カテゴリ:庭の楽しみ( 24 )

秋海棠

e0182926_1050294.jpgしばらく前から秋海棠の花が咲き始めており、これまでそれほど関心を持たなかったその花が、今年は妙に愛らしく感じられてならない。それは多分、この安田靫彦の絵葉書のせいなのだろうと思う。作為のない実にシンプルな絵なのだけれど、「あれ、秋海棠って、こんな可愛らしい花だったのだ」と、画家の眼に教えられた。この絵葉書を手にいれたのは、晩春の頃だったので、いかに気に入ったとはいえ、友人に送るには季節はずれと考え、早く、秋が来ないかなぁと待っていた。

今朝、昨夜の雨に濡れた庭の秋海棠は、風情を増して、ひっそりと咲いていた。前回の花の話と少し関係するかもしれないが、東北の山深いところで育ったわたしの友は、幼い頃から、野山の草花に親しんできた。華道というものを習ったことはないけれど、野に咲いている風に花瓶に活けることならできる、とずいぶん昔、わたしに言ったことがある。それは別に謙遜でも自慢でもなく、花を彩りやシェイプを構成する花材として捉えることができないということ、野に咲く花たちが、けして花束のオブジェのように咲いていることなどない、ということへのささやかな抗議、というか、不安の混じった言葉だったように思い出す。

この草木のしたには、いつも、この野花が可愛く咲いているの、
この花が咲くころには、その向こうに、あの花がよくゆらゆら揺れているの、

そういう自然の風景のひとこまを切り取るように花瓶に活けることはできるけれど、そうではない活け方は、なんだか気持ちが悪くてできない。もう25年近く前、彼女がまだ野山に遊んだ記憶の近い時期の話だったので、東京のなにか装飾のための装飾のようなデコレーションに疲れてつぶやいた言葉だったかもしれない。

デコレーションって、人間の集団を束ねるという感じに、どこかちょっと似ているな、と最近思った。様々な特色を持つひとたちを、どのひとも映えるようにうまく配置できると、すてきな花束のようになるのだろうか、と。自然界では到底そのような配置ではないはずでも、色合いや形や様々な要素を巧みに配慮して、並び替え、支え合わせ、発信力の大きなものに束ねてゆく。うまくゆくと、それはとても華やかな美しいものになりうる。 フラワーアレンジメントを見ていて確かにそう思う。

でも、その一方で、束ねられることもなく、ほとんど見逃されそうな場所で、ひとすじに己を咲いている花を見ると、やはり、なにかとても癒される。心はなんて欲張りなものだろうか。




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by kokoro-usasan | 2016-09-04 11:55 | 庭の楽しみ

no title

e0182926_1112148.jpg漢字で書くと、この左のお花の名前は、鬼田平子さん。おにた・ひらこさんではなく、オニ・タビラコ。こんな小さな花なのに、「鬼」なんて言われてしまう。

e0182926_1141331.jpg右のこちらは、方喰さん。カタバミ。夜になると葉っぱが閉じて半分になってしまう。半分食べられてしまったように見えるということで、この名前なのだとか。家紋に多い。日本の武将は、こんな爪の先ほどの花を、自分たちの家紋にするほど、自然に親しんでいたと思うと、生き死にに近い場所での人間の感性について考えさせられる。

庭。自分で植えた花木はもちろんだけれど、こうした、自然の摂理のなかで、その場所を得て現れてくるたくさんのたくましい命たちが眩しい。

だが、この花たちがもし、武器を持って、絶えず他の花を撃ち合うような生き物だったら、どうだろうか。
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by kokoro-usasan | 2016-05-05 11:20 | 庭の楽しみ

ちいさきもの

e0182926_931288.jpg表玄関から庭へまわる細い通路に「とおせんぼ」するようにぽつんと咲いていたアカバナユウゲショウ。
とてもとてもかわいい。フウロソウに似ているけれど花弁の数が違うようです。夕化粧という名前ですけど、朝から咲いてます。どこかからひとつぶだけ種が飛んできて、けなげに咲いてくれたらしい。もっと増えてくれてもいいなぁ。

