ剥いで、野ざらしにすることも厭わない悪がそびえ立っている。その悪を、おそらくは、人類史始まって以来、ずっと下支えし、育みもしてきたものの正体は、ある意味、この小さなわたしたちの生活のあちこちに垣間見える。

わたしは、自分が、いつでも、前述の6人目の「運転手」になりうるのであり、また、いつでも、ジョーティ・シンになりうるのだということを覚えていたい。
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by kokoro-usasan | 2016-01-10 11:49 | きょうの新聞から

スネイク

蛇のようなものが頭に浮かんだ。

一日中家にいたせいで、ひさしぶりに見落としがちな小さな新聞記事について考えている。「蛇のようなもの」とは新聞のことではなく、今日の新聞で目にした小さな記事への感想だ。ネットで記事をリンクするとあとで読めなくなってしまうので、わたしはなるべく記事ごとここに転記していきたいと思っている。

まずはこれだ。(11月5日毎日新聞より・記者名がないので他の通信社からの記事と思われる)

マイナンバー、16市区町村でトラブル
マイナンバー制度を巡って、番号入り住民票の誤交付や、番号通知カードの誤配達などのトラブルが全国16市区町村(2日現在)で発生したことが明らかになった。4日に開かれた政府のマイナンバー制度実施本部(本部長高市早苗総務相)の初回会合で報告された。高市氏は「詐欺対策や国民の理解を深めるための広報に万全を期してほしい」と指示した。

これが「蛇」のようなものの実態。語弊があると、蛇に失礼なので説明すると、蛇の動き方というのだろうか、くねくねと進むあの感じを連想したということ。まっすぐに進まない。この手口にはもう飽き飽きだ。つまり、トラブルが発生したのは、「国民が詐欺にあった」とか「理解が進んでいない」という理由ではなく、「国側の詰めの甘さ」に他ならないのに、高市氏は、それを憂慮し対策を講じるのではなく、マイナンバーに関する「広報」に万全を期してほしいと指示したのである。国民が、行政側の不手際によるどんなトラブルに巻き込まれても、「広報で安心させておけばなんとかなる」とでもいうのか。これこそ、大きな「詐欺」ではないのか。このような、「口先三寸」の国民懐柔策で、やがて大きな破綻を迎えたとき、彼らは間違いなくなんの責任も負わないだろう。

もうひとつは今日の夕刊。

TPPで死ぬ人いないわけではない
水産庁の広山久志水産物貿易対策室長は4日、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の影響を説明する農林水産省の記者会見で、「影響は限定的」とした水産物について「誰ひとり死ぬ人がいないという意味ではない」と説明した。経営難に追い込まれる漁業者が出ることを許容する発言とも受け取れ、漁業者の反発を招きそうだ。農水省の松尾浩則参事官は同じ会見で「影響が見込めないとまでは言い切れないのが限定的の意味だ」と修正。室長は、「混乱を招くようであれば訂正する」と述べた。

テレビは前述の「広報」を期待されている媒体でもあるのだろうから、TPPに関しても、いいことばかり並べているように見える。世界が、戦争の火種に満ちている今、このTPPは、国防という観点からいうと、決して防衛を強化できるような代物ではない。参加しなければ、やがて経済制裁にあうかもしれない内容だし、参加すればしたで、悪代官に年貢を吸い上げられ、そのかわりに悪代官の売るものを無条件で買わねばならないような仕組みがやがて水面下でどんどん進むだろう。これほど食料自給率の低い日本で、安いからといって、これ以上自国で作物を作らず海外に頼るようになったら、いくら兵器を蓄えたところで、飢餓で致命傷ということにはならないのか。そうした不安はおくとしても、上記の室長の発言というのは、どうして、ここで、そのような言い方をしなければならないのか、首を傾げてしまうものだった。「混乱を招くようであれば」訂正するというが、そういう問題ではないように思う。別にその室長個人をバッシングしたいわけではない。 前述の高市氏の発言もそうなのだが、なんだかもう国民という存在が、「邪魔臭い」んじゃないかと思えるような突き離し方なのだ。今の政治、政策そのものに、そういう臭いがぷんぷんするのだ。それは、キャパシティーを超えた任務をさせられている、ということも同時に意味してはいまいか。こういう場所では汚職も起こりやすい。腐敗のツケは、結局、国民が払うことになる。
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by kokoro-usasan | 2015-11-05 17:41 | きょうの新聞から

