新年にあたって。

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年末からすっかりご無沙汰してしまいました。最近、よく思い出している映画があります。イ・チャンドン監督の「ポエトリー アグネスの詩」です。確かこのブログでも以前触れたことがあります。もしご興味がありましたら、右側の検索欄にキーワードを入れて検索してみてください。(わたしもあとで検索してみようと思います)

なぜ、この映画を思い出すかというと、主人公のミジャが詩を書こうと思い立った動機を思い起こすからなのです。彼女は、医師にアルツハイマー病の兆しがあることを宣告されたのでした。まず、名詞を忘れ、そして動詞も忘れてゆくだろう、医師は彼女にそう告げました。この映画を見た数年前、家族に認知症の母がいるとはいえ、主人公がアルツハイマー病になり、詩を書こうと思い立つ、その流れを、わたしはあまり理解できていなかったように思えてきました。実は、とても肝心なことかもしれないのに。

最近「私は誰になっていくの? アルツハイマー病者からみた世界」(クリスティーン・ボーデン著)という実際にアルツハイマー病を患っていらっしゃるかたの手記を読みました。「言葉を忘れてゆく」という苦しみがどういうものであるのか、著者はまだ残っている表現力で実に真摯に書き留めてくださっています。感覚は残っているのに、それを言い表す言葉が、頭になにも浮かんでこないというのです。どんなに粘って思い出そうとしても出てこない。そのうちに、周囲のひとたちは、次の話題に移ってしまっており、話の輪のなかに入る余地がまったく潰えてしまうようになります。この苦しみを繰り返すくらいだったら、なにも「感じない」ほうが楽、ということになってゆくのもわかるような気がします。

わたしは、母の認知症に戸惑い、非常に混乱した時期がありますが、そのときに、なぜか少し吃音気味に自分がなっていくのを自覚しました。周囲のひとと話しているときに、最初の一言がすっと出てこないのです。言おうとしていることがあるのに、それに適した言葉がふいに消えてしまうことが重なったといえばいいでしょうか。ですから、さぁ、このひとが今喋ろうとしているぞ、と周囲が身構えてくれているのに、わたしは、「あ、う、う・・・?」という調子になってしまうのでした。

その理由を考えました。おそらく、すっかり意思疎通がおかしくなってしまった母に、真顔で怒りたいこと、声を大にして抗議したいことがたくさんあったのに、相手は認知症だと思い為すことで、ぐっと飲み込んで暮らしていた精神的な負荷が、普通の会話の場に影響してしまったのではないかと思いました。

本当にそういう理由なのかどうか、よくわかりません。母との関係性に一応折り合いがつけられるようになった今でさえ、会話の出だしが「宙に浮いて」しまうことがよくあります。これはもしかしたら、アルツハイマーの前兆なのではないかしら、と気になりはじめました。そんなことがあるせいか、冒頭の「ポエトリー アグネスの詩」のミジャのことを思い出すのかもしれません。

書き留めておきたい。今、ここにある、美しいもの、清らかなもの、温かなもの、やさしいもの、わたしに見える世界のすべてを。孫とその友人達が、同級生を輪姦して自殺に追い込んでおきながら、その事実をお金を使って内密に済ませようとする親達に言い含められ、一度は自分が介護している老人に性を売って示談金にするためのお金を作ったミジャですが、最後は、それほど大切な孫を刑事に引き渡します。ミジャが失われゆく記憶への不安の前で、自分にできること、自分がすべきことを考えていったその経緯は、けして言葉で説明されるようなものではなく、ただのびやかな自然の景色が映像として時折そこに挟まれることで、それとなく、生きる尊厳について考えさせられるような映画になっていました。

映画の中では示されませんが、ミジャはやがて、自分の詩を忘れ、自分の孫を忘れ、自分が美しいと思うものを、誰かと共有する術も失っていったはずです。それがわかっているからこその、その手前の、静かに葛藤するミジャの美しい日々がありました。


殺伐として嘘のまかり通るこの世界、なぜかミジャが詩を書き始めた意味を考えてしまうわたしなのでした。



人間は所詮ミネラルと水と窒素の結合物なのに、それがくっついている間は、なにか様々なもの思いを抱え、それが解かれると、そのもの思いも消えてしまうと 友人に言われ、ほんとうに不思議だなと思いました。

わたしというミネラルと水と窒素の結合物がほどけてなくなる前に、なにか、やさしいものを残していきたいと、柄にもなく、素直な願いを持ちました。





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# by kokoro-usasan | 2018-01-03 14:24 | ごあいさつ

