カテゴリ:つぶやき( 378 )

サイレン

夢のなかで、見知らぬ男性が、ついておいでとわたしに促し、自販機の前まで案内してくれた。ほら、水が飲めるよ、と言う。喉が渇いていたのかどうか、自覚がないけれど、ずいぶん親切なひとだなと、とまどいながら感謝する。男性が、自販機のボタンを押して、出てきたペットボトルを取り上げると、ほら、とまた、わたしに差し出す。え、くれるの?と思いながら、ぼんやり 、こちらも手を出す。すると、男性は、「んなわけないでしょ」という顔で、そのまま、そのペットボトルの水を自分でごくごくと飲み干すのだった。

あ。

ちょっと、呆然とする。なんで、このひとは、わざとそんなことをするの?と思う。でも、なんだか、可笑しくなってくる。そういう「イジワル」、むかし、誰かにされたような気もする。それで、笑って喧嘩したことがあるような気がする。わたしが、あっけにとられている顔を、そのひとは、さも面白そうな、してやったりという顔で、見返すのだ。

なによ。
なんなのよ。

でも、夢のなか、そのひとが、わたしに言いたいことがわかるような気がした。

自分の水は、自分で手に入れろ、と。


目が覚めた。

今、わたしは様々な決断を迫られ、その決断の難しさからくる苛立ちや不安を時に周囲に小出しにして、「もうすこし、わたしの身にもなってよ」という雰囲気を漂わせる。そして、恥じ入り、後悔する。相手には相手で、「もう少し、わたしの身にもなってよ」という事情があるはずだ。では、わたしは、いつも、それに適切に対応できているのか。だれもが、みな、自分の事情のなかで、綱渡りしているのではないのか。

自分の水は、自分で手にいれる覚悟を決めるのだ。

このところ、ウグイスが、さかんに歌の練習をしている。楽しくて仕方がないというふうに聞こえる。練習しているうちに、すてきなフレーズがふいに飛び出してきて、自分でも一瞬、とまどっているかのよう。それでまた、絶え間なく練習する。すごいものだなぁ、と思う。

隣町のあたりから、間延びした「うおーん」というサイレンが聞こえる。真偽のほどはわからないのだけれど、それは、隣町にある少年院から、少年が脱走を企てたときのサイレンだと聞いたことがある。彼らの脱走は、ほとんど未遂に終わるか、すぐに連れ返されることになるようだが、その話を聞いて以来、その「うおーん」というサイレンを耳にするとき、なぜかわたしは、心拍数がほんのすこし上がる。

語弊があるけれど、「このままでいられるかよ」という少年の思いを、まるでそのサイレンが、少年のかわりに知らしめているかのように思えるからだろう。

わたしも、心のなかで、サイレンを鳴らす。






[PR]
by kokoro-usasan | 2017-04-23 10:33 | つぶやき

河童

夜更けにふと、「河童の川流れ」という言葉を思い浮かべようとして、「河童の質流れ」と言ってしまい、ひとりでウケてしまった。質入れされた河童を想像する。なんだか、干からびて萎んでいそうだ。質流れに比べたら、川流れのほうが、ましだろうか。

静かな春の夜に、そんなつまらないことを考えている。

それにしたって、株価で、人間の幸せが左右される社会など、もはや人口の9割くらいのひとは望んでいないんじゃなかろうか。それでも、水を張ったバケツに無理やり頭を沈められるようにして、異なる幸せなど求めないように押さえつけられる、その9割のひとびと。つまり、9割は、質ぐさということか。ひからびて、よぼよぼの。





[PR]
by kokoro-usasan | 2017-04-19 00:53 | つぶやき

逆ドミノ

忖度なのか欲得なのか打算なのか、そこは人それぞれなのだろうけれど。たとえば、不可解な権力を前にしたとき、とりあえず、話を合わせておいて、うまく利用しながら、同時に、お目付役として、暴走は食い止められる立場に身を置いておけるようにしよう、と、自分の能力にそこそこ自信のある人物は思うのかもしれない。ところが、ずるずると泥沼に足がはまり抜け出せなくなる。暴走をくいとめるどころか、有能さが裏目に出て、かえって暴走を加速させる側になってしまったりもする。

「とりあえず、話を合わせておいて」という自らへの言い訳は、実は、自分で思うほど軽い判断ではないのかもしれない。とりあえずだろうが、深慮の上だろうが、そのひとは、ドミノ倒しのドミノのひとつとしてあえなく倒れたことに違いはないのだ。

