格子なきあれこれの果て
a)
最近、友人に書く手紙が、無意識に遺言状じみてしまう。
死にたいわけではさらさらない。どこか遠くへ行きたいのだ。
思春期に見た「格子なき牢獄」のあの女主人公は、そのあとどうしたんだろう。ずっと気になっている。あの女主人公の恋人だって、あれで自由な決断といえるのか。本当の意味で自由だったのはあの娘だけではないのか。若い情熱だけしかあの場では勝利していない。だからといって、あれら大人の手垢のついた振る舞い、諦念ぶった賢しらさにもいささかげんなりする。
あの娘には、ひとりで扉を開けて、新天地に出ていってほしかった。そういう筋書きであってほしかったのに。
今見たら、思っていたのとは、全然違うストーリーだった、なんてこともあるだろうか。わたしの中に膨れ上がっていたあまりの脚色にびっくりしたりもするのだろうか。
b)
「あの娘には、
ひとりで扉を開けて、
新天地に出ていってほしかった。
そういう筋書きであってほしかったのに」
映画の筋とは関係ないが、
思えば、この一行は、さっき、文章の神様が、わたしに書かせた文だ。
こっくりさんみたいに書かされたのだ。
だとしたら、
そう言われているのはわたしなのだろうか?
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by kokoro-usasan
| 2024-03-18 16:15
| 日々
なげー、のだ。
メガネの度が合わなくなってきた上に、ツルが外れてしまったので、レンズもフレームも新調することにしたのだが、眼鏡店のかたが、「今、ちょうどセール中で、10%割引なんです。ラッキーな時に見えましたね」とにっこりした。それはよかったと思う間もなく、「割引にはライン登録が必要になります」と説明され、「スマホは使っていません」とあえなく割引をお断りする顛末となった。今時、そんなやつがいるのかと、職場の同僚からも白い目で見られているが、ガラケーさえカバンの底に入れっぱなしになっているような状態で、スマホなど活用しそうにない。情報弱者のことを、「情弱」というのだそうだが、それさえ、「情に脆い人」のことかと思っていたくらいだ。
最近の年下の同僚は、何かを伝達している際に、聞いてわからなかった単語を、話している相手にではなく、スマホに問い合わせる。それは一見、賢い方法に見えるが、言葉というのは、どのような意味合いで言っているかを相手との関係性で捉えなければあやまることの多い道具なので、スマホで検索した内容そのままでいいかどうかを判断してから、会話に戻る必要がある。しかし、そのようにすり合わせする同僚はおらず、指先だけで、こっそり検索し、ただただ会話に遅れまいとする。たとえば、話している相手が、認知があぶなくなってきたお年寄りだったりした場合、言葉をこえて察してあげなければならない部分が6割を超えることもあるのに、その「察する部分」のセンスは、スマホでは検索できないし、鍛えられないので、延々とトンチンカンなやりとりをしているのをよく見かける。
人間なんて、知らなかった、わからなかった、と不甲斐なく、悔しく思う時間を、そこそこ味合わったほうがいいような気がしてならない。かつては、わからない解釈が出てきたとき、「すぐ聞こうとしないで、調べなさい」という先生がいたが、それは、スマホで一発検索してわかればいい、という話ではないし、本来は、「わかった」と思ったことに関しても検証が必要になるものなのに、そのように面倒な人間のつきあいも、ないがしろにされることなく、維持できているのだろうか。
メガネの話が、脱線してしまった。わたしがスマホを持っていないことを知ると、お店の方は急に恐縮して、「スマホなんて、あんなもの、持ってなくていいんです」などと、極端なお愛想を言うので、可笑しかった。「僕も、持ってますけど、あんなもの、全然使う機会もないし、ラインなんて、友達もいないから、全然意味ありません。お金ばかりかかって!」と、だんだん、スマホディスりがエスカレートする。そこまで、言わなくてもと、こちらのほうが、気の毒になってくる。とにかく、10%引きにはならず、普通に支払った。
そうだ。今日の本題は、メガネの話ですらなかったことを、今頃になって思い出した。
自分は、短い手紙にも、長々と返信してしまう人間であることについて、ぼやきたかったのだ。しかし、そのテーマと、この長たらしい文が見事に符合しているので、おそれいる。この結論に至るのに、ここまで前置きしたということなのだから。本当にやれやれだ。こんな人間に、ラインをやらせたら、大変なことになる。それこそ、「おめーのはなげーんだよ」と、袋叩きになりそうではないか。世の中から憎しみをひとつ減らせたと思えば、心慰められる。
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by kokoro-usasan
| 2024-03-14 15:56
| つぶやき
ふき
(斎藤隆介作 滝平二郎絵 「ふき」より)
春の訪れの間近さを感じ始めているだけに、逆戻りするような冷たい雨が気持ちを沈ませる。身体が春を感じると、無意識のうちにも寒さに対する耐性が緩んでしまうのだろうか。「三寒四温」に翻弄されながら、心もまた行きつ戻りつするあてどない疲れ。
春を書かせたら、北の国で生まれたお話に勝るものはないと常々思う。厳しい冬に耐え抜いた彼らならではの飾らない言葉、その寡黙さも含めて、素朴にずしんと体当たりしてくる思いに圧倒される。南には南の果実の汁のようなエロスがあるのだけれど、北の国の想念はまた格別の情緒に縁取られている気がする。
父を殺した鬼を討つため、小さな娘のふきは、雪崩を起こして、おのれもろとも、鬼の息の根を止める。
「山をあらすやつ、人をころすやつ、とうちゃんのかたき、おらとしねっ!」
