カテゴリ:つぶやき( 383 )

復興詐欺五輪

2020年も、東京の夏は、今日のようにうだるような暑さかもしれない。

この暑さを一定の温度に保ちながら、スポーツ競技を行うには、どれだけの電力がいるのだろうか。「復興五輪」などと、だれが、どの口で言えるのか。福島はこの6年でどれだけ復興できたというのか。3年後のオリンピックで、どれだけ被災地の復興がすすむのか。「復興詐欺五輪」という言葉のほうが似合っている。

お金は、本当に必要なひとたちの頭上を通り過ぎてゆくばかり。なけなしの税金の使われ方さえ、誰かが金儲けするための資金援助に流用されてゆく。上げた消費税で、なにか福祉政策が潤ったか。なにからなにまで縛りがきつくなって、打ち切られる支援ばかり多いのはなぜなのか。その一方で、意味不明のポストが増え、それにともないまたぞろ多くの予算がとられてゆくのは、どういう「手腕」のなせる技か。






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by kokoro-usasan | 2017-08-08 22:19 | つぶやき

世界の彼方にあるすぐ隣の肩

今日の朝刊にガッサーン・カナファーニーの著作※に関する書評が掲載されていて、居ずまいを正して読んだ。河出文庫に入ったらしい。わたしがガッサーン・カナファーニーを知ったのは、2004年に創刊された「前夜」という季刊誌でだった。(その後、内容のまったく異なる同名の雑誌が刊行されたが、ここで言う「前夜」は岡本有佳さんが編集人となって影書房から発売されていたもの)カナファーニーの「ガザからの手紙」という作品が岡真理さんの翻訳で掲載されていた。中東の文学に触れたのは、わたしにとって、これが初めてだったかもしれない。その数年前に、私鉄の駅のホームで、イスラエルから来日して旅をしているという女性に声をかけられ、車中、お互いたどたどしく会話をかわしたのだが、その女性の目の哀しさが印象的で、話せば、「自分の国のしていることが嫌で旅に出た」と言うのだった。語学力の不足もあって、それ以上深い会話ができなかったが、「自分の国のしていることが嫌で」、いつかわたしも旅に出なければならない日がくるのだろうかという不安が心をよぎった。自己決定で旅に出るならまだしも、もっと悲惨な運命をたどっている数知れぬ人々が世界には存在する。金髪で小柄なその女性の華奢な肩を今もよく覚えている。

カナファーニー、じっくりと、読んでみたい。



  ※ ガッサーン・カナファーニー「ハイファに戻って/太陽の男たち」(河出文庫)



毎日新聞「今週の本棚」より 備忘録
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by kokoro-usasan | 2017-08-06 11:43 | つぶやき

セピア色

新緑が少しずつ深まってゆくなかでの雨は、辺り一帯が、緑がかったセピア色に包まれたかのようで、どこか非現実的な空気感を漂わせいる。

快晴の日と雨天の日で、こんなにも世界は違って見える。そのことが不思議で、意味深な世界の采配について考えてみたくもなるけれど、このところ、わたしの頭はあまりものを考えたがらず、皿を洗ったり、椅子に座ってつかの間テレビに見入ったり、また立ち上がって、雑巾で気になる場所を拭いてみたりというような、自分自身の立ち居振る舞いを自分で俯瞰しているような奇妙な時間を過ごしている。

介護休職して半月。単に、怠惰が始まっているということだろうか。こうやって、社会から脱落してしまうのだろうか。そもそも、社会とは、「どこ」にあるのだろうか。

それにしても、人間が、いえ、わたしが、すこしでも誠実に生きてゆこうとするにあたり、毎日、実に有害なことが発生している。主権在民のこの国に生きる以上、いかに日々憤激の思いを抱かなくてはならないとしても、為政者の動向から目を背けるわけにはいかないわけだけれど、政治以前の、政治家らの心根への懸念でこんなに心を乱されるのは、納得しがたい。