今後は、「違うと思ったら言われてもやらない」「おかしいと思っているのに話を合わせない」ということを、誰かと結託してではなく、自分一人で、それぞれのひとが、それぞれの場所で、静かにやってみるといいような気がする。逆ドミノは、そこからしか始まらないのではないか。





[PR]
by kokoro-usasan | 2017-04-16 00:37 | つぶやき

たあいないきもち

先日、ネットでこんな言葉を目にし、なにか胸に沁みた。

「石ころはつねに結果(偶発的な、また必然的な作用の結果)である。
行きどまり、句点、精算書、つねに過ぎてしまった時である。
石が墓標になるのは偶然でない。
石は過ぎてしまった時のしるし、等質で、等密な、
だが不可逆的な時間の保証者である。」(宇佐美英治)


旅に出ると、石ころを拾わずにはいられない自分の習癖を思った。逆説的にも思えるが、旅はわたしにとって、「行き止まり」の確認でもあった。そして、石は、確かに「精算書」のようなものでもあったのかもしれない。石で終わったもの、石に封じ込めたもの、そして永劫に沈黙を守り通すもの。「不可逆的」という一種の安らぎの着地点を、悲劇にさえ求める心。

持ち帰った石ころを手のひらにのせ、撫でさすり、凝視し、「なるほど」と、どこにも「なるほど」と言える思考もないままに、ささやかな「行き止まり」の姿を自ら承認し、本棚の上や、飾り棚の片隅、小さなガラスの器に置く。それは、土地の土産などではなく、やはり、私自身のなんらかの墓標といっていいものかもしれなかった。

その一方で、わたしは、種を買い、球根を求め、芽吹いては枯れゆくものにも「教え」を乞うた。「行き止まり」が「消失」である生命もまた、わたしには必要だった。一瞬の色、華やぎ、しなり、発散と、消滅。

そんなことをたあいなく考えていて、ふと、戸外の風の強さに気付かされる。風か。風は何と言っているか。





[PR]
by kokoro-usasan | 2017-04-07 10:34 | つぶやき

彼岸の雨

e0182926_11494910.jpgチェブラーシカの話題があって。

チェブラーシカってどんな顔をしてたかなと、想像で描いてみた。簡単なはずなのだけど、意外に思い出せない。こんな感じだったかなぁとペンをおいて答え合わせをしてみたら、鼻のかたちが違っていた。

こんないたずら書きをするなんて、「アタシ、かなり凹んでるカモ」という感じ。道理が通らなすぎて、チェブラーシカなんか描きたくなってしまう。今日は雨。咳が少しおさまってきた。

チャック・ベリーの訃報。これ、ろっくんろーるの原点だよね。わたしがこどものころ、読売ランドの屋外ステージで、まだ売れてない野口五郎がこれを歌ってた。わたしは、となりのトランポリン広場で、トランポリンしてて、履いてたズボンのおしりが破けて、みんなに笑われたものの、「でも、この、ごーじょにー、ご、ご、ごーって、かっこいいじゃん」って思ってた。やぶけたズボンは、引率の先生が、「仮止め」してくれて、そのまま帰った。恥ずかしくなかったのかねぇって今になって思うけど、あんまり、その記憶がなくて、「ごー、ごーじょに、ご、ご、ごー」って、家に帰ってからも、鼻歌うたってたことのほうは覚えてる。


もう、すこし、心のリハビリが必要なので、雨の散歩にでかけてみることにする。そういえば、きのうは、ちゃんと墓参りに行ったでござる。自宅の庭の花や葉や枝をいい感じにまとめて、お供えしてきた。花屋さんにゆくと、この時期、やけに価格が高くなっていて、菊ばっかりだし。「ほら、おとうさん、庭の花だよ」なんて言いながら、おそなえしたけれど、なんか、「おとうさん」が、その墓のなかで一年中じっとしているとも思えなくて、「ま、いつも見てるとは思うけどね」なんて、ドライに自分でダメ出し。お墓の花たち、今頃、みんな濡れそぼっているのだろうな。





[PR]
by kokoro-usasan | 2017-03-21 11:59 | つぶやき

扁桃腺炎

e0182926_11273570.jpg某日
子供の頃から扁桃腺が弱かったことを,最近は思い出さずに済んでいたが、先日来、かなりしつこく扁桃腺炎にとりつかれている。病気などしている場合ではないという仕事への責任感と緊張感が、不条理な現実の前でついに崩れたのかもしれない。組織の無責任に打ちのめされつつ、テレビをつければ、ニュースではそれに輪をかけたような話ばかり。