木馬

10月7日の毎日新聞の社説は「社説」としては少し残念だった。TPPの最大の問題点である「秘密主義」になんら切り込もうとせず、TPP阻止を公約に掲げて政権を取った自民党にも一切切り込んでいないばかりか、「今後は国会審議などを通じてTPPの影響を丁寧に説明し、理解を得る必要がある。」と政府の広報のようなことを書いている。「丁寧に説明する」という政府側の答弁が、これまで、どれほど空疎なものであったかを踏まえて、それでも、その陳腐な修辞を自ら使おうとすることに、なにか割り切れない思いがした。

著作権など、TPPでの合意内容に従って国内法を変えるように進んでいる分野もある。国内法よりも、経済提携が優先ということを前提にしているからこそ、秘密裏に進んでいる要素もあるこのTPPの恐ろしさを思う。社会面では「お肉が安くなる」という消費者の期待の声をすくい、「選択肢が広がった」と記述していた。それはそれで、街の声としていいのだが、例えば、遺伝子組み換えなど、日本が食品安全基準上の表示を義務付けているものなどを、アメリカが「貿易障壁」として表示義務をなくすように求めているというようなリスクを含んだ「安価な食品」なのだということも、できれば一緒に触れてほしい。国民にこうしたことが開示されないまま、いつの間にが食品パッケージから、貿易上不利になる表示がどんどん隠されてゆき、まさに、「表向きは貿易協定だが、実質は大企業による世界統治」に他ならないという警鐘の通りにならないように。


※you tube画面で見ると「字幕」が出ます。数年前の映像だけれど、アメリカ国内でも告発されているこうした議論を通して、この交渉の難しさをあらためて考えさせられる。

TPPは「トロイの木馬」だという言葉が心に残る。どんな政権にとっても、リスクの大きい交渉が今後も続くに違いない。「お肉が安くなる」だけの話ならいいけれど。葉っぱの船で海に出てゆくような気がする。TPP、特定秘密保護法、安保法制、全部、繋がっているんだよね、きっと。
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by kokoro-usasan | 2015-10-08 01:07 | きょうの新聞から

消耗品

先日の国会質疑のときからずっと気になっていたのだけど、中谷防衛相は、今回の安保法制の細かい部分への答弁で、「米国のニーズ」という言葉を何度も口にした。「法的安定性は関係ない」と発言して問題になっている方もいるようだが、国会の質疑において、「米国のニーズ」を基準とした法整備について語る大臣を見たことはわたしにはかなり驚きだった。

為政者の潜在的コンプレックスの悲劇かな。いつまでも「敗戦国」とは言われたくない、そのためには、「対等」にならなければならないというコンプレックスが、「相手のニーズに応えられる国になる」という方向を選ばせているが、世間知らずなために、対等になろうとする虚勢が、相手の思う壺にはまって、「きみならできるだろう」とくすぐられる形で、結局、どんどん、相手に隷属化する蟻地獄になっている。閣僚たちの表情も、信念が感じられず、操り人形のように生気のないものになっている。

「米国のニーズがありませんでしたので・・・」
とりあえず、後方支援に武器はいらず、弾薬まででいいということになったらしいのだ。

今朝の朝刊で、同じく中谷氏が、提供可能な弾薬に「手りゅう弾」も含まれると述べたことが報じられている。以前は、提供できない武器のなかに、弾薬も含まれていたが、今回、その弾薬は「武器」ではないということで切り離され、提供可能になった。そして、弾薬の定義を「一般的に武器とともに用いられる火薬類を使用した消耗品」とした。では、武器とともに使わなくても殺傷能力を持つ手榴弾は、弾薬なのか、武器なのかという審議の席だった。