人間を。3

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続々・「無意識に人間を撮るシリーズ」

これは柵越しだったこともあり、あまりうまく撮れていない一枚。15年も前の一枚だから、自分でも撮った経緯を覚えていない。子供に目がゆくので、最初、子供に惹かれて撮ったのかなと思ったが、よく見るとそうでないことがわかった。

わたしの目は、きっと左がわのおじいさんを見ていたのだと思う。「おじいさんと子供」を撮りたかったのだ。そういえば、パリでは、おばあさんが戸外で子供の面倒を見ている姿はあまり見かけなかったけれど、おじいさんはよく子供の傍にいたような気がする。




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# by kokoro-usasan | 2017-12-11 12:50 | 追想

不在に寄す

e0182926_11503520.jpg同僚が貸してくれたワイエスの画集を今日返そうと思い、凍てついた朝の部屋でもう一度眺め直していた。カーテン越しに窓からの光が差し込み、画集に影を落としている。それも含めて、ワイエスの光だな、と思い写真に収めた。

この絵のタイトルは「アルヴァロとクリスティーナ」(1968 水彩)という。ワイエスの作品は、冬を感じさせるものが多く、この作品もそんな感じがするのだが、実は夏の作品らしい。すでに彼は1952年にも、この印象的な青い扉を題材に、タイトルもそのまま「青い扉」という作品を描いており、右側の高い窓から入る光線と室内の様子が、彼にとって、とても印象深いものだったことがうかがえる。

この場所は、クリスティーナとアルヴァロのオルソン姉弟が住む家であり、ワイエスはクリスティーナをモデルとしてよく作品を描いていた。しかし左の作品を描いた1968年、この姉弟はすでに他界しており、つまり、彼は、住人のいない家で、これを描き、姉弟の名をタイトルにしたことになる。後年、彼は語る。「彼らは死んでしまったが、それでもなお、力強くそこにいたのである」

まさしく。
不在とは、そういうものであるに違いない。不在をあなどることはできない。不在の豊かさが胸にしみる。





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# by kokoro-usasan | 2017-12-09 12:15 | 日々

これが。

e0182926_1125687.jpg書店で偶然見つけたプリーモ・レーヴィの新刊(改訂版)を電車の中で読み始める。乗車時間が短いので、最後に記載されていた「若者たちへ」という著者自身の短い「序文」にまず目を通すことにした。アウシュヴィッツから生還したこの著者が、1973年、若者にむけて書いた言葉に慄く。

ーそして何よりもファシズムはまだ死に絶えていない。ある国ではより強化され、また別の国では虎視たんたんと復讐を狙っている。ファシズムはいまだ「新秩序」を約束するのを止めていないー

2017年の今、その死に絶えていなかったものが、あからさまに息を吹き返し、自ら敬礼の仕方を覚えることにいそしむひとを増やし始めていることが切なすぎる。

悲惨な隠蔽があり、その隠蔽を可能な限り解明する人道的作業が次にあった。しかし、時が経ち、その解明の不足部分をあげつらうことで、悲劇そのものがなかったのだと逆転して憚らなくなってゆく心性にわたしは到底与し得えずにいる。




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# by kokoro-usasan | 2017-12-08 12:24 |

人間を。2

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続「無意識に人間を撮るシリーズ」

随分昔のことになるが、職場の近くにある書店の前で友人と待ち合わせしていた。仕事が終わって急いで駆けつけると、友人は書店の向かい側の地面にぐったりと足を投げ出して座り込んでいた。この写真の男性は、人通りの多いこの場所で悠然とタバコを燻らせていたけれど、友人は魂が抜けかけているような沈痛な面持ちで、もし顔見知りでなかったら、怖いと感じるくらい荒んだものを体からにじませながら、通り過ぎる人たちを睨んでいた。いや、彼があのとき睨んでいたのは、もっと違うものだったかもしれないけれど。なぜ、そこまで傷ついているのか、冷たいかもしれないが、わたしは彼に問わなかったし、彼もなにも触れなかった。ただ、よっこらしょと立ち上がるのを手伝って、一緒に歩き始めただけだ。

写真の男性は、むしろ、どこか充足しているようにも見えた。いずれにせよ、「こんなふうにわたしもできるだろうか」 なにかとても強いその問いかけが自分を底から押し上げるようにしてシャッターを切らせた。






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# by kokoro-usasan | 2017-12-07 09:22 | 追想

人間を。

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いい機会だから「無意識に人間を撮る」シリーズにしよう。この写真も忘れがたい。ひとりで死ぬことを、暖かい毛布にくるまって眠れることのように錯覚できる時間というのがある。この男性が、わたしの視界をゆっくりと横切っていったとき、なにかとても懐かしいものが胸に満ちたのだった。




