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知らないことばかり。

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すこし晴れた。この写真が好きで、以前にもアップしたことがあるけれど、この季節になると、また出したくなってしまう。ご容赦。これを撮ってからもう10年は過ぎているから、芝生の上に座っているおちびさんたちも今では成人しているんだろうな。

ヘアドネーションの記事が新聞に載っていて、丁度わたしも自分の伸びすぎて持て余している髪を、そういう形で使ってもらえることを知ったばかりだったので、なんだか、「いざ!」と後押しされているような気になった。ヘアドネーションとは、病気などでカツラを必要としている子供たちに、髪を寄付するという試みだ。多少傷んでいても、縮毛でも、白髪混じりでもいいのだという。そのかわり、長さは30センチ以上は必要で、今特に希望されているのは、50センチ以上の髪なのだという。当初、カツラを作るのに、50センチも必要なのかなとピンとこなかったのだが、昨日の記事を読んで理由がわかった。とてもシンプルなこと。カツラの必要な子供たち、特に女の子たちのなかには、できれば女の子らしいロングヘアーのカツラをしてみたい子も多く、そのためには、50センチ以上の長さの髪が提供されなければ作れないのだった。

このところ、わたしは美容院に行くのがとても億劫になり、かれこれもう8年は伸ばしている。途中、うっとうしくて自分ですこし切ってしまったりもしたので、さすがに80センチも伸ばしてはいないが(髪は1年に10センチくらい伸びるそうだ)、50センチはある。普段は、その髪をひっつめのお団子にしているので、まさか、そんなに長くなっているとは同僚でも気づいていないだろう。しかし、こんな老いさらばえた髪でもいいのだろうか。もともと、ショートカットが好きなのだけれど、ショートカットだとこまめに美容院に行かなければ、その髪型を維持できない。そこが、この枯れた(?)生活の中では、贅沢というか(精神的にもついてゆけないというか)ネックになって伸び放題だった。

それにしても、美容院に行けば、切り落とされている髪の束がたくさん床に落ちていて、ちょっとびっくりするくらいの様相を呈しているというのに、30センチ、50センチを、1回で切るというひとは、女性でもほとんどいない。でも、新聞の写真には、カツラを作ってらっしゃる方の部屋に置かれたとても長い髪の束がたくさん写っていて、ヘアドネーションという試みに、これほど参加しているひとがいるとはと、ちょっと意外だった。社会って知らないことばかり、だなぁ。



でも・・・・、なんだか、最後に余計なことをいうようだけれど、

世界のあちこちで、命の危険にさらされ、あるいは毎日のように命を落としている子供たちを救うことができないのはどうしてなのだろう。平和のための戦争なんて、本当にあるのだろうか。




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by kokoro-usasan | 2016-10-14 11:51

月光

a)
「閣議決定」という名のクーデターの実行予告が出されているにも関わらず、為す術もない政治討論のありさまを見ていると、このような「闘いのための闘い」にのめりこむ首謀者らとの闘いは、もはや防衛とは無関係なところでの攻防なのだと、今更ながら考える。立法府に悪が立つことを、憲法は予測していないのである。なぜなら、99条を信じなければ、憲法は作れないからだ。この基本的な信託を冒す事態へと滑落してゆくとき、それに乗じるように、狡猾になだれ込んでゆく「追随者」たちの表情を、この目でよく覚えておこうと思う。ゆくゆくは首謀者など押しのけるような悪が、そこから芽を噴く。その芽は、どうしたら摘むことができるのだろうか。

b)
キング牧師が、「反差別」の闘いの渦中、ベトナム戦争という事態に遭遇し、「反戦」という問題にも身を投じざるを得なくなったとき、支持者のなかからは、どちらかにしろ、という激しい中傷の声があがったという。おまえは、「反差別」を戦っているのであり、「反戦」に気をそらすなというわけだ。この内側からの中傷は彼をひどく苛んだ。その末に彼は答えた。国家に、その社会的ハンデを潜在的に利用され、最初にベトナムの戦線に送り込まれてゆく黒人兵士たちは、そこで、「自由のために闘う英雄」として、態よく称えられる。しかし、祖国に帰れば、自分のための自由はけして約束されていないのだ、と。従って「反戦」とは、すなわち、「反差別」の闘いに他ならないと。