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それを見守るようにユキノシタがこれもまたひっそりと、でも満ち足りた様子で咲いている。


e0182926_943489.jpgちょっと不思議なデザインのコンランカというお花。白い葉のように見える部分が萼で、その中央に黄色い星型の小さな花をたくさんつけます。鉢で買いましたが、地植えでの越冬は、寒さに弱いので無理なようです。


e0182926_952566.jpgさて、紫陽花シリーズは、先日の「伊予の十字星」に続いて「伊予しぐれ」が咲き始めました。

薄い赤紫だった伊予の十字星とは違い、こちらは、淡い水色。楚々とした感じで涼しげです。

e0182926_9562473.jpgねね。
これも素敵でしょう。これは「九重山」という種類で、伊予しぐれと同じ日に開花しました。薄い紫色。この色も好きだなぁ。黄緑色の葉っぱとのコントラストがいいです。写真で見ると大きさがわかりませんが、これらは、まだ鉢入りのものなので、みなとても小さいです。地植えして大きくなってゆくのが楽しみ。


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大きくならないあなたも好きよ。
カタバミの花。

そして・・・。


e0182926_101562.jpgきゃぁー。こ、こ、これはーー。先日植えたアサガオの種が芽を出して、もうこんなにわさわさと人口過密状態で、「はやく間引きしろー」「移植してくれー」と訴えています。(ぷれっしゃー!)

きょ、きょ、きょうは、ちょ、ちょ、ちょっとこれから用事がありますんで、あ、あ、あしたでもよろしいでしょうかね。根っこが伸びて、からまっちゃうと大変ですもんね。あーーー。申し訳ない、あした、あした、あしたまで待たれい。うえーん。
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by kokoro-usasan | 2015-05-23 09:46 | 庭の楽しみ

ちいさいつぶやき

e0182926_23225196.jpg玄関先の、普段ゴミを出す場所に(わたしの自治体では、ゴミは各家の玄関先に出します。集積所はありません)に咲いたタンポポ。この場所が好きみたいで、何代にも渡ってここで、ゴミの番をしている。



e0182926_23262884.jpgゴミが持って行かれてしまったので、ご無事で・・・と見送る。向こうに見えるのは、街路樹のイチョウの木の根元と、その横で、親の後ろに隠れた子供のような風情でこちらを見ている紫陽花。

草木に、勝手な物語をこしらえて、妄想膨らませる。

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ゴミ番たんぽぽさんが気になっているのは、紫陽花さんだけではない。すぐ目と鼻の先にいる姫ひおうぎさんも、潤んだ目で、たんぽぽさんを見つめている。カメラのピントのほうも、潤んでしまった。




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背丈25センチほどの小さな山アジサイ。五つある山アジサイの鉢の中で一番最初に開花したのは、「伊予の十字星」という名前の花だった。紫陽花は梅雨時のイメージがあるので、曇り空を好むのかと思ってしまうが、お日様の光が大好きなのだそうだ。水やりしつつ、せっせと日に当てよう。そのうち地植えして、梅雨時には、庭が紫陽花苑のようになるのを軽く想像してみる。


よく、「真っ白なキャンバスに自分の色を塗ってゆこう」なんてフレーズがあるけれど、個人的には、「それは大変だなぁ」なんて思ってしまう。(いきなり、水をさすようで面目無い)  言葉のあやで、そう書かれているフレーズではあるのだけれど、「真っ白なキャンバス」というのが、わたしは、ちょっと苦手なんだと思う。なんだか手で汚したくなる。シミだってつけちゃいたくなる。ひっかき傷なんかも素敵。そんなふうになったキャンバスに向かって、やっとそこで、自分が置きたい色と対峙し、きゅんとする最初の動作が始まる。そんな感じの創作が、きっとわたしは好きなのかもしれない。イメージでの話ではあるけれど。
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by kokoro-usasan | 2015-05-19 11:14 | 庭の楽しみ