追記
印象深い写真なので、これまで何度か紹介したことがあるのですが、このブログでも既に紹介していたのに気づきました。
http://kokousa.exblog.jp/15218785/
写真を撮ったのは2002年、このブログで前回紹介したのは2011年、そして、今年は2017年。そのたびに、添えるキャプションが違うことが、気恥ずかしくもあり。

そういえば、若さゆえなのか、もう二度と書けないだろう研ぎ澄まされた表現を、自分の日記のなかに認めることがごく稀にあり、過去の自分に嫉妬します。一方で、「そうは言い切れなくなる自分」を労わる思いも芽生えます。ここを過ぎて、もっと過ぎて、たとえば、5年後があるとするなら、わたしは、この同じ写真を見て、どんなキャプションをつけるのだろう、ふと心が宙をさまよいました。








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# by kokoro-usasan | 2017-12-06 14:19 | 追想

雑感

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無意識に人間を撮ってしまう。このご時世だから、気をつけないと、カメラを取り上げられて「肖像権が」と注意されてしまうこともあるかもしれない。この写真は2002年10月、ポンピドゥー美術館でのもの。イブ・クラインの作品の前で、子供たちが、クライン・ブルーについてのレクチャーを受けていた。みな、思い思いの格好。


ところで、そんな懐かしい写真とは関係なく、社会情勢への不安は日々募る。
岩波の「世界」12月号に掲載された笠原十九司氏の寄稿が心を捉えて離さない。

歴史修正主義。洗脳を力強い抱擁のように受容してしまう精神性は、ある意味祝福された境地といえるのかもしれないが、自他を疑う心をどこかに内在させていない情動がわたしは怖い。





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# by kokoro-usasan | 2017-12-06 11:32 | 追想

瞳のなかの水

e0182926_11505686.jpgこのネコちゃんの写真、以前どこかで見てなんとも言えない表情が印象的だったので保存しておいたのです。出典がわからなくてすみません。

最近、自分のスナップ写真が提出用に一枚必要になったのですが、あらためて撮るのも気がすすまず、古いのを探していました。古いといっても、もちろん、ここ数年のものですけれど。アルバムにはるでもなく、無造作に箱や封筒に入っているそれらを一枚一枚眺めていると、だんだん、自分が誰だかわからなくなってきて、当惑します。50年も生きていると、自分の脳内で一定の姿形を形成している「自分」がおり、それと、写真のなかの自分が、どうも重なってこないような、誰か別人のような感覚がしてくることがあるのです。いや、精神的におかしくなっているわけではないと思うのですが・・・。

言うなれば、何歳くらいのときの自分が、「自分」の一定の姿形として規定されているかということなのかもしれませんね。たとえば、わたしの母が、最近撮ってもらった自分の写真を見て、「あらぁ、だれ?このおばあさん・・・?」とまじめに訊いてくるのは、けしてウケねらいではないのです。

今年になって、母が入退院を繰り返すうちに、精神状態にも異常をきたしてしまい、仕事を続けながらでは介護が限界にきたとき、それでも、なんとか一緒に暮らしてゆく方策はないものかと悩むわたしに、ケアマネさんが、意外なほど、冷淡な態度を取りました。わたしはそれを内心恨んで、一時期、お互いの信頼が揺らいだことがありました。口には出しませんでしたが、不満を感じている感じは、ケアマネさんにも伝わっていたでしょう。けれど、ケアマネさんもまた、毅然としていたのです。たまりかねて、わたしは以前お世話になったことのある別のケアマネさんにも相談してみました。すると、そのケアマネさんは、とてもとても優しい親身な態度でわたしに接してくれました。ですが、結論は、「限界」ということで一緒でした。

今、母とわたしの関係は、当時と変わり、ショートステイを利用することで、365日のつきっきりの介護からは解放されました。毎晩、何度も起こされて母をトイレまで連れていっては寝かしつけるというようなこともなくなりました。そのときは、それを、なにも考えずに、やりこなしていたのです。まだ、できる。まだ、やれる、と思っていました。

でも、今回、自分の写真を見ながら、ケアマネさんがわたしを突き放した意味がわかるような気がしました。どの写真も、どの写真も、わたしの目は泣いているのです。同僚たちと仲良く笑っているときでさえ、わたしはなんだか泣きそうな顔をしていました。これが、わたしのこの10年だったのだと思います。そのことを無念に思うわけではありません。この10年、わたしが心の中で考え、悩み、乗り越えてきたものは、非常に大切なことばかりで、どんなやつれた顔になったとしても、わたしは心から感謝しています。

