カテゴリ:追想( 20 )

人間を。3

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続々・「無意識に人間を撮るシリーズ」

これは柵越しだったこともあり、あまりうまく撮れていない一枚。15年も前の一枚だから、自分でも撮った経緯を覚えていない。子供に目がゆくので、最初、子供に惹かれて撮ったのかなと思ったが、よく見るとそうでないことがわかった。

わたしの目は、きっと左がわのおじいさんを見ていたのだと思う。「おじいさんと子供」を撮りたかったのだ。そういえば、パリでは、おばあさんが戸外で子供の面倒を見ている姿はあまり見かけなかったけれど、おじいさんはよく子供の傍にいたような気がする。




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by kokoro-usasan | 2017-12-11 12:50 | 追想

人間を。2

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続「無意識に人間を撮るシリーズ」

随分昔のことになるが、職場の近くにある書店の前で友人と待ち合わせしていた。仕事が終わって急いで駆けつけると、友人は書店の向かい側の地面にぐったりと足を投げ出して座り込んでいた。この写真の男性は、人通りの多いこの場所で悠然とタバコを燻らせていたけれど、友人は魂が抜けかけているような沈痛な面持ちで、もし顔見知りでなかったら、怖いと感じるくらい荒んだものを体からにじませながら、通り過ぎる人たちを睨んでいた。いや、彼があのとき睨んでいたのは、もっと違うものだったかもしれないけれど。なぜ、そこまで傷ついているのか、冷たいかもしれないが、わたしは彼に問わなかったし、彼もなにも触れなかった。ただ、よっこらしょと立ち上がるのを手伝って、一緒に歩き始めただけだ。

写真の男性は、むしろ、どこか充足しているようにも見えた。いずれにせよ、「こんなふうにわたしもできるだろうか」 なにかとても強いその問いかけが自分を底から押し上げるようにしてシャッターを切らせた。






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by kokoro-usasan | 2017-12-07 09:22 | 追想

人間を。

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いい機会だから「無意識に人間を撮る」シリーズにしよう。この写真も忘れがたい。ひとりで死ぬことを、暖かい毛布にくるまって眠れることのように錯覚できる時間というのがある。この男性が、わたしの視界をゆっくりと横切っていったとき、なにかとても懐かしいものが胸に満ちたのだった。




追記
印象深い写真なので、これまで何度か紹介したことがあるのですが、このブログでも既に紹介していたのに気づきました。
http://kokousa.exblog.jp/15218785/
写真を撮ったのは2002年、このブログで前回紹介したのは2011年、そして、今年は2017年。そのたびに、添えるキャプションが違うことが、気恥ずかしくもあり。

そういえば、若さゆえなのか、もう二度と書けないだろう研ぎ澄まされた表現を、自分の日記のなかに認めることがごく稀にあり、過去の自分に嫉妬します。一方で、「そうは言い切れなくなる自分」を労わる思いも芽生えます。ここを過ぎて、もっと過ぎて、たとえば、5年後があるとするなら、わたしは、この同じ写真を見て、どんなキャプションをつけるのだろう、ふと心が宙をさまよいました。








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by kokoro-usasan | 2017-12-06 14:19 | 追想

雑感

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無意識に人間を撮ってしまう。このご時世だから、気をつけないと、カメラを取り上げられて「肖像権が」と注意されてしまうこともあるかもしれない。この写真は2002年10月、ポンピドゥー美術館でのもの。イブ・クラインの作品の前で、子供たちが、クライン・ブルーについてのレクチャーを受けていた。みな、思い思いの格好。


ところで、そんな懐かしい写真とは関係なく、社会情勢への不安は日々募る。
岩波の「世界」12月号に掲載された笠原十九司氏の寄稿が心を捉えて離さない。

歴史修正主義。洗脳を力強い抱擁のように受容してしまう精神性は、ある意味祝福された境地といえるのかもしれないが、自他を疑う心をどこかに内在させていない情動がわたしは怖い。





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by kokoro-usasan | 2017-12-06 11:32 | 追想

おみなえし

e0182926_12481471.jpg同僚にフラワーアレンジメントの達人がいて、当初、わたしが、野の花を自己流に活けていたのを見かねたのか、いつの間にか、彼女がいつも素晴らしい生花を活けてくれることになった。彼女が不在の日に、他の職員が、水の取り替えなどをして少し花の佇まいが変わってしまうと、一瞬で、生気のない雰囲気になってしまうのであり、彼女が出てきて、その指で、ささっと手入れをすると、これもまたショッキングなほど、花たちが嬉しそうに蘇るのだった。その変化を目の当たりにした職員たちは、みな、その勘所を知ろうと、その手つきをじっと見入っていたりするのだが、彼女自身が言う通り、それは、「彼女のアレンジメント」なのであり、「人となり」が出るものらしい。ぱぁっと周りが明るくなるような「華」のあるアレンジは、やはり、彼女そのものであるように思える。一方、職場の清掃をしてくださっている年配の女性もまた心得のある方で、トイレの洗面台に、いつも一輪挿しを活けてくださる。その簡素な味わいも、わたしは大好きなのだ。