c)
格差と戦争は、連動する。戦争をしたければ、格差を作ればいいし、格差で儲けるには戦争がよい。人を差別する、差別することで昂揚する心は、戦争という種子を発芽させるには、まさにうってつけの土壌なのかもしれない。「どちらかにしろ」とキング牧師を弾劾した「支持者」(敵ではなく支持者だ)に対し、彼が出した答えを思うとき、今の日本で、畳み掛けるように(畳み掛けるというのは、それ自体が戦略だ)政府が出してくる方向性の異なる様々な事案に翻弄されることなく、政治家が、一本、筋を通しておいていい点であるように感じる。この元を抑えなければ、あらゆるものが、早晩、換骨奪胎となるのだろう。換骨奪胎というのは、やり始めると癖になる麻薬であり、多くの政治家が昨今この薬にからめとられた表情になっている。

d)
一介の市民が、政府の悪政に抵抗するには、この法治国家において、憲法を拠り所にして闘うしかない。

 <選挙で多数を得れば何でもできるという傾向に対し、最後の歯どめを加えるのが「市民的不服従」である。良心あるいは憲法のような上位の法規範に基づいて、非暴力的手段で実定法に自覚的に違反する行為を「市民的不服従」とよぶとすれば、これは政府の不当な政策の強行を阻止する一つの有効な方法である。>
  (石田雄 「逆風に抗して非暴力抵抗を・寺島俊穂著『市民的不服従』によせて 」より)

政府が、その憲法に恣意的な介入を行うことが許されるようになれば、市民に、どんな権利が残るというのだろう。

e)
この記事を更新するのに、結構日数がかかってしまった。雨が続いていたが、今夜はとても美しい月夜になった。その光を眺めていたら、ふと、家永三郎氏のことが思い出された。あのかたは、いつも「ひとりぽっち」に見えた。あまりにも華奢なその体躯は、常に張り詰めていた。鶴を思わせる細い首筋のそのひとが、一人校内を歩いていると、わたしは引き込まれるように見送らずにはいられなかった。教科書裁判において多くの支援者、もしくは多くの批判者が、かれを取り巻いていたに違いないが、実質、彼はひとりぼっちだった。それは、彼ひとりの闘いであり、彼ひとりの「一歩も引けない」闘いだった。最初から、多くの支援者を得ることを算段して始めた闘いではなかっただろう。彼自身も、これは戦時において誤った言動を取った自分の責任に向き合うためのわたしひとりのためのキャンペーンであると述べている。その強靭さが、その後姿にいつも滲んでいた。「これはわたしひとりのためのキャンペーンである」その誤解されそうな言葉を誤解することなく受け止められるならば、今夜の月のようなけざやかな何かを心に宿すことができるだろうか。

この記事を更新したら、もう一度、月の光を浴びにゆくのだ。


追記
家永氏が不当な教科書検定に対する声明を出した日付を確認して驚いた。昭和40年「6月12日」である。
 声明
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by kokoro-usasan | 2014-06-12 23:58 | Comments(0)

青く燃えるもの。

e0182926_23344855.jpg若い頃、梅崎春生の娘さんに可愛がっていただいたことがある。梅崎史子さん。なかなかユニークな人物で、強烈といえば強烈なのだけれど、わたしは好きだった。こう書いて、何がどう強烈なのだろう、そこをきちんと書かなければいけないのではないかと立ち止まる。

それは、「好き嫌い」の激しさであったかもしれないし、自分の情熱にひたむきに向き合う度合いということであったかもしれない。わたしは、もともと「疲れ切ることのできる」人が好きだ。それは無論、やりたくもないことに擦り切れてしまったような疲れではなく、これだけはどうしてもやっておきたいと思うことのために、満身創痍でも立ち向かっているという意味での疲れだ。ひとは、「疲れ切る」一歩手前で愚痴を言い始めるものだが、そういう人たちは、その疲れ切る一歩手前のところから、あるいは疲れ切って死んだようになっているところから、再び青い炎のようにメラメラ燃え上がってくる。そういう人の目を見るのが好きだ。梅崎さんにも、どこかそういうところがあった。時々、メラメラと燃えていた。いつ梳かしたのかわからないようなぼさぼさの髪と素足につっかけでわたしのまえに現れ、今書いている文章について話してくれたこともある。かと思えば、それは飾りすぎじゃないですかと思うほどの派手な衣装で、るんるんとコンサートに出かけてゆくのだった。

