人気ブログランキング | 話題のタグを見る

アグネスの詩

アグネスの詩_e0182926_1326577.jpg路傍の僅かな場所にも春は身を寄せ合って。小さな風車のような花びらの姫蔓日日草。地味だけど愛らしい野の花たち。

昨夜、イ・チャンドン監督の「ポエトリー アグネスの詩」をDVDで観た。66歳、離婚して働く娘の代わりに、中学生の孫息子と暮しているミジャは最近、アルツハイマーの初期症状が出ていると医師に告げられる。確かにこのごろ、会話の中で、思うように名詞が出てこなくなっているのを感じていた。医師は言う。「そう、名詞も、やがては、動詞もです・・・」と。病院からの帰り道、突然ミジャは、昔、才能があると褒められたことのある詩を書こうと思い立ち、そのまま詩作教室の門を叩く。一方、テレビやゲームに興じるばかりで会話もない孫息子の学校では、一人の少女が川に身を投げて自殺する事件がおきていた。ミジャは孫に、亡くなった同級生のことを聞くが、よく知らないと素っ気無く返される。ミジャたちの暮らしはけして豊かではない。ミジャは、半身不随の男性のヘルパーとして入浴の介護などを行っている。気難しい老人で他のヘルパーは長く続かないのだが、「雲雀のようにおしゃべり好きな」ミジャのことが内心気に入っている。少女のようなつば広の帽子を被り大きな網籠をぶらさげ、明るい色の服でおしゃれに歩くミジャ。どこか夢みる眼差しの。





ある日ミジャは孫の同級生仲間の父親たちに呼ばれ、ミジャの孫を含む複数の少年達が、半年に渡り、亡くなったクラスメートの少女に性的暴行を加えていたことを知らされる。その事実が少女の日記に記されていたのだ。父親たちは、この事実を闇に葬るため、少女の母親が警察に告発しないよう示談を検討していた。少女は父親を早くに亡くし、母子家庭だった。ミジャにも、示談金の割り当て額が申し渡されたが、とても用意できる金額ではない。ショックを受けたまま帰宅すれば、孫息子は普段通り、スナックを食べこぼしながらテレビを見ている。ミジャには、孫に何も問いただすことができない。

雲雀のように囀る気力を失ったミジャを、半身不随の男性は訝しむ。何故、いつものように喋らないのかと問うと、「もう、喋らない。若い頃にも言われたっけ。おまえは微笑むな。おまえの微笑みは男を惑わすと。」男性は、薬の名前を伏せたまま、自分に薬を飲ませてくれと頼み、ミジャにバイアグラを飲ませてもらう。浴室でそれが判り、見くびるなと憤激するミジャ。

こうした日々の間にも、ミジャは詩作教室にまじめに通い、自然の中で、なにかを感じるたびに、小さなノートを開いては書き留める。美しいもの。ほんの少し。詩にまでは至らない。あなたの人生の中で最も美しいと感じた瞬間は? と詩の先生からの宿題。

示談に応じない少女の母に危機感を募らせた父親たちは、「孫がたよりの哀れな老女」に望みを託し、母親を泣き落としにゆくよう頼む。人里離れた畑で農作業していた母親を、半ば強制的に訪ねさせられたミジャは、その自然の美しさのなかで、自分の用件を忘れてしまい、キョトンとする母親に、素晴らしいところだとひとしきり嬉しそうに語って、そのまま帰ってきてしまう。途中で思い出したが、もう、引き返すこともできず、少女が身を投げた川にゆき、そこで、詩のノートを開く。白紙のまま雨粒がページを濡らす。ミジャは半身不随の男性のもとを再訪し、今度は自分から彼にバイアグラを飲ませ、浴室に誘う。

詩の朗読会で出会った刑事は、仲間達に人気があるようだが、朗読のあと必ず猥談になるところが、ミジャには許せない。詩は美しいものを書き留めるものなのに。そう批判されても、刑事は大らかに構えて動じない。あの刑事さんは、正義感が強く、不正を告発して、逆に左遷させられた人なのだと仲間がそっと教えてくれる。悪い人じゃないのよ。

母親が示談に応じることになったと知らせを受けたミジャは、示談金を工面できず、バイアグラの件を担保にする形で男性から大金を受け取る。はじめからそのつもりだったのかという問いには答えないミジャ。少年の父親たちに割り当て金を渡すと、これで一件落着と安堵している彼らを一瞥して去る。

その夜、ミジャは孫息子の爪を切ってやる。そして、これからは、いつも清潔にしなさいと諭す。あしたになればお前の母親がくるからね。運動不足解消のために孫とふたりでやっていた夜のバドミントン。この夜は、途中で刑事がやってきた。一緒にやってきた部下が孫を車に乗せて、どこかへ連れてゆく。孫は抵抗もせず、静かに座席に消えた。孫のかわりに、その刑事と一緒にバドミントンをするミジャ。

