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リベリオン

a)
抜けるような青空だったが、早朝、庭には初霜が降りていた。初秋に買った鉢植えの撫子が、今ごろになって、たくさんの花を咲かせて、わたしを喜ばす。草花は、その内部で、どんな応答をしつつ、おのれを支え、花咲かせているのだろうか。

b)
経済的に豊かであることが「正義」であり、善であり、発展の究極の理想であるかのように意志統括されてゆくような社会において、いずれ、貧しいものは、福祉の対象ではなく、投獄の対象になるだろう。ひとひとりが、心穏やかに暮らしていけるだけの富を保障する政策ではなく、国力を示すための富を増やそうとするから、いきおい、ビッグマネーだけにたよった経済政策になる。貧しいものたちは、待遇が不当だと申し出ることで、その僅かな収入源さえ失うことになることを恐れ、だんだんにヒエラルキーの最下部に「固定化」され、米国における黒人がそうであったように、やがて「軍隊」に、ヒエラルキー脱出の夢を見たりするようになるのだろうか。拳をふりあげて「この道しかない」と語る、そんな裏を返せば実に悲惨な言葉でしかない言葉を語る者にさえ、その萎えた心を預けかねない閉塞感。「この道しかない、あなたには死んでもらいます」というのが、弱者に対するその拳の本当のベクトルかもしれないと、立ちどまって考えてみることもなしに。

c)
ドキュメンタリーを2本、立て続けに観た。一本は沖縄辺野古の基地問題を取り扱った「泥の花」、もう一本は原発立地を反対運動によって拒絶した街を取材した「シロウオ」だ。

「泥の花」は色々な意味で、胸の塞がる思いがした。海は命の母だから、埋立てて殺戮のための軍事基地にするなどということは到底認められないと、地元のかたたちが、一日も休むことなく海辺に出向き、国家による強引な工事が進まないように抗議を続けている。東京にいるわたしは、それを「活字」として知っている。国家権力と、一地方の住民による攻防、とでもいうような図式としてアタマに入っている。「すごいなぁ」「えらいなぁ」という感想も、実は、オキラクな活字的感想なのかもしれない。ドキュメンタリーを見ていると、確かにこの反対運動は、支持者を多く持ち、大きなうねりを作っているように見えるが、実際は、もっと、もっと個々人の覚悟に負っているものであることがはっきりとわかる。選挙などでもそうだが、「どうせ自分が投票したからといって」という言訳が、この低い投票率のご時世には、あたかも「もっともな言訳」であるかのように幅をきかせているが、沖縄のおじいやおばあが、子々孫々のために、ここで自分が黙っているわけにはゆかないのだと、毎日「海に座り」にゆく姿を思うと、ただその気持ちだけ携えて、何十年も抗ってきたのだということに胸打たれる。わたしは、この人たちに、「国民主権」の最後の砦を押し付けてきたのだと感じる。テレビニュースでは見聞きすることのできない現場での生な声、特に、国側の無礼な言動に触れるとき、やはり、そういうことなのだ、子羊には、優しい顔をしている国家権力も、自分に抗う羊、飼いならせない羊には、やがて、剥き出しの暴力性を見せるようになるのだということを覚えておかねばならないと思う。