「ムダニン・カタ」というアルバムを取り寄せて、その素朴な歌声にとてもこころ和んだ。台湾のブヌン族の人々の古くから伝わる歌にデヴィッド・ダーリングというチェリストが、その素朴さを邪魔しない控えめで美しい音色で寄り添う。音楽はやはりいいなぁと思う。


e0182926_1129234.jpg某日
咳が止まらない。「痒み」というのは、つまり「痛み」なのだと以前本で読んだ。痛みのもっとも軽微な段階。わたしのこの咳は、扁桃腺炎で傷んだ咽喉の傷が癒えてゆく過程で、皮膚が痒み(軽い違和感)を感じており、それを、指でかきむしることができないため、体が全身で反応している動きなのかもしれないと思う。痒みを掻きむしって出血させてしまうときのように、咳も、どこか麻薬のように、「もっと、もっと」と体に迫る。ぜいぜいするときのつかの間の快感は、痒みを掻いているときの、不思議な恍惚感を思い起こさせる。咳はわたしに執拗に迫る。「早く、追い出して、この違和感を」

Rhiannon Giddensの新しいアルバムを聴く。1曲目で繰りかえされるフレーズ、you can take my body,you can take my bones, you can take my blood but not my soul が、疲れた心に沁みる。


e0182926_1145076.jpg某日
このアルバム、Brad Mehldauの「elegiac cycle」は未聴。ジャケットがきれいだったので、取り寄せてしまった。昔、レコード屋で働いていた頃、わたしはクラシックの担当だったけれど、ディスプレイを考えるときに、一番、羨ましかったのは、ジャズの担当者だったような気がする。ジャズのジャケットは、ハイセンスなものが多くて、並べてて楽しそうだった。あと、R&Bかな。

あぁ、本当に役人の答弁は面白くないなぁ。口先でものをいう、とよく言われるけれど、「口先」しかないような言葉の浅薄さ。

しばらく前のことだけど、「南京事件」とは直接関係のなさそうな日本人と中国人が仲良くしている写真を出してきて、こんなに友好な関係だったのであり、「南京事件」などでっち上げだとネットにアップしているかたがいて、いたたまれない気がした。南京事件が、どういうものなのか、そもそものところを理解していないのかもしれないと思った。日本軍が中国全土で見境なく「虐殺」を行っていたということではない。「南京事件」が問題になっているのは、一部皇軍が制御不能となって、民間人を非道な形で不必要に殺し尽くした「事件」だからなのではないのか。この「制御不能」に陥ってゆく惨禍というものを、人間の歴史として、「忘れずに」検証し、二度と起きないように記憶しなければならない問題だと、わたしは思っている。

「似たようなことがどこでも起きていたのだ」という理屈で、すべてを封印して平気なタイプのひともいるかもしれないが、姑息に封印されたそれらが、時折、明るみに出てきたとき、それをも、もぐらたたきのようにまた埋め戻すのか、血を吐くような貴重な証言として、しっかり残しておこうとするか、「人道」はどちらにあるか、問いたい。


とはいえ、


じんどうかぁ。
わたしは、にんげんなのかなぁ。にんげんということでいいのかなぁ。
はんぶんくらいはにんげんのはずだけど、
あとは、なんだかえたいのしれないものかもしれないなぁ。
ふゆうれいかもしれないです。
もうしわけないですね、いろいろ、ぼやいて。
はいごれいではないので、あんしんしてください。
せきをするふゆうれいです。


