|
2012年 05月 25日
「指は心から一番離れた場所にある」 きのう、たまたま読んだある方のエッセーの冒頭の一行です。胸を射抜かれたような衝撃でした。エッセーはそのまま、わたしの衝撃とは無関係に展開してゆくのですが、わたしには、この一行だけで十分で、ここしばらく、繰り返し、その言葉を思い出すことになりそうな気がします。 「指は心から一番離れた場所にある」 その心から一番離れた場所にある指が、愛しい人の両頬を優しく包み込み、可愛い我が子に生きるための食べ物を与えます。と、同時に、心から一番離れた場所にある指が、弱きものを無慈悲に指差しては貶め、おのれの激情と欲によって人をあやめることもするのです。 心から一番離れた場所に指があることは偶然なのでしょうか。心そのものは目に見えないけれど、指ならば見えます。「わたしは、おまえが見えるところに、おまえの指を創った。その指先になにをあふれさせるか、なにをとどけるか、つまり、その指でなにをするか、おまえはいつでもその目で見ることができる。わたしは、おまえをそのように創った。その意味を考えるのは、おまえに任せよう」大いなる誰かにそう言われたような気がして、わたしの心は立ちすくんだのでした。 2012年 05月 24日
佐賀平野はまさに麦秋の時を迎えています。田畑の畔には、薊の花がきれいですよ。去年の今ごろ、一緒に小石川の植物園を散歩した九州の友人から、こんな薊の花の絵が入った陶器とともにお手紙が届いた。3人の息子たちが今年の春、全員、家を出て、「27年間にわたる子供たちとの生活から開放された割には感動もなく、ちょっとくたびれた肉体と大人になりきれなかった私こと個人が残りました」と記されていた。 大学を卒業した年の6月に彼女は母になった。卒業式には身重で、その日の彼女をわたしは知らない。わたしは大学を中退していたから、卒業式を終えた男友達二人に誘われて、六本木でしんみりとしたお酒を呑んでいたけれど、彼女のほうは、おそらく同じクラスの学生だったご主人たちや、そのたくさんの仲間たちと、卒業記念の会に参加していたはずだ。あの年から27年なのだ、と思う。 今はもう立ち入り禁止区域になってしまった福島の実家で彼女は最初の赤ちゃんを産んだ。雨の日だった。手紙をやりとりしながら、この命がこれから育つには、たくさんの時間がかかることを、彼女もわたしも、なにかもう途方もなく遥かな先の話であるかのように思い、嬉しさの中にも切ない溜息をもらしあった。その切なさの中身は、ありていに言えば、彼女の人生が今後、キャリアを持つ女の道のりでも、幾つもの恋愛を経験する若い女の暮らしでもなく、まず「母親」として存在しなければいけないこと、そしてそれは途中で放棄するわけにはゆかないものと思うがゆえの切なさでもあった。「子育てが終ったら、また、あなたと一緒に、娘の続きのように自由な時間が過ごせるようになるわよね。そのときはつきあってくれる?」と彼女はわたしに言った。「もちろん」とわたしは答えた。でも、なんだか、わたしには、そんな時が本当にくるとは想像できなかった。言い換えれば、20年、30年という歳月が自分に流れるのだということが想像できなかったということかもしれない。 今となってみれば、彼女のほうが、その年月をわたしが独身で過ごしたことを感慨深く思うものらしい。亡羊として漂うばかりの27年の思い出は、他者とほとんど共有することのない、わたしだけの思い出ばかりで、わたしの記憶が散逸すれば、それで消える。でも、今、彼女が言う。これから、「あなたと行きたいところが、沢山あります」と。 「息子が生まれました。雨が降っていました」という彼女の手紙を読んだ日の自分が心に蘇る。 こんなに歳をとったのに、こんなに何も変わっていないように思う、その変わっていないものがなになのか、掌に載せて見ることができたらいいのに。それができるなら、そっと胸にあてて、よかったね、と言ってあげたい。 嬉しく思うのは、成長した彼女の息子さんが、わたしを、親しく思ってくれていることだ。友人の子供に慕われるという幸せがこんなふうにあまずっぱいものだとするなら、親として慕われる幸せはいかほどのものだろうかとさらに思う。 2012年 05月 21日
日が長くなりました。これから、夏がくるのでしょう。夏の季節感は好きなのですが、暑さは体力的に苦手です。先日、会議の際、すこし薄着をしていったら、同僚に、「痩せた?」と言われ、「ぜんぜん」と答えました。ところが、横から、他の同僚が、「このひとは、夏になると、いつも、しゅっと、1割がた、細くなるのよ。毎年、そうだもの。」と、ちょっと自慢げに説明したので、こちらがびっくりしました。そういう自覚がなかったからです。よく見ているものだなぁと思いました。今週は、健康診断。気が重い。去年は、ついに「ショック死するぞ」と脅された貧血の数値が、食生活の涙ぐましい努力によって、元気なヘモグロビンで満ち溢れてくれているといいのですけど。今日は、月一回ある、母のケアマネさんの訪問日で、母の生活の質を落とさないためにこれからも色々考えてゆきましょうと促されながら、来月の計画書に判を押したのでした。 空は晴れていました。 深夜の電話 池澤夏樹 二歳の子供は寝相がわるい ふとんの上を一晩中 あっちへこっちへ動き回っている 午前三時 たまたまその足の裏が こちらの耳に押し当てられる 受話器のように もしもし? もしもし? 返事はない でも小さな足の裏から ケラケラと笑う子供たちの声と 水を蹴って走る足音が聞こえる 海の風の匂いがする あちら側は晴れ 群青の空と 純白の積乱雲 2012年 05月 20日