雑感とりとめなく。

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庭の片隅にひっそりと咲いていた白い花を職場に持っていって黄色い山吹の花と一緒に活けておいたのだが、それをご覧になった方が皆、この白いのはなんの花?とおっしゃる。実はわたしも名前を知らなくて歯がゆい思いをしていた。今朝、やっと、分かった。分かってみると、その花の名は、よく知っているもので、あぁ、これが、あの有名な花なのかと、初めて名前と実体が一致して、少し嬉しかった。そう、これが「馬酔木」なのだ。

e0182926_9453142.jpg庭の一方では、今、椿が咲きこぼれるばかりに花開いていて、朝な夕な、地面の上に、手のひらの大きさほどもある花が、惜しげもなく落ちている。そういえば、馬酔木も椿も万葉集の時代から、歌に詠まれていて、例えば、

 三諸は人の守る山 本辺は馬酔木花咲き 末辺は椿花咲く うらぐはし山ぞ 泣く子守る山

という歌もある。まさに今の季節ということだろうか。「うらぐはし」というのは、愛しいとか、美しいというような意味だ。もともと「うら」というのは、心という意味があるので、美しいという意味を持つ「ぐはし」に付いたことで、風景が美しいという意味だけでなく、心の中から、気持ちが洗われるような好ましい愛しさがわきあがってきている様子を詠んだものなのだろう。馬酔木が咲き、椿がこぼれる、そんな三諸山を、泣く子をあやすように大事に守り慈しんでいる。人間の心は、千年以上、変わらない部分を抱えているのだと、なにか、ひどく、遠い気持ちになる。

e0182926_1003273.jpg庭はなかなか面白い世界で、1日の中で、光の当たり具合がとても複雑に変化していることに、最初、わたしは気づかなかった。だから、どうしてこんな薄暗いところにこんなにたくさん元気に花が咲いているのだろうと首をかしげることが多かった。しかし、それは、わたしが見るときに(多くは同じような時刻)、そこに日が当たっていないということに過ぎず、たとえば、日がな1日、ずぅっと同じところに座って見ていれば、ある時間帯になると、まるで天啓のように、その薄暗かったひともとにも、鮮やかな日光が差し込んでいることが分かるというものなのだ。「こんなところに・・・」という「こんなところ」に隠されている恵、もたらされている光を、わたしが知らないというだけのこと。

e0182926_109767.jpg柿の若葉がだんだん美しく芽生えてきた。株価操作によるアベノミクスの「恩恵」が全国津々浦々にトリクルダウンされれば、景気は回復し、人々は豊かになると首相は言った。トリクルダウンは、理論的に無理だろうと指摘されれば、「トリクルダウンなどとは言っていない。底上げを狙っているのだ」と言い逃れといもいうべきブレを見せた。株価操作で「底上げ」など、すでにこれだけ格差の生じている社会では、富が好ましい形に分配されるべくもないわけで、そこに思いを寄せられない彼は、やはり根っからの「お坊ちゃん」なのだ。大方の貧しい人々に必要なのは、年間200万足らずの所得が300万になることよりも、200万で十分に生きてゆける社会を作ってもらえることだ。株価操作で景気をつりあげなければ青息吐息になってしまうのは、むしろ、こうした貧しい家計の人たちではなく、株式投資で多くのお金を動かしている人たちであり、彼らの資産を減らさないために、政府は躍起になっている。こうした「虚」の経済発展は、造花を見るようで、息がつまる。

e0182926_102813.jpg「こんなところに・・・」と安易に人の暮らしを見くびるようなことはすまい。ここは日もあたらぬ貧しい場所よと、その花たちの真の幸せも慮ることなく、根こそぎに直射日光のあたる乾燥した場所に移し替えたり、時刻がくれば、そこから日が差し込んでいた場所に、安易な植樹をして、もはや一日中、光の射さない場所にしてしまうようなことはすまい。「豊かさ」は、画一化され得ないものと知らねばならない。豊かさと貧しさのどちらかを選択しなければならないのではなく、豊かさの意味を、人がそれぞれに選択できる自由がほしいし、少ない年収で、より多くの豊かさを実感できる国ほど、豊かだということではないのか、という気がわたしはするのだ。むろん、アメリカをはじめとした国際的な競争社会の中に組み込まれて、そこから抜け出せば、もはや命はないと、生存を脅かされながらの経済構造のなかでは、どの楔から緩めていけばいいのか、茫洋と物思わざるを得ないのだが。