直近の問題で言えば、野党から提出された書面に対し、「怪文書」などという政府側の答弁があったが、わたしから言わせると、この数年の政府の答弁ほど、「怪答弁」だったものはない。怪答弁のオンパレードだ。そんな怪答弁ばかり浴びせられてきたせいで、たとえば、先日の、ある意味明らかに怪しい立ち回りをしている籠池氏なる人物の証人喚問での答弁が、非常に清廉なものに見えたくらいだ。聞かれたことに、きちんと答える、この基本が守れないで、なんの質疑だろうか。どこに議論の足場を築けばいいのだろうか。

「経緯については語れない」と野党からの質問をかわす一方で、己の立場を補強したいときには、その「経緯」にあたる部分を、聞かれもしないのに縷々しゃべっている。この矛盾に自分で気づきもしない答弁も、いくつか見受けた。

自然がセピア色に見えるひとときは嫌いではないけれど、政治が気味の悪いセピア色で、よく色合いが確かめられないのは、とても不幸なことに思う。





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by kokoro-usasan | 2017-05-26 16:53 | つぶやき

個人的な、あまりに個人的な。

今の政権になってから、閣議決定の中身が、中学校のホームルームみたいなレベルで驚く。「そもそも」とはどういう意味かなどということを決めるのが国の政治だろうか。

誰かも言っていたが、国会が、まるで首相個人の「自己実現」のためのメンタルカウンセリングか、ヒアリングのような場になってしまっている。膨大な経費を使って、首相の願いや悩みを「聞いてあげて」、彼がうまく表現できなかったり、コミュニケーションに支障が出た場合は、取り巻きたちが、懸命にフォローして、メンタル落ちしないよう支えている。彼がよく、「丁寧な説明を」と国民に言っていたのは、政治の話を丁寧にするのではなく、彼の支離滅裂な言葉を、丁寧に取り繕って説明する、ということでしかなかったようだ。これでは、政治的な議論が深まらないわけだ。(むしろ深めないで済ませたいのだろうが)

「そもそも」とは、どういう意味かなどということを、ただ首相の面子のためだけに「閣議決定」までする一方で、国家の重要な政策に関しては、「ここではお答えを控えさせていただきたい」で逃げ切ろうとする。国会議員が国会の「ここ」じゃなくて、どこで答えるのだ。そもそも、「そもそも」こそ、どこか別の場所、読売新聞のインタビューあたりで心ゆくまで釈明されたらどうか。あまりにも考え方が本末転倒だ。

だいたい、「首相夫人」を「私人」と閣議決定しておきながら、外務省のHPでは、昭恵夫人はいまだに「日本政府要人」として紹介されている。日本政府要人に、国家公務員が同行するのは筋が通っているが、「私人」のプライベートな旅行に国家公務員が同行して職務として補佐するなどという「ダブルワーク」を国は認めるのか。つくづく、節操のない話だ。






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by kokoro-usasan | 2017-05-13 19:09 | つぶやき

犬マップ

前回の「てんとうむし」の記事は、それっきりで、続きませんでした。あしからず。

いろいろあって、なにかについて腰を落ち着けて書くという状況にないのだけれど、友人が、いよいよツイッターを利用し始めたのを見て、なんだか、「短いつぶやき」もいいかもしれないなぁ、なんて思う。

わたしもツイッターをやってみようかと考えて、自分らしいアイコンを、あたまのなかでいろいろ想像してみた。真面目過ぎても、くだけすぎてもよくないなぁ。昔、飼っていた犬の写真あたりはどうだろうとふと思ったが、なんだか、勝手に拝借するのも犬の霊(?)に申し訳ないような気がして気が進まない。

そんなこんなで、その犬の写真を眺めていたら、彼は「秋田犬」なのだけれど、秋田犬というのは、柴犬とはずいぶん違う顔をしているのだなぁと、今更のように思った。(追記あり)子供の頃は、日本の犬と、西洋の犬、という感じのおおまかな分類で覚えていた。だから、友達から、どんな犬?と聞かれると、柴犬の大きいやつ、と答えていたような気がする。でも、今、あらためて写真を見ると、これは柴犬とはまったく異なる雰囲気の犬だと思う。