これに対し、答弁は以下の通り。
「直接人を殺傷するなどを目的としているが、火薬類を使用した消耗品なので提供は可能」

消耗品、消耗品というが、武器とみなされる拳銃だって、戦車だって、事実上、消耗品なわけで、「消耗品」が提供基準であるならば、「解釈上」提供できない武器などなくなる。また、逆に、起爆装置本体のほうを武器というのであれば、手榴弾は、それそのものが「本体」であるから、「武器」とみなし提供不可能と解釈することもできる。

それにしても「直接人を殺傷するなどを目的として」云々という言葉を何回も耳にさせられるのは、嫌なものだなと思う。米国のニーズに従い、日本から遠く離れた場所に住む民間人を、日本人が、「直接殺傷してしまう日」が来ないことを願う。


人だって、いや、人の心だって、ある意味、消耗品かもしれない。直接ひとを殺傷することも厭わなくなることのある消耗品かもしれない。その怖さや悲劇を胸に刻んで生きる。消耗を癒すことができるのはなんだろうか。消耗を超えることができるのはなんだろうか。それを考えたい。


追記
あらま。ついに、ミサイルも武器ではなく「弾薬」と中谷氏。 
定義上は、原子爆弾も、消耗品の弾薬ということね。
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by kokoro-usasan | 2015-08-04 11:27 | きょうの新聞から

「存立危機」

e0182926_10343629.jpg今朝の朝刊で、山田孝男さんのコラム「風知草」を読みながら、山田さんの言葉が以前より段々核心に近づいてきたように思えて、ちょっと嬉しかった。

このコラムは、故岩見隆夫さんのあとを受けて始まったように記憶している。岩見さんの意見は、9条に対する発言や、現政権(安倍氏)に対する採点が甘い点などで、腑に落ちないところがあったけれど、芯の部分にある「暖かさ」に何か信頼できるものがあって、意見が合わないなりに、よく耳を澄ませて聞かなくてはと思わせる言論人だった。

岩見さんは、生前最後の寄稿となった記事(中央公論)において、安倍政権が打ち出してくる現状打開策を、理論的にはそれほど悪くないと思えるとしながらも、安倍氏自身が、自分のその言葉に誠意を持っていないことを懸念されていた。言葉へのセンスが薄いこと。その危惧を、安倍氏に伝える意味もあって、あるメモを渡したが、安倍氏はそれを、さっと自分の上着のポケットに入れて、しっかり話を聞いてくれる様子がなかったことを書いている。この残念さを抱えて岩見さんは旅立たれた。

山田孝男さんが「風知草」を始められたとき、このかたが、どんな論陣を張ってらっしゃるかたなのかよく知らなかったので、以来、割と警戒しながら読んできた。ときに安倍氏を買いすぎているように思えることもあり、それは、岩見さんに通じる点でもあるように感じた。もちろん、なんでも意見の合わないひとを「毛嫌い」していては、ことが急激に動いたときに、粘り強く妥協点を見いだす接点を失ってしまう。「仕損じない」ようなしたたかな目配りは必要なのかもしれない。

今朝の「風知草」で山田さんが書かれていたことは、とても重要なことだが、「言葉へのセンス」が薄い場合、その重要さはおそらく認識できない。そういう類の文章だと感じる。ここでの山田さんの懸念を、首相は理解できないだろうと私には思える。日本語だから、読めないことはない。だが、こうした面と向かって攻撃するのではない、滋味ともいえるものを含んだ深い進言を、「慮る」ことのできる人であるなら、国会であんな答弁を繰り返してはいないはずなのだ。なにを以って望ましい「存立」とするのかも曖昧なまま、「存立危機事態」を法案に盛り込んでくることの「言葉へのリスペクトのなさ」。


風知草:存立危機事態 山田孝男
毎日新聞 2015年06月01日 東京朝刊

 「存立危機事態」という言葉は落ち着かない。言葉は歴史と文化を伴う。新語の「存立危機事態」には歴史がない。文化=社会的伝承の蓄積もない。日本は、アメリカにへつらい、既得権にしがみつく国として存立したいのではない。いたずらな膨張を慎み、諸外国と平和的に共存したいのである。そういう「存立」へ向かう国家意志を明確にする答弁を求めたい。