e0182926_1051688.jpgところで、一昨日の新聞で田中優子さんが書いておられた話が心に残った。田中さんが総長を務める法政大学には、1972年、当時の総長であった中村哲氏によって「沖縄文化研究所」が作られた。かねてより、法政大は沖縄研究のメッカであり、70年に入学した田中さんも、大学で、沖縄文学研究の第一人者である 外間守善(ほかましゅぜん)の講義を受けたという。田中さんのその記事が印象的だったのは、わたしが知らなかった次の事実に触れていたからだ。これは、とても示唆的なものだった。つまり、その沖縄文化研究所ができた年、法政大学の法学部には、ある二人の青年が在籍していたということ。同じく法というものを学び、法治のあるべき姿を学んだ二人の青年の名前は、ひとりは翁長雄志、もうひとりは、菅義偉である。

そのふたりが、今、日本の中央で、再び、相見えることになった。沖縄の自治、沖縄の意思を伝えるため、政府を訪問する沖縄県知事と、それを拒む内閣官房長官として。田中さんは、静かに語る。菅官房長官のふるさとは秋田である。秋田には、鉱山をめぐって江戸幕府と対峙し、藩を守り抜いた歴史がある。今、沖縄を守るために、政府を訪れた翁長氏を、彼はどう思うのだろうかと。

政府がとなえる「地方創生」とは、「政府の言いなり地方創生」ということなのだろうか。

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e0182926_11121074.jpgうちのチューリップはなんだか、好きなように、好きなところに咲いてる。

このところ、長文ばかりですみません。つれづれに書いているとこうなります。本屋さんで庄野潤三の新刊(もう故人ですが)が出ていたので買ってしまった。「鳥の水浴び」(講談社文芸文庫)。そういえば、子供の頃飼っていたセキセイインコのぴーちゃんも、暖かくなると、よく水浴びしてたなぁ。鳥って、水浴びするとき、もう「無我夢中」というか、一生懸命というか、見てるとなんだか笑っちゃうようなところがあったのを思い出す。そういうことを、そっと見つめていられる幸せを思う。ぴーちゃんの体温を覚えている。
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by kokoro-usasan | 2015-04-17 11:20 | 庭の楽しみ | Comments(0)

続・4月の庭

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a)
今年もひっそりと苧環(オダマキ)が咲いた。風情のある静かな佇まいで、地味でありながら、人に一目置かせる雰囲気のある花だ。その向こうには、掌ほどの小さなシクラメンの苗が、赤い花をこぞって咲かせている。この苗は、一昨年のクリスマスに買ったミニチュアサイズの鉢植えで、花の時期を終えたあと、さしたる考えもなく、庭に植え替えたものだった。昨年のクリスマスの時期には、葉こそ土から出しているものの、花を咲かせる気などまるでなさそうな素振りだったので、こうして、観葉植物のように庭に根付くつもりなのだろうと思い定めてしまっていた。しばらく前から、ぽちりと赤いものが葉の陰に見え、おやと思って、「へぇ、えらいねぇ、花がひとつ咲きますねぇ。がんばりましたねぇ」と誉めていたら、ひとつどころではなく、土から生えるように、おしあいへしあいしながら、蕾が現れ始めたのだった。植物にも「気に入る場所」があると言う意味が、このような出来事を前にすると、合点がゆく。何気なく植えたその場所が、この子には、合っていたのだろう。また、鮮やかなラナンキュラスの花は、昨年の春は球根の植える向きを間違えて枯らしてしまったため、今年は、無事、育つのを祈るように見守っていた。そして、石楠花(シャクナゲ)。この石楠花は、我が家の庭では、最古参に入るもので、そろそろ寿命と10年程前に宣告されたらしい。それこそ、撫でさするようにして、もう一年、もう一年と、開花を眺めてきた。今年も、咲いてくれた。華やかなのに、どこか儚い夢にまどろんでいるかのようなそんな表情をしている。今日はこれから天気が崩れるという。とりどりに囀る鳥たち、くぐもったキジバトの声。野生のものたちに、さす傘はない。そこにある敬虔。きのうまで強く吹いていた風も今朝は止んで、空の色は西からの雨の到来を予感させる。空気が湿り始めた。


