足裏の冷たきこと
東アジアサミットの映像の中で、オバマ大統領がガムを噛んでいたのが、どうも気になっていた。あれが、有名な禁煙ガムなのだろうか。大統領選挙の際、禁煙を宣言するとともに禁煙がムを噛んで遊説にまわったという話は聞いていたが、実際に会議の場で噛んでいるのを見たのはこれが初めてだった。禁煙がムを噛んで会議に出席するくらいなら、自分はヘビースモーカーであるから、会場内で煙草を吸うことを認めてほしいと願い出るか、会議の前に、思う存分吸ってから出たほうが潔いのではないかという気がする。会議で禁煙ガムを噛んでいるのをみて、「努力家ですね、えらいですね」と思う人が一体何人いるだろうか。この会議が、彼にとって「高ストレス」であることを世界に告白しているようなものだ。
オバマ大統領の今後を考えるとき、なにか、あのガムを噛む姿が目に焼き付いて、期待を削がれる。それは、ビン・ラディンを殺害したと報じた時の、彼の驚くほどの悪相を垣間見てしまったときからのような気もする。
政治家の任務は、テロリストを殺害することではない。いや、正しく言い換えれば、テロリストを殺害してその「口を封じる」ことではない。ジャーナリズムの任務も、テロリストが殺害されたことを、広報官の発表に添って、その通りに報じることなどでは断じてない。けれど、それを殺害という形で終息させたいのは、おそらく、両者のどちらにも、その方法以外を講じる手腕を持つものがいないからなのだろう。だとしたら、テロリストと同じ言動のレベルということだ。
これは、ただ例にとってみただけで、わたしのようなものが、政治やジャーナリズムに口をはさめるのは、そういう表層的な「印象」にすぎないのだから、とても心苦しいけれど、とにかく、どこもかしこも「口封じ」に奔走する有様を見ていると、もはや、どこから、どれだけの膿みが、ほとばしり出てきてもおかしくはないと思えてくるわけで、薄皮一枚のそれをうかつに突いたりしないようにしたとしても、あと何年持つのか。
福島の原発事故の影響で、生まれ故郷の父親を亡くし、今、嫁ぎ先の佐賀で、今度は玄界灘の原発問題に揺れる中、それでも静かに暮す友人が、「一日、一日、幸せに過ごしてゆこうと思います」と手紙で書いてきた。わたしは、この言葉が、苦しくて、あまりに苦しいので、腹を立ててしまい、むろん、自分ひとりで腹を立てるだけであって、誰かを責めたいのでも、ましてや、そう書いてきた友人を怒りたいのでもないのだけれど、しばらく、ずっといらいらしながら過ごした。
その理由はわかっている。わたしもそうだからだ。そうしたいからだ。世の中で何が起ころうと、どんなに苦しんでいる人がいようと、自分に授かった一日を、「幸せにすごしてゆきたい」気持ちは、わたしにもあるからだ。そして、それは、自己中心的にそうしたいのではなく、「いつ、その断末魔の苦しみが、自分自身に襲い掛かっても、わたしは、それを引き受けて死にます」という気持ちの裏表だということを知っているからだ。
なにか、そういうことが悔しく、禁煙ガムに歪む口が、そのことを思い出させ、噛み終わったガムのように、紙にくるまれて捨てられてゆく、あらゆるものを、思いださせ、死ぬ準備というのは、どういうものだろうかと、今度は呆けたように、ぼんやり考えてしまうのだった。
オバマ大統領の今後を考えるとき、なにか、あのガムを噛む姿が目に焼き付いて、期待を削がれる。それは、ビン・ラディンを殺害したと報じた時の、彼の驚くほどの悪相を垣間見てしまったときからのような気もする。
政治家の任務は、テロリストを殺害することではない。いや、正しく言い換えれば、テロリストを殺害してその「口を封じる」ことではない。ジャーナリズムの任務も、テロリストが殺害されたことを、広報官の発表に添って、その通りに報じることなどでは断じてない。けれど、それを殺害という形で終息させたいのは、おそらく、両者のどちらにも、その方法以外を講じる手腕を持つものがいないからなのだろう。だとしたら、テロリストと同じ言動のレベルということだ。
これは、ただ例にとってみただけで、わたしのようなものが、政治やジャーナリズムに口をはさめるのは、そういう表層的な「印象」にすぎないのだから、とても心苦しいけれど、とにかく、どこもかしこも「口封じ」に奔走する有様を見ていると、もはや、どこから、どれだけの膿みが、ほとばしり出てきてもおかしくはないと思えてくるわけで、薄皮一枚のそれをうかつに突いたりしないようにしたとしても、あと何年持つのか。
福島の原発事故の影響で、生まれ故郷の父親を亡くし、今、嫁ぎ先の佐賀で、今度は玄界灘の原発問題に揺れる中、それでも静かに暮す友人が、「一日、一日、幸せに過ごしてゆこうと思います」と手紙で書いてきた。わたしは、この言葉が、苦しくて、あまりに苦しいので、腹を立ててしまい、むろん、自分ひとりで腹を立てるだけであって、誰かを責めたいのでも、ましてや、そう書いてきた友人を怒りたいのでもないのだけれど、しばらく、ずっといらいらしながら過ごした。
その理由はわかっている。わたしもそうだからだ。そうしたいからだ。世の中で何が起ころうと、どんなに苦しんでいる人がいようと、自分に授かった一日を、「幸せにすごしてゆきたい」気持ちは、わたしにもあるからだ。そして、それは、自己中心的にそうしたいのではなく、「いつ、その断末魔の苦しみが、自分自身に襲い掛かっても、わたしは、それを引き受けて死にます」という気持ちの裏表だということを知っているからだ。
なにか、そういうことが悔しく、禁煙ガムに歪む口が、そのことを思い出させ、噛み終わったガムのように、紙にくるまれて捨てられてゆく、あらゆるものを、思いださせ、死ぬ準備というのは、どういうものだろうかと、今度は呆けたように、ぼんやり考えてしまうのだった。
by kokoro-usasan
| 2011-11-21 11:30
| つぶやき
|
Comments(1)
Commented
at 2011-11-21 17:01
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
閉じられていないもの
by kokoro-usasan
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