   ◇

 「存立危機事態」は、武力攻撃事態法改正案に出てくる。日本が直接、武力攻撃を受けていなくても、存立を脅かされる事態なら反撃できる−−。そういう文脈で登場する。具体的にはどんなケースか。稲田朋美自民党政調会長(56)が質問、安倍晋三首相(60)は「日本への武力攻撃が差し迫った場合のみならず、経済が脅かされる場合も対象」と答え、こうつけ加えた。

 「石油などエネルギー源の供給が滞ることにより単なる経済的影響にとどまらず、生活物資の不足や電力不足によるライフラインの途絶が起こるなど国民の生死に関わるような深刻、重大な影響が生じるか否かを総合的に評価し、判断するものであります」(衆院本会議、5月26日)石油の輸入停止も集団的自衛権行使の理由になり得る、というのだ。

 何やらえたいの知れぬ言葉がもう一つある。「重要影響事態」である。
これは重要影響事態法案に出てくる。「放置すれば日本の平和と安全に重要な影響を与える」事態というのだが、はてさて。

 「では、中東からの石油輸入停止のような、日本に軍事的波及のない、純粋に経済的な影響だけで重要影響事態になるか」衆院平和安全法制特別委員会で民主党の後藤祐一議員(46)がそう斬り込んだ際、岸田文雄外相(57)の答弁が乱れた。 はじめ「全く想定しておりません」とキッパリ言ってのけた(28日)が、一夜明けると「総合的に判断します」へトーンダウン。石油確保のため、米軍を支援することもあり得るという含みが残った。これが、先週末、特別委の審議がストップした直接の理由である。

     ◇

 経済産業省が5月連休前に公表した2030年の電源構成案によれば、原子力が20〜22%、再生可能エネルギー22〜24%。6割弱が輸入化石燃料の石炭、天然ガス、石油だ。化石燃料は、依存率が9割近い現状よりは減るものの、豪州、アジア、中東から輸入が続く。

 原発もウランを必要とする(従来はカナダ、イギリス、南アフリカなどから調達)。核燃料を永久循環させる高速増殖炉計画に展望なく、原子力は自給エネルギーではない。かくも広き輸入依存を続け、純国産の再生可能エネルギーを低く抑えるのはなぜか(欧州や米国の一部の州は30年に40%以上を目指している)。供給が不安定で電気代が上がるからだと政府は言うが、輸入依存継続の「存立」こそ不安定ではあるまいか。 安全保障立法の狙いが好戦的なシーレーン(海上交通路)防衛にあるとは思わない。だが、国際社会の信用を得るためには、いたずらに海外資源をむさぼらぬ国と社会をつくるという意思表示も要る。

 小欲知足は日本古来の伝統である。非戦平和の理想は敗戦の反省に深く根差している。そういう日本の存立を守るのだという力強い発信がほしい。=毎週月曜日に掲載



存立危機事態、重要影響事態。考えてみると、これは、時の政府が、自国を「存立危機」に陥らせることが十分にありうる政治外交手腕であるということを、自ら深刻に告白していることに他ならないのではないか。「そうなっても、自分たちが悪いんじゃないよ。ぼくらの国を存立危機に陥らせた相手の国が悪いんだからね。」と、最初からそう言い訳しているような話である。そもそも、この政権が、「存立危機事態」の始まりなのではあるまいか。
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by kokoro-usasan | 2015-06-01 11:35 | きょうの新聞から

原発事故の、そのあとで。

今日も、そっと、無断転載。
わたしは先日「希望の牧場」という絵本を読み、原発事故後も、避難指示に従わず牛を守り続けた方の話を知った。大変な決断だと思った。それ以外の方は、政府の指示に従って、自分の牛たちを置いて避難するしかなかったわけで、その無念さは、牛を飼い続けた方への非難に転じ、「なんで、おまえだけ残っているんだ」という叱責を受けたこともあったらしい。牛を置いて逃げたかたたちの辛い思いは、どんなものだったのだろう、と、そのとき思ったものだった。今日、すこし古いけれど、こんな記事を発見したので、紹介したい。

