時間について
ほら、ここにも。
軒下のわずかな土に根付き、
花ひらく、朝のムラサキツユクサ。
かつて神聖ローマ帝国の首都だったプラハの市会堂には大きなからくり時計があるのだという。1410年、ミクラスという時計職人が作り、それから500年以上の時を、そこで刻み続けている。1時間ごと、骸骨が、生者の為に鐘を鳴らしてくれるらしい。
「がいこつは、死の使者であり、時間の動きは、私たちが死に近づくことをしらせ、死者の立場から生者の動きを計っている。時の流れが、一時間、一分、一秒というふうに一様であるのは、死んだものにしかあり得ない無機的な運動として、生を計っているからである。この時計の動きは、死者からの、自分たちのいるところにむかえようとするまねきである」 (鶴見俊輔「市会堂の時計」より)
時計によって正確に計ることのできる時間とは、すでに生きることをやめた死者にしか流れない時間だという鶴見さんの言葉にはっと息の呑む。その驚きは、生きている人間には、万人に一律に流れる時間などありはしないということを、もう一度考えさせてくれる。
鶴見さんのような広く深い視野はとても持ち得ないわたしではあるけれど、たとえば、朝、庭におりて、草木を見る時間でさえ、不思議なはからいによって、日々伸び縮みしていることを感じる。一瞬が永遠にもなり、永遠が一瞬にもなるという、人間の内的な時間の流れ方には、神聖さというよりは、どこかデモーニッシュな奥行きが感じられる。おそらくそれは、二律背反ではなく表裏一体といっていいもので、だからこそ、ぞくぞくするほどに誘惑的であり、かつ、打ちのめされるほど酷薄なものでもあるのだろう。
「あなたと生きる」と思った時間が、庭の草のあちこちに、清らかな露となって宿り、空の色ごとに、光の粒子となって降り注ぐ。様々な面影が交錯し、「わたしたちは生きた」と、何度も繰り返し告げる。「あなた」は折々に異なり、「わたしたち」も、様々に変幻する。そこにある歓喜も悲哀も含めて、生が色彩に満ちたものであることを確認して、わたしは死にたい。
by kokoro-usasan
| 2013-05-04 11:48
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