まぁ、そういう細かいことにこだわらない(わからない)おおざっぱな子供だったわたしは、「あんたんち、なに犬? 柴犬?」とか聞かれて、「うちは番犬」と答えたくらいなので、なにをか言わんやなのであるが。

でも、仕事にゆく道すがら、最近は、番犬をほとんど見なくなった。犬も猫も室内で飼う、という感じになってきたのだろう。かつては、みな、玄関先に犬小屋があって、そこに鎖に繋がれた犬がふて寝しているような姿をよく見た。近寄ると警戒して吠えるが、「顔なじみ」になると、たやすく懐柔される。

今でも犬小屋で飼われている犬たちを見ると、大抵が柴犬や秋田犬などで、あと、まったく摩訶不思議な風貌の巨大な犬を2頭も飼っている家もある。見るたびに「大きいなぁ」と思うけれど、いつも、玄関前にベターっと伸びて、目を閉じているばかり。ときどき、ちろっと目を開けるけれど、またけだるそうにすぐ目を閉じる。こっちが、「わん!」とか言って驚かせたくなるが、驚かせて、襲いかかられても困るので、想像だけにする。他にも、たぶん秋田犬なのだけれど、目が妙に寄っていて、なんだか、目が合うと、笑ってしまう犬がいる。自分のファニーフェイスを知ってか知らずか、挙動も、どこかひょうきん。そのうえ、無類の女好き(?)で、かわい子ちゃんがお散歩で通りかかると、ありったけの甘えた声を出して、ふがふがと興奮し通し。しかし、わたしが知る限り、かわい子ちゃんのほうから、「あら?いい男!」的レスポンスがあったことは一度もない。ちょっと気の毒な気もして、様子を伺うと、ファニーフェイスが虚しく宙を見ている。悪いけど、くすっと笑ってしまう。犬にもいろんな性格があるんだよね。

それと、ここ10年近く、もうそろそろ寿命なのかなぁと心配しながら、いつも気にしているビーグル犬。ときどき、足を4本とも突っ張って犬小屋の前に寝ているので、「あ、死後硬直か!!」と心拍数をあげるのだけど、幸いなことに、翌日見ると、のろのろ動いているので、ほっとする。あの犬は、10年前、すでに老犬に見えたのだけど、実は、子供のくせに老犬風な佇まいだっただけなのだろうか。いやぁ、そうも見えなかったけどなぁ。でも、長生きしてて、よかったよかった。


わたしの犬は、大きい割に、気が小さくて、なんでも人に頼ろうとするし、頼ったら頼ったで調子に乗って失敗して、あとで叱られるというタイプの、あまり頭がよろしくない、でも憎めないタイプの子だった。それでも、わたしよりも、どんどん先に歳をとり、最後はおじいちゃんみたいになって、そうだ、おじいちゃんみたいになってたのだけど、死ぬ間際、子犬だった頃みたいな顔になってわたしに甘えた。だって、わたしたちきょうだいだったんだもの。子供の顔で甘えていいんだ。

あぁ、あぁ。こんなにだらだら書いちゃって、やっぱり、わたしには、ツイッター、無理かなぁ。



追記
秋田犬は柴犬とは全然違うのだなぁと思ったけれど、そのあと、秋田犬をパソコンで検索したら、秋田犬と柴犬は、結構似ている。あれーーー。じゃぁ、うちの犬は、なに犬なのだろう。秋田犬って、父からは言われていたのだけれど。たしかに、あのファニーフェイスの子こそが秋田犬だ。うちの犬は、丸顔のシェパードみたいだ。丸顔のシェパードって、なんか笑える。いやぁ、混乱。
すみません、いい加減な内容で。とりあえず、「番犬」ということで・・・。涙




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by kokoro-usasan | 2017-05-05 16:49 | つぶやき

サイレン

夢のなかで、見知らぬ男性が、ついておいでとわたしに促し、自販機の前まで案内してくれた。ほら、水が飲めるよ、と言う。喉が渇いていたのかどうか、自覚がないけれど、ずいぶん親切なひとだなと、とまどいながら感謝する。男性が、自販機のボタンを押して、出てきたペットボトルを取り上げると、ほら、とまた、わたしに差し出す。え、くれるの?と思いながら、ぼんやり 、こちらも手を出す。すると、男性は、「んなわけないでしょ」という顔で、そのまま、そのペットボトルの水を自分でごくごくと飲み干すのだった。