音楽評論家としての彼女はそうした一種独善的なのめり込み方によって、様々な摩擦も起こしたのではないかと察せられるが、わたしは、彼女のそういう面はよく知らない。ただ当時近所にお住まいだったのだ。「聞き手」に回ることが性にあっているわたしには、「語り手」としての彼女の個性にどこか惹かれるものがあったといえばいいだろうか。直情的なために敵も多かったかもしれないが、笑うとその目がとてもとても優しかった。

もう20年以上お会いしていないのだが、最近ふと、自分も素足につっかけで、髪も梳かさず、街を歩きまわれるような気持ちがしてきた。「それは、つまり、加齢による、単なるおにばば化っていうやつじゃないの」とたしなめられそうだけれど、自分の心の中に、梅崎さんのようにやってみたい「なにか」が眠っており、それを揺さぶり起こさねばならないと感じ始めている。「疲れ切ることのできる」人間になってから死にたい気がする。梅崎さんは今どうされているのだろうかと思い検索してみたら、寂しいことに、2012年、すでに他界されていたことを知った。享年64歳。今更ながらご冥福をお祈りする。

あんなにぼろぼろの車に乗っている人を見たのは、
あなたが最初で最後でしたよ、史子さん。
親切にしていただいたこと感謝しています。
暖かな記憶です。
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by kokoro-usasan | 2014-05-09 20:44 | Comments(0)

春を待つ

快晴なれど。風は切るように冷たい。

我が家の裏手の、老人と娘さんしかいなかったはずのお宅に、小さな女の子の声が聞こえるようになったのは、去年の秋ごろからだろうか。庭に出て、おばあちゃんや母親を呼ぶ声が、ほんとうに子供らしい。呼ばれた側も答えているはずのだけれど、大人のくぐもった声なので、子供の可愛い声ばかりが響くのだ。
シャベルを持って、庭石をカンカンと叩く音。なにかを見つけたと驚いたような声。時折、「あら、転んじゃったよ、大丈夫?」と、そのときばかりは大きなおばあちゃんの声がするのもご愛嬌。

相馬御風の「春よ来い」の歌を思い出す。

 春よ来い 早く来い
 あるきはじめた みいちゃんが
 赤い鼻緒の じょじょはいて
 おんもへ出たいと 待っている

 春よ来い 早く来い
 おうちのまえの 桃の木の
 つぼみもみんな ふくらんで
 はよ咲きたいと 待っている

わたしは、この歌がなんとはなしに好きで、「赤い鼻緒のじょじょ」という言葉も、意味がわかっているのかどうか知れない頃から、うっとりとよく想像していたものだ。ここには、「みいちゃん」の父母だけではなく、祖父母の姿も浮かんでくるような気がして、みんながみいちゃんの成長を祈っている姿が、春そのものの喜びと、本当によく合っているように思う。

学生になってから、わたしは、この歌に似た詩に出会う。それは、御風の詩とはかなり趣きが違うのだけれど、これもまた、わたしの心に深い印象を刻み、忘れ難い。

    「ミミコの独立」 山之口貘
  
 とうちゃんの下駄なんか
 はくんじゃないぞ
 ぼくはその場を見て言ったが
 とうちゃんのなんか
 はかないよ
 とうちゃんのかんこをかりてって
 ミミコのかんこ
 はくんだ と言うのだ
 こんな理屈をこねてみせながら
 ミミコは小さなそのあんよで
 まな板みたいな下駄をひきずって行った
 土間では片隅の
 かますの上に
 赤い鼻緒の
 赤いかんこが
 かぼちゃと並んで待っていた

