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名づけてのちの・・・。

名づけてのちの・・・。_e0182926_10343789.jpg熱帯夜が続く。

宿題は午前中の涼しいときにしなさい、と言われた子ども時代の夏休みを思い出す。熱帯夜続きでは、そんなふうにほっとできる涼しい朝もない。見れば、朝顔すら葉を灼かれて精気がないのだけれど、庭の隅では、秋を告げる花、桔梗がもう咲き始めた。

そういえば、桔梗は、秋の七草だけれど、山上憶良が挙げたそれらの名称「萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝貌(あさがほ)の花 」 の中に桔梗という表記はなく、最後の「あさがほ」というのが、今の桔梗のことなのだと習った覚えがある。さらに千年後、この花はまだ桔梗と呼ばれているだろうか。そう呼んで愛でる人の暮らしはそのときも続いているだろうか。


a)
先日、やや底意地の悪い心持ちで苦笑してしまったのは、安倍首相が、自身の経済政策の見通しについてのインタヴューに答えた際、もしうまくゆかない場合は、日銀にも「責任」を負ってもらうとほのめかしたときだった。本来、政府の言いなりにはならないという独立性を担保されていたはずの日銀を、おそらくはかなり高圧的な手段で懐柔しておきながら、政策が順調に見えるときはすべて政府の得点とし、雲行きが怪しくなってきたと見ると、日銀にも責任があると言い始めてしまう言動の幼児性と土壇場での無責任さは、第一次安倍内閣を、言語道断のタイミングで放棄したときから、何も変わっていないように思え、あらためて深く懸念される。まずなによりも、この人物の権力的野望の大きさが、人間や社会に対する認識の浅さとどうもつりあっていないようなのが心配でならない。なぜ、自民党は、この人物を総裁に再選したのだろうか。ひとつには、後ろ盾の強固な「政界の御曹司」の独善さを逆手にとって、後ろ盾がなければ二の足を踏むようなデリケートな政策でも、御曹司さえその気になってくれれば、ごり押しが最もスムーズにできると踏んだからかもしれない。しかし、彼等は墓穴を掘ってはいないだろうか。どう見ても、最近の自民党は、安倍氏の陰に隠れすぎていて、安倍氏以外の閣僚の発言にまったく精彩がなく、みな、安倍氏の発言を繰り返すばかり。安倍氏の世界観から離れたことは一切語ろうとしない。この状況は異様だ。まず、自民党内で、「秩序」が強要され、発言の自由が奪われ始めているのではないかと訝しむ。なんとなれば、「御曹司」というものは、旗色が悪くなれば、誰かに責任を押し付けて、自分は安全圏に逃げるアドバンテージを持っているもので、調子よく彼を持ち上げてきた党員たちは、その責任が自分にまわってくるかもしれないことに戦々恐々とし始めているのではないか。回り始めた歯車が加速して思わぬことにならぬように願う。

b)
liberal democratic party of japan
democratic party of japan
new komeito
japanese communist party
your party
japan restoration party

これらは上から順に、自民党、民主党、公明党、共産党、みんなの党、維新の会の、英語による名称だ。日本語で妙に曖昧に感じるものを、英語表記でどう訳しているかを参考にしてみることが時々あって、今回も、しばらく前、徒然に検索してみたのだ。そのきっかけとなったのは、「自由民主党」の「自由」という冠が、以前から妙に心にわだかまっていたからだ。自民党の「自由」とはどういう「自由」なのか、と。

というのも、わたしが小学生の頃、自由民主党は、政治を知らないおおかたの子どもたちにとって、一番強くてかっこいい党ということになっており、それは物心ついたときから、彼らが日本の舵取りをしている政党だったからだ。一番「偉い」政党。会社でいえば、「社長」なのかなという単純な発想だった。だが、それ以上に、もっとストレートに魅力的だったのは、その「自由」という言葉だったのではないかと思う。「自由」という言葉は、他のどんな政治的命名の妙にも増して、なにか一段上の人間的共感性を持っていはしまいか。仮に、すべての政党の冠に「自由」をつけて読んでみればいい。どの党も、格段に親しみを増す。これは、わたしだけの感覚かもしれないが、そんなふうに感じられるのだ。しかし、liberalという言葉は、政治・社会的には、とても複雑な出自を持つものであり、意味合いの変遷の中で、正反対な使われ方もしており、日本語の「自由」という単語だけでは容易に理解され得ない内実を持っている。もはや、子どもではないわたしは、「自由」という日本語の魔力にからめとられることは無いが、その言葉が、実に深い魅力を持つことを感じるたび、よりシビアに、人間の政治とはどういうものなのか、考えずにはいられない。まして人間の社会の特定の場所にのみ手厚く「自由」を約束するような政策には疑念を抱く。それは「放恣」というものだからだ。

今回は、あまりに暑さに、わたしの言葉もやや放恣になってしまっただろうか。ご容赦。
by kokoro-usasan | 2013-07-12 12:00 | つぶやき | Comments(0)


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