くろいゆめと
しろいくもが
くるしそうに
あそんでる





[PR]
by kokoro-usasan | 2017-03-19 12:56 | つぶやき

自由

かつて、ハンナ・アーレントが言いました。
神には「真理」がある。
しかし、「真理」には「自由」がない。

それはカントの次の言葉から啓示を受けてのものでした。
「わたしたちは、
人間的自由の可能性のために、
真理を犠牲にする覚悟がある」

そのとき、わたしは思ったのです。

神が、「沈黙」するのは、

神の真理からは逸脱して手渡された「自由」を、
人間がどう行使するのか
じっと忍耐強く見つめているからなのだと。

死ぬほどの苦しみも悲しみも、
おまえに与えたその「自由」で乗り越えよ、と。

その自由の意味を深く知れ、と。

「狭き門」とは

「自由をどう使うべきか」という問いかけなのだと
わたしは思っています。

履き違えれば、
その自由は腐り、門は遠ざかります。





[PR]
by kokoro-usasan | 2017-03-01 11:46 | つぶやき

春に爪を立ててしまい

e0182926_1130511.jpg立春。
きのうは、休日で、天気もよかったのだが、朝から顔も洗わずに、パソコンの前に座っていた。母に食事を出さなければならないので、そのときだけ、椅子から腰をあげる。考えなければならないことがあって、あれこれ文章を練ってみたものの、あざとさが見え隠れして疲れた。夜、同僚からメールが入り、体調が悪いので、シフトを別のひとと替わってもらったと連絡が入った。風邪を引くひとが目立ってきた。こんなふうに、普段と違う根のつめかたをして、食事もいい加減にしていると、自分も危ないな、自分がダウンすると、仕事も、母親の世話も危なくなるな、と思い、ワードの画面を閉じた。

宵闇のなか、隣家から、幼い子供たちの声で、「鬼は外、福は内」の声が聞こえてきた。毎年、福豆を買うのだが、今年はなんとなく買わなかった。「恵方巻き」の「一本丸かじり」の風習が、かつて花街で、旦那衆が、芸者さんに強要して楽しんだのが、そもそもの始まりだと聞いて、げんなりしていたせいもある。随分と趣味の悪いお遊びを、家庭の団欒の場に持ち込んで、商戦を盛り上げていたのだなと思う。便乗商法はもともとそんなものだと思いつつ、それでも、言われるがまま、そうなんだ、そんな風習があるんだな、みんなで丸かじりして、幸運をお祈りするのだな、と素直に受け入れてしまった去年までの自分を思い、あぁ、これだって、post truthの類ではないのかと、うっすら嫌な気持ちになる。

嫌な気分になった勢いなのか、深夜、よせばいいのに、映画「南京! 南京!」をyou tubeでまた見てしまった。日本語字幕の完全版は削除されてしまったらしく細切れになっていたので、字幕のないほうの完全版を、2時間余、じっと見つめた。中国語の映画だけれど、一度、字幕で見ているし、出ている日本人は日本語でしゃべっているので、だいたいの筋はわかる。怖ろしい映画だ。(気持ちの弱っているかたにはおすすめしません)それでも、実際の恐ろしさに比べたら、きっとソフトなものだろう。見ていて、どうしたって思うのは、日本人だろうが、中国人だろうが、いや、どこの国だろうが「なぜ、こんなことをやらなければならないのか」「なぜ、こんなふうに死ななければならないのか」 だった。

立春らしくない話題になってしまった。







[PR]
by kokoro-usasan | 2017-02-04 12:08 | つぶやき

あなたの歌を聴かせて

e0182926_951316.jpgのどかな朝。

先日、you tubeで見た歌の映像が、そのときは、最初ちょっと意味不明な感じがあったのだけれど、あとになって、あ、そうかと腑に落ちた。

ある歌うたいの女の子の前に3人の男性が現れる。

最初の男性は、自分がどんなに音楽に造詣が深く、関係者の知り合いも多く、先日も海外の空港で有名なアーチストに会って言葉を交わしたことなどを延々と語る。女の子は退屈そうで、うん、うんと返事をしながら、部屋のなかの片付けを始めたり、庭に出て、知り合いの女の子に髪を切ってもらったりする。それでも、その男性は、女の子のあとをずっとついてきて、またぞろ、延々、様々なウンチクを傾け続ける。そして、女の子の歌もすばらしいから是非歌うといいとすすめる。

急に画面が変わって、今度は別の男性が、玄関から入ってくると、自分の家のように、無遠慮に椅子に座って、女の子に、インタビューにきたと告げる。女の子は相変わらず、気乗りのしない様子ではあるが、仕事の手を休めて、男性の前の席に腰掛ける。男性は、女の子の歌についての、事細かな分析をし始め、その歌の持つ意味あい、社会におけるその位置、及ぼす影響などについて、まるで、自分が歌ったものであるかのように、熱く語る。そして、ときどき、そのあたりどう思うか、と女の子に問いかけるのだが、女の子が目を点にして、なにか声を発しようとすると、自分が先ほど開陳した自説を自分でかみしめるように、わかりました、では次の質問です、と女の子の言葉を遮ってゆく。この男性も、女の子の歌がすばらしいから歌ってほしいと願っているのだが、結局、歌など聞こうともせず、自説だけ述べて、失礼いたしましたとまた玄関から出てゆく。