飼い主がいなくなった柵の中で、飢餓のため、牛舎の柱を齧ったと思われる写真に、読者であるわたしも胸しめつけられるのだ。飼い主だったかたの心はつぶれんばかりだったと思う。


e0182926_12441341.jpg東日本大震災:福島第1原発事故 南相馬避難区域再編3年 牛を置いて避難、小高の半杭一成さん 心の重荷、手記に /福島
毎日新聞 2015年04月17日 地方版

(写真:牛が食べてやせ細った柱に手を当て、原発事故直後に思いをはせる半杭一成さん=南相馬市小高区で)

 ◇後悔乗り越え飼料栽培
 避難指示解除準備区域に再編された小高区大富で酪農を営んでいた半杭一成(はんぐいいっせい)さん(65)は、牛を置き去りにして避難したことへの後悔を乗り越え、避難指示解除を見据えた飼料用作物の実証栽培に取り組んでいる。

 半杭さんの自宅は福島第1原発から約19キロ。原発事故直後は「家族同然」の牛を見放せずにとどまったが、4日後に避難を余儀なくされた。自宅近くに立ち寄った知人から「おなかをすかせた牛の鳴き声はすさまじかった」と聞かされると、頭に牛のうめき声が響いた。警戒区域指定直前に一度だけ自宅に荷物を取りに帰ったが、「自分の犯した罪を見るのが怖い」と牛舎には目を背けたまま、自宅を後にした。

 5月に入って県職員とともに牛舎を確認した。そこで見たものは、白骨化した牛の死骸、それを食いあさる豚、おびただしい数のウジ虫。かじられてやせ細った牛舎の柱からは、生き延びようとした牛の苦しみがはっきりと見て取れた。

 その後、心の重荷と向き合った半杭さんが復興に向けて選んだのは、「牛へのわび状」として手記を発行することだった。同じ苦しみを知る畜産家や酪農家、死骸の処理や野生化した放れ牛などの捕獲に当たった県職員らにも執筆を依頼し、今年2月に「被災牛と歩んだ700日」を発行した。

 業界紙で手記が紹介されると、全国から問い合わせが殺到し、当初発行した500部はあっという間に底をつき、増刷した。泣きながら「私も牛を飼っているので、気持ちが分かります」と訴える畜産家や、「授業に使いたい」と手記を求める教師など多くの反響が寄せられ、気持ちに一区切りがついた。

 現在、半杭さんは飼料用作物の種まき作業に励む。昨年までの作物は基準値を超える放射性物質が検出されたが、農地除染が終わったため、「今年こそは」と期待を込める。しかし、再び牛を飼う気にはまだなれない。「原発でもう一度事故があったら、また牛を置いて逃げないといけないでしょう」。ひとまずは収穫した飼料を売って生計を立てようと考えている。

 手記についての問い合わせは、半杭さんのメール(iri_hangui@krc.biglobe.ne.jp)へ。【高橋隆輔】


今も福島原発は放射性物質を放出し続けている。なにも収束していない。むしろ、これから、徐々に、もっと深い被害があらわになってくると思われる。首相は、福島は「完全にアンダーコントロール」と世界に向かって胸を張り、そうやって射止めた東京オリンピックも、見通しの甘い杜撰な計画が明らかになり、あれもこれも袋小路に入りつつある。都知事も偉そうに、今になって政府に意見したりしているが、彼だって、その杜撰な計画を、「多くの人が指摘して、無理だ」と忠言しているのにもかかわらず、イケイケで就任したのではなかったか。今、ごねているのは、あまりに押し付けられる経費が大きくなってしまって、都政に影響が出てくるのに恐怖を感じているからだろう。恐怖を感じるのが遅すぎる。

政府は暗い話は一切しない。なるべく、幸先のよい明るい話を国民にしたいというのには一理あるかもしれないが、その明かりが、本物ではない。変な光線に照らされて、眩しすぎ、見たいものが見えない明るさは気持ちが悪い。明るいのではなく、目くらましなのだ。目くらましは、目をつぶす。
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by kokoro-usasan | 2015-05-19 13:07 | きょうの新聞から