貘は、たくさんの「ミミコ」の詩を書いたけれど、ミミコというのは彼の娘で、本当は「泉」という美しい名前があるのだ。「うるおいのある人になりますように」と願って、彼は娘にそう名づけた。けれど、と、彼は書く。
「泉にその名を問えば その泉が すまし顔して ミミコと答えるのだ」と。高田渡さんがこの詩人の詩を愛したように、わたしも彼の詩が好きだ。

そして、たとえば、胃がんのために、昭和38年に亡くなったこの詩人の詩集の裏表紙にこんな文章を見かけると、なにか、とてもとても、胸が熱くなるのだった。

 時間は父にとって無限に自分のものだったように見える。たった59年ぽっちの短い生涯
 ではあったけれど、実は何百年、何千年、何万年という果てしない時間を、ちゃっかり
 私有していたのではないかと、わたしは密かに疑っているのである。そうでなければ
 あの悠長な仕事ぶり、ひとつのことに執着し続ける態度、などについて、いったいどんな
 説明がつくと言うのであろう。        山之口泉



人の世の幸を思う。
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by kokoro-usasan | 2012-01-29 14:25 | Comments(0)

めも

夢を見た。書き留めておかなくちゃと思う。でももう出勤の時間。分刻み。でも書き留める。
あとで、ちゃんと繋げよう。
あしたは共通一次試験。大学のではなく高校の。だから、わたしは中学生。試験前の最後の夜、なにをどうまとめるか。みんな、すっかり準備ができている様子。懐かしい子供の頃のワルガキ連中の顔が見える。ワルガキだけど、みんな秀才なのだ。でも、わたしは、なんの準備もしていないのだ。高校には行けないのかもしれないと思う。夜。自分の部屋に戻るけれど、それは見覚えの無い安宿みたいなところ、明日は試験だけど部屋には、参考書も教科書もない。これじゃ手も足も出ませんね、と思いながら、窓の外を見た。

ものすごい星空。見たこともないほどの満天の星。すべての星座が点と線で繋げなくても、みんなすぐわかってしまうほどに。さそりはさそりの形に星で一杯。オリオンもちゃんと射手の姿に星でふちどられている。
すごいや、すごいや。こんな星空見たことないと興奮するけれど、みんなは、家でこの空を見てるかな。それとも試験勉強のまとめをしてるのかなと思う。見ればいいのに。ベランダから体を乗り出すように眺めていると、とおくのほうに、母子の影。女の子が「おかあさん、おほしさま、いっぱい!」と叫んでいる。とても嬉しそう。おかあさんの声は聞こえない。わたしは思う。とにかく、あの子とわたしは、今、この星空を見てる。

誰かが部屋のドアを開けようとしたけれど、すぐ締めて、どこかへ行ってしまった。隣の母の部屋にゆき、だれかがきたようだと話すけれど、母は、イメルダ夫人のように、たくさんの服や靴に囲まれて、鏡を見ているところ。子供には関心がない。「死んだ人と生きていても仕方ないじゃない。生きてる人と生きて」と母に言う、意味は不明。母はピエロのような黄色い衿の服で、なんで、あんなのがいいのかと思う。

自分の部屋に戻り、また空を見ると、もう星は薄くなって、消えてゆく煙のように、ぼんやりとしていた。星の時間は終ったのだなと思った。試験には受かるのかもしれないと思った。
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by kokoro-usasan | 2011-10-29 07:18 | Comments(0)

微笑みたまえ。

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 MHLのセールでジャケットを購入しました。
 ビニールの小袋に入っていた布見本と替えボタンを
 眺めながら、友人からかかってきた電話に出ていたら、
 「そのカシャカシャいう音はなに?」
 と聞かれ、「うん?・・・えー、、なんでもないよ、ビニールの音かな」
 なんて照れてごまかしてしまいました。なに照れてるんだろ。笑。



10年近く前、それまで勤めていた仕事を辞め、一年休業しました。
高齢化していた両親の入退院をサポートできる体制に、自分の環境を移行させてゆく必要があったのです。それまでのような、「企業戦士」のような働き方では、そろそろ限界を感じていました。退職するだけでなく、一年、遊んでしまおうと思ったのは、そののちに待っているだろう親の介護生活に、悔いなく臨むためでもありました。