あ。

ちょっと、呆然とする。なんで、このひとは、わざとそんなことをするの?と思う。でも、なんだか、可笑しくなってくる。そういう「イジワル」、むかし、誰かにされたような気もする。それで、笑って喧嘩したことがあるような気がする。わたしが、あっけにとられている顔を、そのひとは、さも面白そうな、してやったりという顔で、見返すのだ。

なによ。
なんなのよ。

でも、夢のなか、そのひとが、わたしに言いたいことがわかるような気がした。

自分の水は、自分で手に入れろ、と。


目が覚めた。

今、わたしは様々な決断を迫られ、その決断の難しさからくる苛立ちや不安を時に周囲に小出しにして、「もうすこし、わたしの身にもなってよ」という雰囲気を漂わせる。そして、恥じ入り、後悔する。相手には相手で、「もう少し、わたしの身にもなってよ」という事情があるはずだ。では、わたしは、いつも、それに適切に対応できているのか。だれもが、みな、自分の事情のなかで、綱渡りしているのではないのか。

自分の水は、自分で手にいれる覚悟を決めるのだ。

このところ、ウグイスが、さかんに歌の練習をしている。楽しくて仕方がないというふうに聞こえる。練習しているうちに、すてきなフレーズがふいに飛び出してきて、自分でも一瞬、とまどっているかのよう。それでまた、絶え間なく練習する。すごいものだなぁ、と思う。

隣町のあたりから、間延びした「うおーん」というサイレンが聞こえる。真偽のほどはわからないのだけれど、それは、隣町にある少年院から、少年が脱走を企てたときのサイレンだと聞いたことがある。彼らの脱走は、ほとんど未遂に終わるか、すぐに連れ返されることになるようだが、その話を聞いて以来、その「うおーん」というサイレンを耳にするとき、なぜかわたしは、心拍数がほんのすこし上がる。

語弊があるけれど、「このままでいられるかよ」という少年の思いを、まるでそのサイレンが、少年のかわりに知らしめているかのように思えるからだろう。

わたしも、心のなかで、サイレンを鳴らす。






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by kokoro-usasan | 2017-04-23 10:33 | つぶやき

河童

夜更けにふと、「河童の川流れ」という言葉を思い浮かべようとして、「河童の質流れ」と言ってしまい、ひとりでウケてしまった。質入れされた河童を想像する。なんだか、干からびて萎んでいそうだ。質流れに比べたら、川流れのほうが、ましだろうか。

静かな春の夜に、そんなつまらないことを考えている。

それにしたって、株価で、人間の幸せが左右される社会など、もはや人口の9割くらいのひとは望んでいないんじゃなかろうか。それでも、水を張ったバケツに無理やり頭を沈められるようにして、異なる幸せなど求めないように押さえつけられる、その9割のひとびと。つまり、9割は、質ぐさということか。ひからびて、よぼよぼの。





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by kokoro-usasan | 2017-04-19 00:53 | つぶやき

逆ドミノ

忖度なのか欲得なのか打算なのか、そこは人それぞれなのだろうけれど。たとえば、不可解な権力を前にしたとき、とりあえず、話を合わせておいて、うまく利用しながら、同時に、お目付役として、暴走は食い止められる立場に身を置いておけるようにしよう、と、自分の能力にそこそこ自信のある人物は思うのかもしれない。ところが、ずるずると泥沼に足がはまり抜け出せなくなる。暴走をくいとめるどころか、有能さが裏目に出て、かえって暴走を加速させる側になってしまったりもする。

「とりあえず、話を合わせておいて」という自らへの言い訳は、実は、自分で思うほど軽い判断ではないのかもしれない。とりあえずだろうが、深慮の上だろうが、そのひとは、ドミノ倒しのドミノのひとつとしてあえなく倒れたことに違いはないのだ。