自分の「花」は、どんな佇まいなのだろう。誰かが活けてくれた花瓶の花を見るたびに、このごろ気になる。そこで、自宅でも様々に活けてみることが、最近日課になった。同僚のひとりは、教室にまで通い始めたらしい。草花を用いて、表現の幅を広げてみたい気持ちもあるのだが、もう少し本音のところを自分の胸に問うてみると、路傍に生えている花を見ているだけで十分満足だ、という気がしないでもない。

それでも、1日のなかに、花に触れ、花を見つめている時間を持つことは、なかなか素敵なことだ。心が穏やかになる。

ところで、先日来、おみなえしの花を活けていたら、部屋のなかに異臭が漂い始めて驚いた。最初、おみなえしから発しているものだと気付かずに、紙おむつをしている母をくんくん嗅いでしまい、母には失礼なことをした。面白いことに、その異臭は、一方向にわかりやすく飛散せず、部屋のあちこちに、溜まるように漂っている。おかしいなぁ、掃除もしているしなぁ、もしかして、わたしが臭い?と、不本意ながら自分自身を嗅いだりもした。そのうち、おみなえしを活けていたときに、ふっと感じた臭さを思い出して、やっと匂いのもとを突き止めることができたのだけれど、言ってみれば、獣くさい匂いだったので、目には見えない獣の霊が、家のなかにいるのかと、そこまで考えてしまったくらいだった。(考えすぎとよく言われる。笑)

おみなえしにこんな一面があったのだなと驚いていたら、中学一年のときの国語の先生が、いつか東京を去って故郷の新潟に戻り、そこで「おみなえし舎」という名の私塾を作りたいのだと夢を語ってくださったことを思い出した。おみなえしの黄色い花の咲く野原の彼方に見える小さな学び舎。部屋のなかにあったら臭う花も、広々とした草原で風に吹かれていたら、それも自然の摂理くらいにしか思わないだろう。

先生は、その年の夏休みに、「直情径行」と書かれた「残暑見舞い」をわたしに贈ってくださったのだけれど、それが先生の信念なのか、わたしに必要なことと思って書かれたのか、いまだによくわからない。わたしは、彼女から「おみなえし舎」の話を聞いた時、「それじゃ、わたしもいつか、そのおみなえし舎の先生になりたいです」、と答えた。そのとき以外、「教師」になりたいと思ったことは一度もなく、そのときも、学課は、「お習字」と自己申告している。  あんまり他者の夢に便乗しちゃだめだよ、と今では思うけれど。

わたしの心のなかにだけある幻の「おみなえし舎」の風景が、懐かしい。






※本文とまったく関係のない追記

このところ、新聞等で政治家の発言を見るにつけ、実(じつ)がどこにあるのかさっぱり見当がつかないため、 与野党、派閥、なんにつけ、読む気がしなくなっている。どこの党が、ではなく、どの党にも、食わせ者がおり、彼らの肚のうちというのは、党是等に関わらず、驚くほど似ているのが恐ろしい。つまり、「どの党」とかではなく、「食わせ者」を見分けなければならないのだが、なんだか、暮らしも逼迫して、だんだん国民そのものの味覚が、「食わせ者」の毒に鈍感になってしまいそうなのだ。一億総食わせ者社会とでもいおうか。(別に自分を棚にあげてはいない。自戒をこめて、だ)

最近ちらほらと、ゾンビのように「共謀罪」の話が蘇ってきたようで、それもこれも、みんな、現首相が、第一次内閣のときに果たせなかったものだったなぁと遠い目になる。教育基本法の改正(改変)に始まって、戦前の日本、というより、戦時中の日本が、このひとの理想なのかと思ってしまう。

共謀罪というのは、余程の怜悧な知性をもってしても、扱いにくい性質を持っており、それを左右する権力の出方では、本来の犯罪防止という名目よりも、言論統制に効果を発揮すると理解していいのではないかと思う。しかし、それに効果を発揮するなどと、事前に吹聴するわけにもゆかないだろうから、その効果を期待しているひとは、肅々と、それが施行されるまで沈黙し続けるつもりに違いない。

唐突にこんな話を始めたのも、先ほど、ふと、故中山研一さんのブログを読み返していて、共謀罪に関する記事にあたったからだった。2007年の記事だ。そう、リアルタイムでこの記事を読んだことがあったなぁと思う。実(じつ)のある人の言葉が読みたい。長い追記ですみません。ご容赦。
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by kokoro-usasan | 2016-08-29 20:53 | 追想

e0182926_11533117.jpgマルセ太郎さんのことを思い出した。

今月7日に永六輔さんが亡くなっていたことをニュースで知り、黒柳徹子さんもいよいよ寂しい思いでいられるのだろうなぁなどと考えていた折のことだ。

そういえば、今年の初めの「徹子の部屋」に、大橋巨泉さんと永六輔さんが二人揃ってゲストで出られていたが、お二人とも満身創痍の状態であり、「これが最後のテレビ出演」「徹子さんの番組だから出演する」というようなことを語っておられた。実のところ、見ているのが辛くなるような時間だった。でも、見ることができてよかったのだと思う。なにか肚の底に、錘となって降りてゆくものがあったから。