パリ・レピュブリック広場

e0182926_9442981.jpg















(フランスの週刊誌「シャルリーエブド」を襲ったテロ犠牲者を悼む集会に集まった人々。パリ中心部の共和国広場で。1月7日 AP)

毎日新聞でこの写真を見たとき、なぜだか、とてもパリが懐かしくなりました。日本人は、なにか言いたいことがあっても、根回し、根回しで、自分が表立って恨まれたりしないような方策を立て、また、そのように、責任の所在がはっきりしないことを、「みんなが」喜ぶように思えます。責任の所在を曖昧にすることを条件にしてしか賛同を得られないことも多いのです。「出る杭は打たれる」からです。

だから本当は、この国には、「民主主義」はないのかもしれません。世間様と歩調を合わせる「世間主義」なのじゃないかしら。国家権力の横暴に抗するときも、自分という人間の個の意見を、「世間」という曖昧な世論形成のなかに紛れ込ませながら発信する。わたしも、きっと、そのひとりです。(大きなうねりのなかで、国家が選択を誤らないならば、それも、悪くないかもしれませんが。)

上記の写真に写っているひとたちは、古くから繋がっている同志たちでもなんでもない。ただ、ひとつの許しがたい事件に対し、それはいけないこと、自分たちの自由を脅かすこととして、「non!」を表明せずにはいられなかった人たちなのだろうと思います。人間が、「自分の姿を見せて」抗議するということは、時に、とても大事なことです。ここには、「世間様」意識はないように見えます。

とはいえ、だから、どこの国はいい、というような話ではありません。どこの国にも、理不尽な問題は山積しています。今回、この写真を見て、懐かしいなぁと思ったのは、「自由」への意思を、垣間見せられたからなのだろうと思います。意見の違いで人を殺す自由が許されたら、生きてゆく自由を担保することはできなくなる。人間が勝ち取りたい自由は、生きてゆく自由、表現の自由のはずです。そのためには、相手の生きてゆく自由を奪ってはならないはずで、このことは、今回のような大きな事件でだけ問題になるはなしではなく、日々、足元で起きている問題のすべてに含まれているのかもしれません。

「構造的」に、じりじりと、人と人を乖離させ、挙句は殺し合いにまで促すような、そのような悪の仕組みは、とても静かに巧妙に人間の肌に染み込んでくるのかもしれず、そのように体が捻れてゆくのであれば、その逆の方向に、捻り戻してゆく力を、鍛えてゆけるようなりたいなぁと思います。

ちょっと、話がそれますが、今日、テニスの錦織選手の番組をテレビですこしだけ見ました。彼は、基本的なことの「反復練習」を、マイケル・チャンコーチに指導されていました。あるピアニストのかたが、基本は、「ハノン」と言っていたのと同じだなぁと思いました。
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by kokoro-usasan | 2015-01-12 09:43 | きょうの新聞から | Comments(0)

けあらし

a)今朝の毎日新聞の朝刊に掲載されていた写真がとても素敵だったので・・・。e0182926_2124556.jpg
※釧路湿原の上流に位置する北海道鶴居村の雪裡(せつり)川に、国の天然記念物タンチョウが数百羽集まっている。時にはエサを求めてエゾシカも姿を見せる。(毎日新聞2014.1.7朝刊/写真・文 手塚耕一郎)

b)今年は、新しい本を読むかたわら、「再読」をもっと大切にしようと思う。今日は、武藤類子さんの「福島からあなたへ」を読み返しているところ。

c)政治家が貧しいひとに対してこんなに意地悪でいいのかしら。メディアはメディアで、「公正に報道する」なんて言うけれど、水俣学の原田さんが以前書いてらっしゃったように、立場のとても弱いひとと、とても強いひとがいた場合、その中心点は、シーソーでもわかるように、限りなく弱いほうの立場のひとの近くに置かないと釣り合わないはずだから、そうやって自分なりによく考えて割り出した中心点から、世界を眺め直してみられるようになりたいなぁと思う。
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by kokoro-usasan | 2015-01-07 23:09 | きょうの新聞から | Comments(0)


閉じられていないもの


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