「シロウオ」は、徳島県「蒲生田原発」と和歌山県「日高原発」という、いずれも、原発の建設場所にあがっていながら、住民の反対にあって、その設置が見送られた地域の住民たちに、当時の話を取材したドキュメンタリーだ。福島での原発事故を目の当たりにしても尚、原発マネーで頬を叩かれるようにして、稼動を許してしまう自治体も出てきている中、事故の起こるずっと以前から、放射能汚染で失うものの大きさを思い、それを阻止した住民たちは、福島の惨状を見ながら、自分たちの選択は正しかったと、当時の苦労も織り交ぜながら語る。ああよかったと安堵するように語る一方で、被災した福島のひとたちへの、他人事ではない悲痛な思いが、その言葉の奥に見え隠れする。そして、自分たちが、立地を阻止することができたのは、海で食べてゆける、という暮らしの基盤への信頼があったからかもしれないとも語る。海で食べてゆけるのに、1000万や2000万のお金と引き換えに、海そのものを失ってしまったら、もう二度と、自立の道は切り開くことができなくなるという、未来に向けての英断がある。原発が危険なものであることは、百も承知の上で、建設を断れない地域には、「積まれたお金」に手を出さざるを得ないような地域的な飢渇があるはずで、国はそこを重点的にぐいぐいと押してくる。それは、どこか、麻薬の売人のような手練手管を思わせる。
このドキュメンタリーの上映のあと、浜岡原発の5キロ圏内にお住まいという伊藤ご夫婦が、建設を阻止できなかった住民の側からの痛恨のメッセージを語ってくださった。国は、そこに原発を作ることで、原発マネーが行き渡り、地域が活性化するという話をしたが、実際にはどうだったか。伊藤さんは次のようにまとめられた。
①大手チェーン店の進出により地元商店は閉店
②箱モノの建設により、土建関係者だけが利益を得る
  議員16名中6名が原発の下請け
③豊富な交付金で行政の立案能力がなくなる
  何を作るかは経産省の外郭団体のコンサルティング会社が決定
④転入者は原発下請け業者と飲食店
⑤風紀が乱れる
  建設ラッシュの時は中学校の周りに暴力団事務所が六ヶ所
  単身赴任の工事従事者のための売春や麻薬
⑥原発があることにより企業誘致がされない
また御前崎市立病院に関しては、原発3号機を受け入れる見返りとして100億円の寄付を得て建設されたが、毎年10億の赤字を出し、医師が不在という状態に陥ったため、今度はプルサーマルを受け入れる見返りとして5人の医師を派遣してもらうという約束を取り付けたという。このようなものは、本来作るべきではなかったのではないかと取材に答えた病院長は解雇。

こうした実態を聞くとともに、たとえば、今後、東海地震は必至といわれている中、浜岡原発の30キロ圏内には、現在90万人のひとが住むという現実、この90万人をどこへ避難させるのか、なんの対策もないままに、稼動への準備がなされることへの、なにかどうしようもない「命への無感覚さ」をどう考えたらいいのだろうかと思う。だが今、この国は、「この道しかない」という言葉に、不思議な陶酔を覚えるひとたちに牛耳られている。

d)
戦後、アジアの中でいち早く経済的な成長をとげた日本は、近隣諸国へ常に上から目線の優越感を享受してきたため、原発が爆発して、今に至るも、汚染水は制御できず、多大な害を、空にも海にも撒き散らし、その天文学的に続く汚染を世界に向けて放ったことを、世界はおろか、近隣諸国にも、詫びてはいない。そのくせ、中国の大気汚染が、日本列島に影響を与えることには敏感だ。もはや、原発事故に関しては、あたかも、「自然現象」であるかのように、放射線量を測定し、子どもの甲状腺がんが、ありえない数字でのびてきていても、事故との関連を認められない、と嘯く。では、逆に、事故との関連が認められるているものを教えてもらえないだろうか。はっきり、そう言えるものは、ありません、という澄ました答えが返ってきそうではないか。

e)
沖縄の基地問題にしても、原発の問題にしても、「出来てからではもう遅い」という地元のかたたちの言葉を重く受け止める。それは、たとえば、憲法改正の問題にしても、特定秘密保護法の問題にしても、皆同じなのだろう。バブルがはじけたあとの閉塞状況のなかで生まれてきた世代の若者達にとって、拳をあげて、豊かさを約束する政治家は、新鮮ですらあるのかもしれないことを危ぶむ。わたしには、「この道しかない」などと言われることの閉塞感のほうが、圧倒的に気味が悪い。もっと、別の道がある。常に、別の道があるかもしれないことを、自分に問い続ける。それは、隣の芝生は青いというような、右往左往する利己的な別の道の模索のことではない。人間は罪を冒す、という怖れゆえの自戒だ。
  
by kokoro-usasan | 2014-12-07 00:21 | 日々 | Comments(0)


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