e0182926_11191613.jpge0182926_11195528.jpgb)
前回も述べたが、蒔くでもなく、植えるでもなく、ただ、気づけばそこに息づく野の花たちには、また別の感慨を抱く。これらの花たちの、けして手当てされ世話されることのない今生でありながら、充分に自足した佇まいの静かな明るさ。好ましさ。

4月もあと二日ばかり。今月はあまり更新しなかったが、4月のまとめとして、あと一回、更新できればと思う。波立つものも、せせらぐものも、ふと息をとめて、じっと見つめていたくなった。その止めた息のあいだに、手をあげて救いを求めている何かを、捜し当てねばならないと思った。
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by kokoro-usasan | 2014-04-29 11:45 | 庭の楽しみ | Comments(0)

4月の庭

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a)
早咲きの大輪のチューリップたちが散っていったあとの庭に、ちょっとクセのある遅咲きのチューリップたちが開花し始めた。バレリーナと名づけられた鮮やかなオレンジ色のほっそりしたそれは、思いがけず薔薇のような芳香を漂わせており、早朝の庭、どこに薔薇が咲いているのかと思わずあたりを見回してしまったほどだった。また八重咲きのそれは、ロココの貴婦人のようなサーモンピンクの衣装を纏い、チューリップというよりは、牡丹のような華やかさだ。けれど、わたしにとって、何かしみじみとこの庭を得がたいものに感じさせるのは、木漏れ日の下にある苔むした小道であったり、縁石のそこここに微妙な配置で息を潜めている野の草や、その楚々とした花たちだった。どのようにして、彼らは、この庭にその居を定めたのであろうか。あずかり知らぬ、というそのことに、おのれの預かり知らなさも含めて、ふと浄められる思いする。

b)
昨年、怠惰ゆえに放置しておいた庭は、迷信を信じて、抜くことを躊躇った「母子草」をはじめ、所謂雑草のはびこるままだったのだが、所詮は枯れてしまうのだから、その盛衰を任せておけばいいと思ったのは、ある意味、正解で、だが、ある意味、大きな間違いだった。枯れ果てた雑草たちは、土の奥で、けなげな根を懸命にはりめぐらしていたわけであり、ゆえに、ゆたかに成長していた美しい苔を駆逐することになってしまったのだ。苔が剥げて、黒い土肌をあらわにした場所に、枯れ残った去年の草の茎たちが散らばっている。これらの茎が、どのような草の残骸なのか、わたしには思い出せない。この草を今年もはえるがままにしていたら、我が家の苔は、さらに駆逐されてしまうことになるだろう。そう思い、やっと、庭に本腰で向き合う自覚が出てきた。朝な夕なに、庭にしゃがみ、草の芽を抜いている。子供の頃に見た母の背中を思い出す。母もよく、同じように、庭にしゃがみこんでいたものだ。小柄でふくよかな往事の母の丸い背中は、どこかユーモラスな雰囲気を醸し出していたが、わたしの背中はどうだろうか。おそらく、もうすこし、やさぐれた、いじましいものかもしれない。だが、わたしはことこのことに関して、ある種の納得を得ようとしている。「ことこのこと」とは何か。おしなべて、何もうまく行かなかった過去に対し自らが抱いてきた得体の知れない挫折感と、中島敦の「山月記」でもあるまいが、そうした挫折に自らの非を省みることのない高慢で臆病な自尊心のようなものである。