休業していた一年を、有効に使い切れたかというと、かなり無駄遣いしてしまいましたが、視野は瞬く間に広がっていったと思います。井の中の蛙というのは、やはり、あるのです。限られた世界に精通することも大事なことなのですが、別の世界の人には、自分のいる世界など、なんの価値も、関心もない場合があるのだということが判っただけでも大きな収穫だったかもしれません。

その事実は、実際、どこかひんやりと淋しかったり、悔しかったり、突きつけられて嬉しい事実ではありませんでしたが、そのような状態であっても、人間は、何かしら、納得できる理由があれば、ともに手をつなぎ、肩を抱き、勇気を与えたり貰ったりしあえるものだということを知るチャンスともなりました。この収穫は、これからを生きるにあたってとても大事だと思っています。

昨夜、竹信さんの「ミボージン日記」を読み終えました。ユーモアたっぷりに綴られたその日記ですが、実は、そうやって筆を執るのに、ご主人の死から、8年の歳月を必要としていることを、読者は、きちんと覚えておかなくてはならないのだと思います。

竹信悦夫さんは、生前、大事なのは、「機嫌よく生きることだ」と語っていたそうです。わたしは、この言葉を読んだとき、まっさきに、フランスの哲学者アランを思い出しました。
悦夫さんは、灘高時代、すでに「小林秀雄論」を書いたという方だったそうなので、おそらく小林秀雄経由で確実にアランも読んでおられたと思います。

「微笑みたまえ」とアランは言いました。
「機嫌よく生きることだ」

そして、「ミボージン」となった三恵子さんのこの本の最終章には、こう書かれています。「何ひとつ、楽しいことがなくても、ひたすらうねうねと生き続けていく面白みを知った」と。この「ひたすらうねうねと」という表現がとても気に入りました。わたしもそうありたいです。

さて、ジャケットを買うなんて(洋服を買うなんて)、何年ぶりのことでしょう。
わたしはもう以前のような「戦士」の働き方はしていないのですが、それでも、まだまだ挑戦できることには、挑戦していきましょう。ひたすら、うねうねと。
 
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by kokoro-usasan | 2011-01-08 22:53 | Comments(2)

時雨となりて。

冷たい雨。でも、家の中にいると、そんな淋しさの中に、巣ごもりの穏やかな
ぬくもりを感じて、なにか温かい飲み物でも、とささやかに心浮き立ちます。
屋根のある場所に住み、とりあえず、ここにいてもいいのだと思えることに
じんわりとした感慨を抱くのは、さっき読んだ新聞の記事のせいでしょうか。

そぼ降る雨の窓辺に腰掛けて、朝刊をぱらぱらと斜め読みしていると、乳児で
ありながら既に、乳児院で引き取り手のない人生の第一歩を踏み出した赤ちゃん
たちの記事が載っていました。毎日新聞、社会面の連載記事です。
「こども手当て」の話が出たときに、それが、子育てをする親に支払われるもの
だとしたら、親に虐待を受けている子、或いは親のない子に、その支援の手は
どう届くのか、と同僚たちと話しあったことがあります。
「家族」という機能が、そこそこ、良心的に発動している世帯においては、行政を
通じた手続きで、身内を守りフォローしてゆくことができますが、ひとたび、家族
というものを解体させてしまった世帯には、こうした行政支援は、届きにくいものです。
「個人」を個別に支援していく態勢にシフトさせてゆかないと、乳児院のベッドで、
抱いてくれる家族もいないまま日々を送る赤ちゃんたちの未来は、どこへどう
繋がっていけるのかと考えてしまいました。

記事を読み終えたあと、窓辺に並べて置いてある様々な種子に目をやりました。
この夏、庭で育った植物たちから採った種たちです。ひまわり、あさがお、
なた豆、ゴーヤ、みなそれぞれに形が違い、どれも可愛らしいです。
ゴーヤの種は、あのイガイガしている実と同じように、イガイガしているんですよ。
見たとき、思わず笑ってしまいました。こんなにちっちゃいのにイガイガしてる!って。