   おやおや。

わたしは、なにを、だらだらとあらすじを書いているのだろう。それも、意識的にいろいろ省略してしまってるし。これから見ようと思ってらっしゃる方もいるでしょうに、ごめんなさい。でも、監督の映像自体も、かなり意識的に、説明が排除されているのだ。

物語の中に、わかるわかると、安易に感情移入できる人物がいないように思うのは、わたしだけだろうか。
そういう意味で、実にすわりの悪い映画だ。最後までずっと心細い。主人公であるはずのミジャに対してすら、なんだ、このおばさんと首を傾げたくなるシーンがいくつもある。でも、この生臭い心細さこそが、リアリティーというものであるように、わたしには思える。「なんだか、よくわからない」うやむやのなかで、美しいものを求める心は、恥ずかしいくらい軟弱にひくひくと震えるばかりの酸欠状態に喘ぐのだが、だが、誰も、おまえこそが醜いと他者を指差せる指など持っていない。

「アグネス」とは、死んだ少女の洗礼名だ。ミジャは最後、アグネスに成り代るようにして一編の詩を作った。これは、そのままに、イ・チャンドン監督のメッセージと取っていいだろうと思う。川面に浮かんで流れてきた小さな骸でしかなかったはずの少女の詩が、心に沁みてゆくまでに、わたしには、しばらく時間が必要だった。それはわたしが、人生の滓にからみとられた人間であることを教えてくれる。心を澄ませて、見ようとしなければ、見えないことばかりなのに、見えていると思ってしまう日々のことを、あらためて考えた。物語の最初と最後にしか出てこないこの少女の命を、生きているなら、おまえが生きろ、と監督に言われているような気がしてくる。そして、それは、全霊でアグネスに心を寄り添わせながらも、間もなく記憶を喪ってゆくのだろうミジャの代わりに生きることでもあるのだろうか。
by kokoro-usasan | 2013-04-15 14:52 | 映画 | Comments(2)
Commented by 浩子 at 2013-04-15 21:10 x
イ・チャンドン監督の映画、大好きです。これも、公開されたとき「あ、見なければ」と思ったのに、あっという間に終わってしまって……もうDVDになっているのですね。
説明を排除する、というのは観客を信用していないとできないことだと思いますが、そういう作り手を、観客は信用するのだと思います。私は『オアシス』も『シークレット・サンシャイン』も『ペパーミント・キャンディ』も複数回見ていて(そんなことはめったにありません)、それは「ああ、なんでこの人はこのときにこうした(こう言った)んだろう」と考えるのが好きで、そうさせてくれる作品だからなんだと思います。特に『シークレット・サンシャイン』のソン・ガンホの役(名前を失念してしまいました、すみません)は、3度目に見たとき、遠藤周作が書いていた「神というのは、困った人に寄り添ってとぼとぼ歩く犬」という言葉を思い出し、まさに彼が「そんな神」に思えてなりませんでした。
『ポエトリー アグネスの詩』、楽しみに見ます。
Commented by kokoro-usasan at 2013-04-16 10:59
浩子さん、とても嬉しいコメントでした。ありがとうございます。普通ならタブーに感じる長いあらすじを書いてしまったのも、あらすじでは何もわからないものがこの映画にはあると思えていたからなのだと思います。
わたし、実はイ・チャンドン監督の映画、これが初めてなんです。浩子さんにコメントいただいて、興味津々!わたしも他のを見てみようと思います。「ポエトリー」では、刑事さん役が、なかなか興味深い役どころでした。


閉じられていないもの


by kokoro-usasan

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

最新の記事

雨続き⑵
at 2024-03-26 20:19
雨続き
at 2024-03-26 10:33
沈丁花 曇天
at 2024-03-24 11:59
ふき
at 2024-03-12 11:44
与一
at 2024-03-11 12:12
竹取物語
at 2024-03-04 13:15
意地悪はしないにかぎる
at 2024-03-01 11:29
言い訳が多いのは、無いも同じと。
at 2024-02-26 12:40
遠くまで見晴らせるキッチン
at 2024-02-24 18:40
フジヤ君の弟
at 2024-02-23 21:39

以前の記事

2024年 03月
2024年 02月
2024年 01月
more...

カテゴリ

全体
日々
つぶやき
ことば
音楽
映画

演劇

トピックス
スナップ
すてき
あやしい特派員
さまよえる消費者
すきなもの
あじわい~
気になるこの子
展覧会
庭の楽しみ
手をうごかしてみる
追想
ごあいさつ
きょうの新聞から
幕間
一枚の写真
ダンス


未分類

記事ランキング

外部リンク

検索