貧弱な枯れ茎を指でつまめば、それは存外に地を掴んでけっして離そうとはしないのであり、そうやって掴まれた土は、固くてらてらとした表を出して、他の種子を受け入れる縁を閉ざされているかのようだった。だから、その土を解放してやるべく、わたしは、執拗に根をはるそれらの茎をひとつひとつ慎重に抜いている。それは、どこか、自分のなかの硬直を毟るような感覚であり、それは、根を張る執拗さ以上の執拗さで、毟られてしまわなければならないのだと思えるのだった。

e0182926_12274570.jpgc)
隣家の柿の木を、まるで我が家の木でもあるかのような近しさで見上げながら、今年も若葉の美しい季節がやってきたことを喜ぶ。昨夜、米国の大統領が空港から黒塗りのリムジンに乗り込むのをテレビで見ながら、わたしは隣で夕飯を食べていた認知症の母に、質問した。「そういえば、お父さんが昔、おまえは、おれたちのところに、黒塗りのキャデラックのリムジンで運ばれてきたのだ、と言ったことがあるのだけど、それはほんと?」母は、ともすれば、「お父さん」というのが誰だかもわからなくなるときがあるのであり、はなから、答えなど期待していなかったのだが、ふっと記憶が混乱するような表情を浮かべたあとで、「わからない」と答えた。そうだよね、そんな目立つ車で、極秘に養子に出すような親はいないものね、好きな樹の根元に、思い出の宝物を埋める子供のように、たとえまがいものとわかっていてもささやかな作り話が、ときに懐かしい。
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by kokoro-usasan | 2014-04-24 12:56 | 庭の楽しみ | Comments(0)

3番目以降は。

ささやかに、愛らしく、開花中なのですが、新年度体制にむけて、若干、あたまが仕事にシフト中のため、なにやら、画像を並べただけのいい加減なアップですみません。

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小さな水仙が、チューリップの芽ぶきを見守っているような画像が可愛らしいなと思う。チューリップとヒヤシンスは、現在、たくましく成長中で、開花はもうすこし、あとになるだろう。わたしが、職権を濫用して、職場の敷地に埋めまくったチューリップの球根も、順調に生育中。同様に、一昨年、職権濫用で、植えてもらったソメイヨシノの若木も、元気に育っているのが嬉しい。近く、ささやかな花見ができることだろう。結局、わたしは、「物言わぬ」イキモノたちに、いつも救いを求めている。職場での、微細な建物修理、保全、ゴミ拾い、敷地内での植物の(無断)栽培等々の行動を、そんなことはいいから、事務室でしっかり職員を指導管理せよと、わたしに止めるものがあったなら、わたしは、見る影もなく萎びてゆくことだろう。
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by kokoro-usasan | 2014-03-22 12:50 | 庭の楽しみ | Comments(0)

2番目

e0182926_202577.jpg我が家の花壇で、本日、開花誕生日をむかえたのは、この子でした(小さいけれど、アイリスの一種です)。クロッカスが一番手だったので、この子は2番手です。きのうまでは、まったく目に入らなかったのに、今日、仕事から帰って、庭を見回っていたら、しゃきっと咲いていました。草花って、ときどき、びっくりさせられますよね。「自分の庭」なんて思っていますが、そうそう手入れするわけでもなく、一言で言えば、ほとんどほったらかしなのに、植物たちは、懸命に、「わが道」をしっかり歩んでいて、偉いなぁって思います。「親はなくても子は育つ」って、まさにこのことかな。いやぁ、でも、わたしは「親」じゃないですね。植物のほうが、わたしのご先祖様かなにかのように、いろんなことを教えてくれます。

それにしても、この子、こんなところに植えた覚えがないのに、出現しました。去年、咲いていた場所から、遠く離れています。球根を植えた人は、みな言いますが、球根って、土のなかを、絶対、旅してますよね。笑。

人間は、土の中で暮すわけにゆかないから、土の中で、種や球根や、樹木の根っこなどが、どんなふうに育っているのかずっと観察することができないけれど、宇宙ステーションみたいなのが、土の中にもあって、「あ。今、チューリップの球根Aが、東に向って移動しています。おや。クロッカスBが、もぞもぞし始めています。どうやら、移動開始のようです」とか、じっくり観察できたら楽しそう。

ついでに、もっと深くもぐって、地底、海底で、不穏なことをしていそうな超大国の動向などもしっかりつきとめて、白日のもとにさらしちゃおうかしら。
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by kokoro-usasan | 2014-03-15 20:29 | 庭の楽しみ | Comments(0)