先日、認知症の始まった母の「とんちんかん」にうっかり腹を立てて(腹を立てても
どうしようもないのです)、あれこれと、非難がましいことを言い連ねてしまいました。
言っても言っても、言葉は深い闇に吸い込まれてゆくようなもので、すっきりする
よりは、自己嫌悪で、語尾が消えてゆくような感じになります。
他人が聞いたら、この娘、言いたい放題だな、支離滅裂だな、と眉をひそめるか
苦笑してしまうに違いありません。でも、これも、母だから言えるのだと思いました。
わたしと母は、血のつながりはありませんが、ずっと、育ててもらいました。
以前、「迷惑かけてごめんね」と母が言うので、「育ててもらったんだからいいの」
とわたしが素っ気なく言うと、「そうじゃないよ。育てさせてもらったのよ、おかあさんが」
と言われたのです。

乳児院で引き取り手のない赤ちゃんたちの記事を読んだとき、母のこの言葉が
ふっと浮かびました。「勿体無い」と、エコバッグを何個も買ったり貰ったりする
贅沢な矛盾に首を傾げながら、一番もったいないことに気づかずに、
わたしたちの命が粗末にされてゆくことについて、もう少し考えてみたいと思いました。
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by kokoro-usasan | 2010-10-21 11:19 | Comments(0)

昼下がりのヒント集

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猛暑は続く。
きのうは、家の片付けと洗濯に精を出し、午後からは、暮しの手帖別冊「暮らしのヒント集」を
じっくりと読んでいた。もういい、今日はもう、あれやこれやと用事を思い出さないようにして、
この世に、この雑誌しかないような気持ちで、のんびり過ごしてみようと思ったのだ。
小学生のころの夏休みといえば、少女漫画を、まさに宝物のように、一日中読みふけったり
していたじゃないか。「社会人」なんてものになると、段取り、段取りで、いくつものことを
平行して考えつつ、少しでもたくさん用事がこなせれば有能、みたいなことになり、まことに
落ち着きを失うのである。失っているくせに、涼しげな顔をしているほうが、さらに上級という
ことになって、ますます自分を追い込む。で、哀しいかな、色々やりすぎて、「確かな手ごたえ」
という、集中と時間を必要とするものからは、おぼろに遠ざかってゆく。

「暮らしのヒント集」を読んでいると、そこに寄稿した著名な方たちは皆、地に足のついた生活を
しているように見える。工夫し努力して新しいものを懸命に学ぶことと、日々の変わらぬ生活の
機微、そのどちらも手離してはいない。どちらかを手離さなければならないようなことがあるなら
それは、間違った方向に向いているからだと言わんばかりだ。

自然は美しいものしか作らない、もし、美しくないとしたら、なんらかの事情でバランスが崩れて
しまっているからだ、という言葉を読んだことがある。
バランスが崩れているものを美しくないともわたしは思わないが、辛さが滲み出てくるようで、
いたたまれない思いにはなる。救いは、バランスを考えるという時期が、誰にでも来るかも
しれないということだ。

わたしはといえば、大いにバランスは崩れていて、玉乗りの曲芸もせず、玉を腹の上にのせ
玉の方のバランスをとっているような不思議なことをやっている。とにかく、日課というような
ものを、ささやかでも、自分に課すことは大事なようだ。バランスに敏感になる。

※庭のなた豆に花が咲いた。長さ25cmにもなる房をつける割には、花は意外にも小さい。
匂いをかいでみると、ほんのり甘い匂いがして、そこにひきつけられるのか、蟻が茎を伝って
花のまわりに集まっていた。
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by kokoro-usasan | 2010-07-28 14:20 | Comments(0)

続・遥かな場所へ。

昨日、前振りだけで頓挫してしまった記事の続きです。小さな黄色い勇者に各界からの
熱い声援ありがとうございました。2通にも及ぶ数え切れないほどの嬉しいメッセージに、
   サテ、オチハ、ドウシタモノカイナ・・・・
と、あたまを抱えてしまいましたが、考えると、今日も本題に移れそうにないので、
一応、めでたしめでたしということで(なにが?)、よろしくお願い致します。