父親に買ってもらった金色の花かんざしを逆手にかざして、雪の波間に消えてゆくふきの、「おらとしねっ!」という言葉の強さに慄然とする。小さな子供のどこに、自分の命まで差し出す、そんな不屈の魂が宿っているのか。雪国の冬の厳しさを思わざるを得ない。
春になって、雪の間からふきのとうが芽を出すのを見るたびに、ふきの話し相手だった大男の大太郎は泣く。斎藤さんのお話もさることながら、滝平さんの唯一無二のこの画風に接すれば、わたしもまた、大太郎のように泣きたくなるのだった。
ふきを偲ぶ、金色の花かんざしが、北の大地に芽生えるのもそう遠くはない。
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by kokoro-usasan
| 2024-03-12 11:44
| つぶやき
与一
「うるう」という演劇作品を見た。
能登半島での震災復興支援のために、無料で公開されることになったという。
シンプルだけれど、とても洗練されたセットで、センスの良さを感じた。
主人公の名前は、与一だったか、余一だったか、ここに書こうとして、字がわからなくなり、ふと手が止まってしまった。四年に一度の四一もかけているかもしれないな。
そういえば、父の親族にも「与一」という名前のかたがいて、昨年亡くなられた。子供のころは、若いのになんだか時代がかったの名前だなぁと感じていたが、この作品を見ているうちに、存在の「かけがえのなさ」が伝わる美しい命名に思えてきたものだ。視聴すると、募金になる仕組みだそうなので、ここに動画をそのまま貼り付けようと思いましたが、なぜか貼り付けられなかったので、アドレスでご紹介しておきます。
https://www.youtube.com/watch?v=afmRXszcJgE
(「うるう」小林賢太郎)
時間が過ぎ去るのではない。我々が過ぎ去るのだ。そう言ったのは、誰だったろう。歳を重ねるにつれ、まことにその通りだと思えてきた。
余談:最近、ブログを更新しても、記事が、ネス湖のネッシーみたいになっていまして、ご容赦です。消したとは限らず、非公開にしたり、また解除したりしています。「え?さっきの記事は?」と思うことがあるかもしれませんが、気ままな管理人ですので、なにとぞ、ご理解のほど。
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by kokoro-usasan
| 2024-03-11 12:12
| 演劇
竹取物語
a)
幼い頃、私の父は、私がどこから来たのかという問いに「竹の中にいた」と答えたことがあった。竹林の中で、光っている竹があったので、スパッと切ってみたら、中に入っていたと。どこかで聞いたような話である。高校の古文の時間に、その「どこかで聞いたような話」に再会した。その姫君とは似るべくもない私だが、彼女の不可解な我儘さだけは、自分とどこか似ているように思え、その意味で、そうか、わたしも竹の中にいたのかと妙に納得したものだ。竹ではなく、川を流れる桃の中に入っていたら、別の人生が待っていたことになる。お供をつれて鬼退治にゆく運命には向かない性質に思えるので、桃でなくてよかった。
あるとき、自分では「竹の中にいた」などと言っていた父が、軽口好きな親族が私に「おまえは神田川の橋の下で泣いていたのを拾ってきたんだ」と言った時、彼をこっそり戸外に連れ出し、もう一度そんなことを言ったらぶっ殺してやる、とその人の胸ぐらを掴んだという。(←後日談:母の証言)当の私は、親しみをこめた軽口にしか聞こえなかったので、一緒に笑いこそすれ、父が密かにそんな挙動にでていたことは知る由もなかった。細かい事情は伏せるとしても、「竹の中」より「神田川」のほうが、真実に近く、それが、父には許せなかったのだろう。いずれにしても、父にとっては、「竹の中」こそが、彼にとっての心の真実だったのだと、私は思う。
b)
授業で読んだその物語は、下手な哲学書よりもずっと私の心を掴み、これは一体何の話なのだろうかと深い印象を残した。この世での愛着も確執も、天の羽衣一枚で断ち切られ、月に帰ってゆける。それを決断するのは、竹の中にいた子供の意思ひとつなのだった。きわめて壮絶な話に思えた。学校から戻ってもその興奮は止まず、母に、「その羽衣をまとった途端、すべてを忘れてしまうんだよ。翁も媼も、目の前で、すべてを忘れた我が子を目の当たりにしなければならないなんて、そんな残酷なことってある?どうして、そんな結末なのかな?」とまくしたてた。母は何も言わず、あるいは、興奮する私に取り合わず、苦笑しながらその場を離れたように記憶する。
c)
今朝、居間に飾った雛人形たちの写真を撮ることを思い立ち、ついでに自分も撮ってみたのだが、目を背けたくなるほど野暮ったい初老の女がそこに写っていたので、あぁ、これが現実なのだと、自分の人生に対してひどく申し訳ないような気になった。月に帰るのを渋っていたら、竹の中の子も哀れな老婆になるのである。背後に並べられた雛人形たちだけが歳をとらず、ツヤツヤとした品のいい佇まいを保っている。私が3歳の初節句に用意された人形たちだ。いつのまに、私は老婆になったのだろう。別にすべてを忘れる天の羽衣など身にまとう必要もなく、周囲の皆もひとりまたひとりと去ってゆき、互いに忘れ、忘れられてゆく。そして白い骨になる。愛らしい雛飾りを前に、老いる身の来し方行く末を思うなんて、さても冷たき心よと疎まれるだろうか。いや、そういうことでもないのだけれど。
雛飾り。あなたたちをあと何回飾ってあげられるだろう。古い物語のように永遠に歳取らぬ君よ。
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by kokoro-usasan
| 2024-03-04 13:15
| 日々
閉じられていないもの
by kokoro-usasan
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