最後だけ、少しちがう。女の子が寝室で寝ていると、障子の向こうでギターの音がするのだ。その音色に惹かれて、障子を開けると、天気のよい縁側で、3人目の男性が、彼女に背を向けたまま、無言でのんびりとギターをつまびいている。とても気持ちのいいメロディーで、女の子は、そろそろとその男性に近づいてゆくと、そっと隣に座り、その響きに耳を澄まし、やがて身体を揺らしながら、幸せそうに歌い始めたのだ。そのギターの音色と、女の子の歌声がいつまでも、のどかな庭に流れ続けた。 





[PR]
by kokoro-usasan | 2017-02-03 11:02 | つぶやき

巴里・のような

e0182926_11271041.jpg大学に入ったばかりの頃、医大を目指していた幼馴染は、一浪して、神保町界隈の予備校に通っていたようで、書泉グランデで配っている「しおり」を何枚も集めては、時々、わたしに持ってきてくれた。毎回、様々な絵描きさんの可愛らしいイラストが描かれていたので、いつのまにか、結構なコレクションになった。とはいえ、わたしはあまりしおりを本に挟む習慣がないので、それらは、とりあえず専用の箱に入れて保存されていた。

浪人生活に入ったことは、彼にとって非常に辛いことだったらしく、そうやってしおりを集めては、ノーテンキな幼馴染に届けるということが、わずかな息抜きだったのかもしれない。

後年、わたしはまさに、その神保町界隈、西神田2丁目という場所で自分が生まれたことを知るのだけれど、当時は、まだ知らずにいた。わたしにとって、神保町は、ただ単に「古本屋街」だった。幼馴染が、「おいしいカレー屋をみつけたから、今度、連れていってあげるよ」と言ってくれたのを覚えているけれど、実際に行ったのかどうかは、もう思い出せない。

12、3年くらい前だろうか。自分が、「実の両親」のもとで産声をあげた土地という認識を持って、ひとり、神田に出かけたことがある。映画「珈琲時光」でも撮影に使われた西神田の喫茶店「エリカ」は、まだ閉店しておらず、窓際の席に座って、静かに時間を過ごした。そばの席では、出版社のかたと、作家らしきかたが打ち合わせをしており、実に失礼な話だが、わたしは、彼らの、どこか「クロウト」っぽい言葉の選び方が、きざっぽく思えて、なんだか、聞いていて恥ずかしかった。

日が落ちて、夜の帳りの降りたあと、あれは、どのあたりだったのだろう、ふっと、通りに目をやったとき、その街並みが、まるでパリのように見えて、どきっとした。「いやいや、それはあまりに大げさだよ。ここは、神保町ですよ。」と、自分で自分に突っ込みを入れながら、あらためて、じっと、街並みを見た。ぐあんと、めまいのようなものに襲われて、パリだかどこだか知らないが、自分の知らない時空にタイムスリップするような変な気持ちになった。そして、やはり、それは、どこかパリに似ていたのだ。でも、ひととき、そんな気分に浸るのも悪くないなと思い直し、しばらく、そこに立って、パリの夜の街並みを思い起こしていた。

きのう、未知のかたのFBで、冒頭の神保町の写真がアップされているのを見た時、あ、と思った。なんとなく、やっぱり「そういう景色」が、ここにはあったのだ、と、自分のかつての「大げさな感慨」を、すこしは擁護してあげられるように感じ、ちょっぴり嬉しかった。


ちょっと、
似ていますよね。ふふ。







[PR]
by kokoro-usasan | 2017-02-01 12:49 | つぶやき


閉じられていないもの


by kokoro-usasan

プロフィールを見る

S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

最新の記事

てんとうむし
at 2017-05-01 09:02
柿の若葉
at 2017-04-30 15:06
はかりごと
at 2017-04-29 00:39
追試だらけで。
at 2017-04-28 13:31
サイレン
at 2017-04-23 10:33

以前の記事

2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
more...

カテゴリ

全体
日々
つぶやき
ことば
音楽
映画

演劇

トピックス
スナップ
すてき
あやしい特派員
さまよえる消費者
すきなもの
あじわい~
気になるこの子
展覧会
庭の楽しみ
手をうごかしてみる
追想
ごあいさつ
きょうの新聞から
幕間
一枚の写真
ダンス
未分類

記事ランキング

外部リンク

外部リンク2

検索