今後は、「違うと思ったら言われてもやらない」「おかしいと思っているのに話を合わせない」ということを、誰かと結託してではなく、自分一人で、それぞれのひとが、それぞれの場所で、静かにやってみるといいような気がする。逆ドミノは、そこからしか始まらないのではないか。





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by kokoro-usasan | 2017-04-16 00:37 | つぶやき

たあいないきもち

先日、ネットでこんな言葉を目にし、なにか胸に沁みた。

「石ころはつねに結果(偶発的な、また必然的な作用の結果)である。
行きどまり、句点、精算書、つねに過ぎてしまった時である。
石が墓標になるのは偶然でない。
石は過ぎてしまった時のしるし、等質で、等密な、
だが不可逆的な時間の保証者である。」(宇佐美英治)


旅に出ると、石ころを拾わずにはいられない自分の習癖を思った。逆説的にも思えるが、旅はわたしにとって、「行き止まり」の確認でもあった。そして、石は、確かに「精算書」のようなものでもあったのかもしれない。石で終わったもの、石に封じ込めたもの、そして永劫に沈黙を守り通すもの。「不可逆的」という一種の安らぎの着地点を、悲劇にさえ求める心。

持ち帰った石ころを手のひらにのせ、撫でさすり、凝視し、「なるほど」と、どこにも「なるほど」と言える思考もないままに、ささやかな「行き止まり」の姿を自ら承認し、本棚の上や、飾り棚の片隅、小さなガラスの器に置く。それは、土地の土産などではなく、やはり、私自身のなんらかの墓標といっていいものかもしれなかった。

その一方で、わたしは、種を買い、球根を求め、芽吹いては枯れゆくものにも「教え」を乞うた。「行き止まり」が「消失」である生命もまた、わたしには必要だった。一瞬の色、華やぎ、しなり、発散と、消滅。

そんなことをたあいなく考えていて、ふと、戸外の風の強さに気付かされる。風か。風は何と言っているか。





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by kokoro-usasan | 2017-04-07 10:34 | つぶやき

彼岸の雨

e0182926_11494910.jpgチェブラーシカの話題があって。

チェブラーシカってどんな顔をしてたかなと、想像で描いてみた。簡単なはずなのだけど、意外に思い出せない。こんな感じだったかなぁとペンをおいて答え合わせをしてみたら、鼻のかたちが違っていた。

こんないたずら書きをするなんて、「アタシ、かなり凹んでるカモ」という感じ。道理が通らなすぎて、チェブラーシカなんか描きたくなってしまう。今日は雨。咳が少しおさまってきた。

チャック・ベリーの訃報。これ、ろっくんろーるの原点だよね。わたしがこどものころ、読売ランドの屋外ステージで、まだ売れてない野口五郎がこれを歌ってた。わたしは、となりのトランポリン広場で、トランポリンしてて、履いてたズボンのおしりが破けて、みんなに笑われたものの、「でも、この、ごーじょにー、ご、ご、ごーって、かっこいいじゃん」って思ってた。やぶけたズボンは、引率の先生が、「仮止め」してくれて、そのまま帰った。恥ずかしくなかったのかねぇって今になって思うけど、あんまり、その記憶がなくて、「ごー、ごーじょに、ご、ご、ごー」って、家に帰ってからも、鼻歌うたってたことのほうは覚えてる。


もう、すこし、心のリハビリが必要なので、雨の散歩にでかけてみることにする。そういえば、きのうは、ちゃんと墓参りに行ったでござる。自宅の庭の花や葉や枝をいい感じにまとめて、お供えしてきた。花屋さんにゆくと、この時期、やけに価格が高くなっていて、菊ばっかりだし。「ほら、おとうさん、庭の花だよ」なんて言いながら、おそなえしたけれど、なんか、「おとうさん」が、その墓のなかで一年中じっとしているとも思えなくて、「ま、いつも見てるとは思うけどね」なんて、ドライに自分でダメ出し。お墓の花たち、今頃、みんな濡れそぼっているのだろうな。





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by kokoro-usasan | 2017-03-21 11:59 | つぶやき


閉じられていないもの


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