庭と、テレビと。

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庭の蝋梅が開花しました。まだふたつだけ。でも枝先には黄色くてまんまるな蕾が無数にくっついていて、もうしばらくしたら、あたりがいい香りに包まれることでしょう。きのう、今日と、幾分暖かな日が続いています。

大晦日の紅白歌合戦、ちらちら見ていたのですけど、印象的だったのは(あまりよくない意味で)、おおかたの歌詞がひどくやせ細っていたことです。言葉がいともたやすくポキポキと脱臼し、詩に深みも豊かさもありませんでした。歌心としての、遠近法がないため、世界が立ち上がってきません。それは、歌唱とかパフォーマンス以前のところで感じた疑問で、あんな貼り合わせ編集のような詩では、メロディーが気の毒な気がしました。(実のところ、メロディーも貼り合わせ編集仕様ばかりでしたけどね)音楽ってもっといいものなのに。でも、どんまい。もっと豊かな歌を聞かせてくれる歌い手は、テレビの中じゃなくて、自分で遠くまで探しにゆくものなのだもの。

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日差しが柔らかで気持ちよかったので、少し庭仕事をしました。母が縁側に座って、わたしの背中を見ています。不思議だなぁ。わたしが母の背中を見るのではなく、母が、わたしの背中を眺めているなんて。そんな時間が、わたしたち母子の間に流れる日がくるなんて。枯葉を寄せ集めていたら、万年草の根元に、こんなグリーンピースのような芽が生まれていました。もちろん、グリーンピースではなく珠芽(しゅが)というもので、枯れた茎に芽吹いたあと、それが土に落ちて、種の役割をするのだそうです。万年草は、黄色い花が咲くのですが、ただ咲くだけで種を作らないので、茎が頑張って、自力で「種」を作っちゃうんだとか。(なんか可笑しい)急に枯葉を取り除かれてしまって、きっとびっくりしたんじゃないかと思い、もう一度、枯葉のふとんをかけてあげて、もう少し暖かくなるまで、ぬくまっててもらうことにしました。このところ、霜柱がすごいし、裸じゃ可哀想ですよね。

ゆうべは、夜更けまで刺し子などしていて、当初テレビドラマをつけっ放しにしていたのですが、それが終っても、刺し子は終らず、もうちょっと、もうちょっとと思っているうちに、深夜番組に移行していました。昨年、テレビで話題になった放送番組について、ゲストが思い思いに語る内容だったのですが、その中で、ゲストのお一人が(すみません、ちゃんとは見ていないので、誰が誰だかよく判らず)、震災を扱った番組のことに触れておられました。そして、震災に関する被災者からのエピソードの中で忘れられなかったものを話されたのです。わたしもそれを聞いて、これは・・・と思ったので、ここに書きとめておきます。それは津波から助かった女性の話で、一緒にいたご主人は目の前で流されて亡くなられたそうです。そのご主人は、結婚何十年かの間、いつも「おい!」としか奥さんのことを呼ばなかった。ところが、津波で流されてゆくとき、奥さんのことを、名前で呼ばれたのだそうです。流されながら、「ヒデコ!ヒデコ!」って。奥さんは、生死の境目、今生の別れでもあるようなそんな場面だったのに、ご主人が、「自分の名前を知っていた」んだと思って、びっくりしたのだそうです。もちろん忘れてなぞいなかったでしょうけれど、「おい」としか呼ばれなかった奥さんとしては、ご主人が、自分のことを名前で呼ぶのを聞いたのが、このとき初めてといってもいいくらい稀なことだったのですね。そして、それがご主人との別れとなった。奥さんは、そんな大事なときだったのに、あら?あのひと、わたしの名前を知ってたんだと思ったりした自分のことをあとで悔いたそうです。この話、わたしも忘れられそうにありません。悲しい話ですが、それだけではないあるものを、しっかりと心に残してくれたように思います。
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by kokoro-usasan | 2014-01-03 11:18 | 庭の楽しみ | Comments(0)


閉じられていないもの


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