聞こえのいい紋切り型の呼びかけ、あたかも、「九九」の暗唱でもしているように、ほとんどなにも考えずに繰り出されているように聞こえる政治的な言葉、言葉、言葉。周到に、かつ執拗に、ひとつの方向に鞣されて、やがて、ある種の耐性を植えつけられてゆく革のように、心もつるつるに去勢され、みな、同じことを言い、同じことをするのが「美しい」という風潮にどんどん視野を狭められてゆくのだろうか。


マルセ太郎さんは、2001年にすでに他界されているが、まだ、お元気なころに、その「芸」を見たことがある。おそらく1980年代の終わりか90年代の始めくらいだったように思う。当時、世の中はバブルだというのに、わたしは精神的にまったく途方に暮れていて、そのせいなのか、光が当たっていないものばかりを選んでは、目を凝らして見つめるような時間を過ごしていた。あるとき、永六輔さんが、丸一日かけて、体力が続く限りのトークショーをやるという新聞の記事を目にし、失礼ながら永さんご本人にそれほど関心があったとは思えないのに、その我慢大会のような試みに興味を持ち、突如出かけてみることにしたのだった。そのときに永さんがゲストとして紹介されたのがマルセ太郎さんだった。永さん絶賛の、猿の芸も披露された。

とても怖い人だと感じた。実際の風貌も、眼光が鋭くて一種異様な雰囲気を持っているのだけれど、その人が、猿になりきって、舞台の上を動き回っている。猿。けれど、その芸のなかに、強く人間を挑発してくる何かがあった。そして、その挑発は、皮相的な煽りというものではなく、もっと、深いところを目指して突き進んでくるような真剣味のある重量を持っていた。ドスが効いていたのだ。あのとき、「あぁ、怖いなぁ」と感じたのは、おそらく、敬意だったのだ。この芸人さんが発散するものに、敬意を覚えていたが、それを明確に自覚するには至らず、ただ得体のしれない困惑のなかで、じっと射すくめられるように舞台を見つめていた。その経験は、わたしにとって、けして小さなことではなかったのではないかと思う。

自分が、どんなとき、どんなものに、「敬意」を覚えるか、わたしたちはそれほど自覚的ではないのかもしれない。でも、自分といういきものが、どんなものに敬意を感じるのか、そういう深みに触れる経験は、それが思いがけない出来事として現れてきたとしても、なにか、不思議と、人生を貫いている何かであるような気がしてならない。

彼は、猿を演じながら、まがいもなく相当の胆力を持った人間であることを匂わせた。わたしたちは、人間を演じながら、ときどき、猿であることがばれてしまいそうだ。いや、それでは、猿に失礼だろうか。










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by kokoro-usasan | 2016-07-14 12:33 | 追想

公園 (札幌)

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   いつも、空はあって。
ある場所で行き止まりのように思えても、別の場所へ向きを変えれば、まだ自由にふるまえる場所があるのだと思えてきました。

行方不明になっていた古い写真の箱が見つかって、少しずつアップしていましたが、きりがないので、そろそろ「時の旅」も帰途に。

わたしのパソコンはとても古く、デジカメも持たない為、画像のよくない携帯のカメラの写真しか載せられずいつも欲求不満でした。かといって、写真好きということでもなく、気がむいたときしかカメラは持ちません。ですから気がむいたときに撮った写真というのは、よほど気がむいていたのでしょう。(笑。他人事のようですね)
スキャナーで取り込んだこれらの写真は、思いがけず大きく添付されて、現像した写真自体は小さなものだったのでとても面白かったです。細かいところがよく見えましたし。また機会を見て、載せてみたいと思います。
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by kokoro-usasan | 2011-08-12 13:50 | 追想 | Comments(1)

廻廊

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触れられないから撮るのでしょうか。そっと手のひらのかわりに。
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by kokoro-usasan | 2011-08-12 00:37 | 追想 | Comments(0)

街角2 (パリ)

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季節はずれな写真ですが。この3人、話している雰囲気がわたしには親子に見えました。様々な組み合わせの親子を見ましたが、この雰囲気には、どこか小津映画に繋がるようなドラマ性があって忘れられない一枚です。ちょっと甲斐性のなさそうな息子と、そんな息子に何度騙されようと、何度でも信じて期待して暮らしている老夫婦、そんな感じがしたのです。自分の親のことを思い、ちょっと身につまされました。
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by kokoro-usasan | 2011-08-08 11:52 | 追想 | Comments(1)

森 (パリ郊外)

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ブローニュの森は、木漏れ日の中にありました。
大きい子が小さい子をこういう形で引率している光景をパリではよく見かけました。日本の子供たちも、こんなふうに大事にしてもらえているといいなぁと思います。
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by kokoro-usasan | 2011-08-06 21:28 | 追想


閉じられていないもの


by kokoro-usasan

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