普段はまったく利用しない職場の自販機で、「とろけるミルク杏仁」なる新顔を買ってしまったのは、その日、とても疲れて、熱っぽく、なにか冷たくて甘いものが欲しかったからだと思う。とろりと甘いそれは、その要求を過不足なく満たしてくれた。飲み干して一息ついていると、自販機の前で、先輩と後輩らしい若い男性がふたりで話しているのが、そのまま聞こえてきた。「おい、おまえ、どれにするんだ」「だから、先輩、おれ、喉渇いてないっす」「そんなことないだろう、飲めよ」「いや、まじで・・・」「飲め。どうだ、これにしろ、とろけるミルク杏仁」「やー、それだけは勘弁してください。おれ、ほんと、喉渇いてないっす」「とろけるミルク杏仁だぞ」「いや、ほんと、勘弁してください」 「とろけるミルク杏仁」を味わったばかりのわたしには、このふたりの押し問答は、なにか他人事とは思えず(?)、じっと、聞き耳を立てていたのだけど、この会話、いきなり、急展開を遂げる。 「飲めったら、飲めよ。おれの言う事がきけないのか」「いや、そんなことはありませんけど、でも・・・」「おまえな」「はい」「おまえ、女、いるのか」「えー。なに言ってるんですか、先輩。いないです」「そうか。そうだろうな」「なんですか、それ」「いや、そうだろうな。そうか、とろけるミルク杏仁はいやか。まぁ、いいや。それじゃ、水にしろ、水」「ひどいなぁ。だから、買っても、飲みませんからね」「買えば、飲むさ。(ゴトン、と、ペットボトルが取り出し口に落ちる音)ほら、持てよ。おまえのだ」「いやぁ、飲みたくないなぁ」「飲め」 こうして、ふたりは、自販機を離れて行った。わたしは、自分の机の上の空になった「とろけるミルク杏仁」を手にとると、「おまえ、女、いるのか」という唐突な先輩の問いかけがなんだか可笑しいし、「いないです」と即答した後輩も面白いと思いながら、へんな二人って、くすっと肩をすくめたのだった。 本棚のすみで、ずっと読み止しになっている「死の欲動 臨床人間学ノート」(熊倉伸宏著)を、やっぱり、そろそろ読もうと思う。明日の朝は、金環日食なのだとか。わたしは、闇が見たいので、メガネは要らない。 ※こんなところで不躾ですが、Mさん、本を送ってくださってありがとう。楽しみに読ませていただきます。 2012年 05月 19日
1975年の今日5月19日、東京には氷雨が降ったそうです。それから37年の月日が流れ今日は快晴。5月の風が梢を揺らし、光となって空を翔け巡りました。ということは、三菱重工ビル爆破事件の犯人として大道寺将司が逮捕されてから、37年経ったということになります。1987年に死刑が確定した彼は、今も、死刑囚として獄中にあります。 テレビのない生活をしているせいか、新聞のテレビ欄もほとんど見ないため、この大道寺将司を特集したNHKの番組も知らないまま過ぎてしまいました。辺見さんが彼の全句集を出すために尽力されていたのは知っていたのですが・・・。今日になって、たまたま、そのことを知り、残念に思いながら、本棚にある大道寺将司の第二句集「鴉の目」を手に取りました。 大道寺将司の母、大道寺幸子さんは、彼が生後1年になるころ、彼の父親と再婚したかただそうで、彼の実の母親ではなかったのだそうです。ベトナム戦争などを契機に、社会正義という机上の観念にとらわれて、いつのまにか、手段を選ばぬテロリストになっていってしまった息子が、その事件を起こした日から、幸子さんは、温情の余地のない極悪テロリストの母として、その人生を送ることになったといえるでしょう。けれど、どんなときも、獄中の彼に面会を続けたのも、この幸子さんだったといいます。彼が、罪への自責の念の中で、俳句をつくることを覚え、手紙にそれを添えるようになったときも、その心の変化を一番喜んだのは幸子さんだったかもしれません。 2004年5月初旬、「5月19日に面会にゆきます」と幸子さんは、息子への手紙に書きました。けれど、幸子さんが、彼の面会に来ることはもう叶いませんでした。享年83歳だったそうです。わたしは、大道寺将司という人物を考えるとともに、この幸子さんの人生を思わずにはいられません。 「せめて、逆縁にはならなかったことだけが救いでした」という控えめな言葉しか、この死刑囚の息子には言えませんでした。なぜなら、自分があやめてしまった人たちの家族のことを思えば、自分の家族の死を大袈裟に悼むことなどできる立場ではないと思うからでしょう。 そして、それを、逆照射するなら、そのようにして、幸子さんはこの世から遇されて生きたということでもあります。でも、何故でしょう。天邪鬼だからでしょうか。幸子さんのことを思うとき、わたしも、「母」というものになってみたかった、と思うのです。 母死せるあした色濃き額の花 大道寺将司 |
アバウト
最新の記事
カテゴリ
以前の記事
2012年 05月
2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 検索
ファン
| ||||||||||||||||||||||||||||