ただ、傍目には「限界」に見えていたのでしょう。医療ではありませんが、ある種の「ドクターストップ」を周囲のかたがかけてくれたのだと思います。母があんなに手のつけられない状態になったことも、もしかしたら、母自身が、「もうわたしにかまうな」と、わたしを諦めさせるためだったのではないかと考えてしまうことさえあります。今はショートステイ先で、わたしを嬉しそうに優しく迎えてくれます。

少し介護の手間が楽になったとはいえ、そのやつれた感じは、今も変わりありません。目の暗さも、なんだか染み付いてしまうのですね。でも、もともと、そんなにきらきらした人間ではないので、高望みはせず、この暗い目に、なにか、もう少し、優しい光がいつも灯っているようになったらいいなと思います。

この日々のなかで、気づいたことをひとつ、わたしは書いておこうと思います。自分の寿命だって、わからないわけですから、出し惜しみしないでね。

幸せって、なんだろうか、と考えていたのです。
で、今はこんなふうに思っています。

幸せは「なる」ものではない。「気づく」ものだ、って。






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# by kokoro-usasan | 2017-11-20 12:36 | 日々

ご無沙汰です。

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ご無沙汰しています。実のところ、どうしてそこまで付け焼刃で中身の伴わない美辞ばかりで政治が行われているのか、まったく納得できません。「革命」「革命」と、一体いくつ「革命」と名のつく部署を作れば気がすむのでしょうか。「革命担当」とはこれいかに。政治や歴史や哲学を少しでも真面目に学んだことのあるひとなら、あまりにも恥ずかしくて口にできないような言葉の誤用、乱用は、目に余るものがあります。コマーシャル業界なら、その誤用、乱用、換骨奪胎の妙味で仕事をするということもあるでしょうけれど、政治がこれでは、だんだん、その言葉の意味をどう解釈しているかで、相手と全然、話が通じなくなってしまいます。今でさえ、例えば、「極左」だの「極右」だのと言ってなにかを罵っている発言などを見ると、ネットに書き込みして暇な時間をつぶしている「極左」や「極右」が日本にはずいぶんたくさんいるんだなぁと不思議な気持ちになります。

と、久しぶりなのにいきなり愚痴から始まって恐縮です。わたしは、社会の出来事に当惑しながらも、穏やかに暮らしています。でも、この穏やかさが、つかの間の幸運であり、奇跡であることを最近はよく噛みしめています。いい本、いい音楽、いい景色、なにかずしりとくるものを味わいたい。


生き行くは楽しと歌ひ去りながら幕下りたれば湧く涙かも   近藤芳美

短歌を始めたという友人に、こんな歌を見ましたと上の歌を添えてメールしたら、お返しに自作の歌を送ってくれました。

去りながら楽しと歌う口の端に浮きし孤独を我は忘れじ


もう長く会っていない友です。





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# by kokoro-usasan | 2017-11-18 01:27 | 日々

日記帳

e0182926_0541279.png今年もあと2ヶ月というところに来てしまった。一応日記帳を毎年更新しているのだけれど、年によって、ぎっしり書き込まれている年と、失踪でもしていたのかと自分で困惑するくらい書き込みのない年がある。白紙が多い年は、それなりに理由があるのだろうが、書き込まれていないので、何年かすると、その理由も忘れてしまう。

今年も結構空欄が多い。いや、空欄だらけだ。現実に起こっていることの悩みが深すぎると、日記でその事実に向き合う気力もなくなるのだろうか。悩んでいることを切々と書けるときは、まだ、その悩んでいる自分を、たとえ自虐的にであってさえ、美化する余裕があるのかもしれない。今年はもう自虐的になっている余裕すらなく、家族を守り支えることに費やされた。その困難は今も続いているけれど、家族というものを考える上で、自分がまだ未熟であることにも直面したし、今後ますます、そこに気づかされることも多いに違いないと思う。だが、気づかないでいるよりも、それは、どんなにありがたいことかとも思えるのだ。

家族の寿命もそうだが、自分自身の寿命もそうはるか遠い未来ではない年齢になり、今年もつい先日、来年の日記帳を(いつも同じもの)買ったのだけれど、そのとき、ふっと、心細い気持ちを抱くようになったことは、若い頃にはなかった感覚かもしれない。


なんだか、森と水のあるところに
行ってみたいなぁ。

そうだ、来年は森に行こうかな。
鬼が飛び上がって笑うほど、気の早い話をしてしまった。





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# by kokoro-usasan | 2017-10-26 01:45 | 日々


閉じられていないもの


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