実は、縁あって知り合ったドイツ在住の友人が、ミュンヘンで、独立開業したのです。
最初、彼女が、頭蓋仙骨療法を学ぶと言い出したとき、わたしは、その医療について
まったく無知で、どんなものなのだろうなぁ、と、難しそうな単語をぼんやり眺めていた
ものでした。クラニオという言葉が、日本でも、このところ、急速に知られるように
なってきて、なるほど、こういったことだったのだなと、恥ずかしながら、今になって、
やっと判ったような始末です。

日本人女性が、ドイツで就業しているということだけでもすごいことに思えたの
ですが、今度は、その職を擲って、また未知の世界を究めようと学校に入ろうとする、
その決断力や、意志の明晰さは、とても刺激的でした。

この数年の間に、知人たちは(わたしも含め)、公私共に、様々な変化の渦の
中におり、いいこともあれば、胸を痛ませながら、乗り越えなければならないことも
多々ありました。そんな中、このドイツの友人が、突然のように見えながらも、実は
きちんとした摂理にそったものに導かれるように、その勉強を始めたとき、わたしに
とって、それは、なにか、遥かな光のように思えました。

みんながみんな、いつも一緒に「頑張れる」わけでもなく、何人も仲間がいれば、
停滞期に入ってしまった人、問題ばかり起きて途方に暮れてしまっている人、
様々なステージでそれぞれの人が右往左往しているのが普通ではないでしょうか。

でも、わたしには、友人とは、やはり、「光」で、今、自分自身が思うようにゆかない
場所にいても、その光を見つめながら、いつも励まされているような気がします。
悩める友人ですら、その苦しみに耐える尊い姿がわたしを支えます。
目標を見つけ頑張っている人がいれば、尚更のこと。応援しながら、
いつか、自分も、と、はっぱをかけられる思いです。

わたしのこんなつたない言葉では、うまく伝えられませんが、そんなドイツの
友人が、ついに、日本人として、ヨーロッパで初めて、ロルファーの認定を受け、
新しい一歩を踏み出しました。

わたしのブログをご覧になってらっしゃる方は僅かですし、ドイツはけっして、
電車に乗ってゆける距離ではないことは重々承知なのですが、今日はぜひ、
この中村かおりさんのお仕事を紹介させていただきたいと思います。

わたしもまだ、ミュンヘンには行ったことがないのですが、いつか、行く機会が
あったら、悪いところを、こっそり、診てもらおうかなぁと思っています。
「うーーーん、あなたの腹黒さと、天性のアタマの悪さは、残念ですが、治りません・・・」
って、言われちゃいそうですが。

  中村さんのHP
ご縁がありましたら、どうぞ、みなさんも・・・。
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                   よろしくお願いいたします・・・。
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by kokoro-usasan | 2010-06-22 23:27 | Comments(0)

遥かな場所へ。

梅雨の晴れ間ものぞく薄曇の朝、ひとりの特派員が東京郊外の
古びたベランダから飛び立った。
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  ぶーん









豆粒ほどの小さな身体ではあるが、清涼飲料水の「おまけ」として
わたしのもとにやってきた、この黄色い勇者は、頭のプロペラを見込まれて
ある重大な特命を与えられたのであった。
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  ぶーーん。 只今、アフガンの大地を通過中










目にも留まらぬ速さで飛ぶこの小さな勇者は
(そのわりにはきちんと写真に写っていてまるで動いていないようにさえ見えるが)、
あっという間にぐんぐんと、大陸を横断し(どこの国の許可も得ず)、間もなく目的地へ。
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  あ!この川は!ひょっとして・・・。

  隅田川? 

  ではなく!







ドイツは、ミュンヘンを流れる、さる有名な川なのだった。

さて、この続きはまた明日なのである。
   (す、すみません・・・汗)

※前振りを考えたところで、今日の集中力は雲散霧消。やや梅雨バテ。
  まぎれもなく、本末転倒である。前振りなんか考えたのが間違いの
  もとであるが、まぁ、そういう人間なのであった。お許しあれ。

  
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by kokoro-usasan | 2010-06-21 21:41 | Comments(1)


閉じられていないもの


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